Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
おこがましいですが、三重県伊賀出身の大先輩の俳諧師・松尾芭蕉の俳句や能楽の観阿弥・世阿弥や探偵小説の江戸川乱歩等の切手・写真
松尾 芭蕉は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師です。

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地元出身の松尾芭蕉の俳句等の切手と観阿弥・江戸川乱歩関連の写真

 地元の三重県伊賀出身の大先輩の俳諧師 松尾 芭蕉の俳句や名張市では能楽の観阿弥・世阿弥や探偵小説の江戸川乱歩等の地元出身者に関連するものを中心に整理しました。 松尾 芭蕉は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師です。
 俳句の特徴は、@五・七・五の「韻律」で詠まれる定型詩である。Aたいてい「季語」が入る。B一か所、必ず「切れ」がある。 C余韻を残す。 です。地元では子供も含めた俳句会もあります。 能楽大成者 観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。その後、足利三代将軍義満の絶大な庇護を受け「能楽」として京の地で開花し、伝統芸能の一つの頂点になりました。 これも毎年市役所で薪能が開催されます。 日本の探偵小説を創始した作家、江戸川乱歩は、明治27年(1894)、名張の町に誕生しました。 生後まもなく転居したせいで、乱歩にとって名張は「見知らぬふるさと」でありつづけましたが、晩年になってようやく「ふるさと発見」が果たされ、昭和30年(1955)には名張市民の手で「江戸川乱歩生誕地」碑が建立されました。 観阿弥と江戸川乱歩に関しては「名張・昨今(三重県西部)のご紹介 (イメージ 〜 文化)」で紹介しています。 伊賀地方/地震の記憶
 

 

<句意> は、三省堂・新明解シリーズ「奥の細道」(桑原博史監修)、岩波文庫「芭蕉 おくのほそ道」(萩原恭男校注)より

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俳句(松尾 芭蕉)「奥の細道」

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文が『奥の細道』です。 元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。 「奥の細道」の旅程 は、以下の通りでした。  →1 江戸、旅立ち 、→2 栃木県日光 、→3 栃木県大田原市黒羽 雲巌寺 光明寺 、→4 栃木県那須 温泉神社 殺生石 、→5 福島県白河の関 、→6 宮城県多賀城 、→7 宮城県松島 、→8 岩手県平泉 、→9 山形領 立石寺(山形市山寺) 、→10 山形県新庄 、→11 山形県鶴岡市出羽三山 、→12 山形県鶴岡 、→13 山形県酒田 、→14 秋田県象潟 、→15 越後 出雲崎(新潟県) 、→16 新潟県糸魚川市・市振(いちぶり)の関 、→17 越中 那古の浦(富山県) 、→18 石川県金沢 、→19 石川県小松 、→20 加賀 片山津(石川県) 、→21 石川県加賀市山中温泉 、→22 石川県小松 那谷寺 、→23 石川県大聖寺 熊谷山全昌寺 、→24 福井あわら市 吉崎 、→25 福井県敦賀 、→26 岐阜県大垣

●行春や 鳥啼魚の 目は泪(芭蕉、句の書) 東京・上野谷中

●あらたうと 青葉若葉の 日の光(華厳の滝) 栃木・日光

俳句(芭蕉)「奥の細道」●行春や鳥啼魚の目は泪(芭蕉、句の書) 俳句(芭蕉)「奥の細道」●あらたうと、青葉若葉の日の光(華厳の滝)

<句意> 暮れて行く春に(に自分も旅立ってゆく)。(その悲しさに)鳥も鳴き、魚も目に涙があふれていることよ。

<句意> ああ、実に尊く感じられることよ。(この)青葉若葉にそそぐ(燦々<さんさん>たる)日の光は。

●野を横に 馬牽むけよ ほとゝぎす(ほととぎす)
 栃木・大田原

●田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな(柳陰)
 蘆野(栃木・那須)

俳句(芭蕉)「奥の細道」●野を横に馬牽むけよほとゝぎす(ほととぎす) ●田一枚植ゑて立ち去る柳かな(柳陰)

<句意>野を横切ってほととぎすが(鳴いて飛び去った)。(馬子よ、あの鳴き声の方へ)馬の首を引き巡らせよ
那須湯本の殺生石で詠んだものではなく、馬に乗って那須湯本へと向かう途中に、馬の手綱を引く男に頼まれて詠んだ句。

<句意>(西行法師が立ち止まったゆかりの柳の陰に私も立ち止まって、早乙女たちが)田を一枚植え終わるのを待って、(私は)柳のもとを立ち去った。
江戸時代、芦野は旗本芦野氏三千石の城下であり、奥州街道の宿場町でした。が、明治になり開通した鉄道も国道もこの地を通らず、宿場は没落。今は平凡で静かな田舎町です。

■西行(1118-1190)は平安時代末、鎌倉時代初頭の歌人。若くして出家したのち草庵をむすんで修行につとめるとともに、漂泊の旅を繰り返し、1144年と1186年には陸奥を訪れています(伝説めいたところも多分にあるようですが)。このあとで紹介させていただく白河の関、武隈の松、松島、象潟なども西行ゆかりの地。 芭蕉の西行に対する敬慕は深く、旅から旅へとさすらった西行への強いあこがれが芭蕉を『奥の細道』の旅へと駆り立てたことは、想像するに難くありません。
■殺生石は、那須湯本温泉の源泉「鹿の湯」の北側に、山肌がむき出しとなった「賽の河原」の谷あいがあり、この奥に那須火山が噴き出した巨石がいくつか見られる。旧跡「殺生石」は、その内の1つ。全身を金色の毛で覆い、九本の尾をもつという伝説の妖狐「白面金毛九尾の狐」が化けた姿と伝えられる。

●世の人の 見付ぬ花や 軒の栗(栗の花) 福島・須賀川

<句意>世の人の目には留まらない栗の花、その栗の花を愛し、軒端(のきば)に咲かせているこの庵の主人は、世に隠れ住んで、世の人の目には留まらない、いかにもゆかしい人であるよ

■俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。松尾芭蕉の登場により冒頭の発句の独立性が高まり、発句のみを鑑賞する事も多く行われるようになり、明治時代に成立した俳句の源流となる。時に作者個人の創作たる発句を完全に独立させた近代文芸の俳句と同一視される。専門的に俳諧に携わるひとを「俳諧師」と呼ぶ。

俳句(芭蕉)「奥の細道」●世の人の見付ぬ花や軒の栗(栗の花)

●早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺 (早苗、早乙女) 福島・信夫

●まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉の花(紅花)
 山形・尾花沢

俳句(芭蕉)「奥の細道」●早苗とる手もとや昔しのぶ摺 (早苗、早乙女) 俳句(芭蕉)「奥の細道」●まゆはきを俤にして紅粉の花(紅花)

<句意>稲の苗を扱う手許の風情も古代めいて見える陸奥の田植風景。信夫もじ摺りを扱う手さばきが忍ばれることだ。
阿武隈川を岡部の里にて船で渡り、信夫文字摺石を見物。源融<みなもとのとおる>と土地の長者の娘虎女との悲恋伝説のある「虎が清水」などを見てから、月の輪の渡しで再度阿武隈川を渡って瀬の上に出た。

<句意>紅粉の花は、(女性が化粧をするときに使う)眉掃きの形を思わせる咲き方をしていることだ
山形というと何かにつけ「紅花」。

 

●あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒(あやめ草) 宮城・仙台

●夏草や 兵どもが 夢の跡(懐古) 岩手・平泉

俳句(松尾芭蕉)「奥の細道」●あやめ草足に結ばん草鞋の緒(あやめ草) ●夏草や兵どもが夢の跡(懐古)

<句意>餞別に頂戴した紺の染緒の草鞋は、この端午の節句の菖蒲(しょうぶ)に縁がある。邪気を払う菖蒲を、旅人である私は足に結んで無事を祈ろう。

<句意>(今こうして高館に立ってみると、目の前には)夏草が生い茂っているなあ。(ここはかつて義経以下の)兵士たちが功名を夢みて奮戦した跡なのだ(しかし、その功名も虚しく一場の夢と消え去り、草ぼうぼうたる廃墟と化している)。

●閑さや 岩にしみ入 蝉の声(山寺) 山形・立石寺

●さみだれを あつめて早し 最上川 (最上川) 山形

俳句(芭蕉)「奥の細道」●閑さや岩にしみ入蝉の声(山寺) ●さみだれをあつめて早し最上川 (最上川) 芭蕉 奥の細道

<句意>なんと静かなことであるよ。(この静寂のなかで)で蝉の鳴き声だけが岩のなかにしみ入っていくように感じられる。
この句の「蝉」はニイニイゼミであるというのが定説だそうです。

<句意>(山野に降り注いだ)五月雨をあつめて(漫々と水をみなぎらせ)すさまじい勢いで流れて行く最上川であることよ。
芭蕉がこの付近を旅したのは、現在の暦で7月中旬、梅雨も末期。あまりにも有名な句です。

●雲の峯 幾つ崩て 月の山(月山) 出羽三山

●象潟や 雨に西施が ねぶの花(ねぶの花)
 秋田・象潟

俳句(芭蕉)「奥の細道」●雲の峯幾つ崩て月の山(月山) ●象潟や雨に西施がねぶの花(ねぶの花)

<句意>入道雲がいくつもいくつも沸き上がってはその姿を崩して行く。そういう千変万化する世界の中で月山がすっくと不動の姿で屹立している。

<句意>象潟の雨に濡れて咲いている合歓<ねむ>の花は(かの美女の誉れ高い)西施が(目を閉じて)眠っているかのような趣である。

■月山(がっさん)は、山形県のほぼ中央、出羽丘陵の南部に位置する火山。標高1984m。蜂子皇子が開山した。内陸の村山盆地側から見た円かな山容は楯状火山をイメージさせるが、頂上付近の火山岩(輝石安山岩)や雨告山中央火口丘(周囲は爆発カルデラ地形)の存在は成層火山を支持するものである。
■象潟(きさかた)とは、秋田県にかほ市(旧由利郡象潟町)の地名。あるいはそこにあった潟湖。国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地。紀元前の鳥海山の大規模な山体崩壊によって発生した流れ山が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々が出来上がった。やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖が出来た。そして小さな島々には松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形が出来上がった。東西の長さは20町(約2,180m)、南北の長さは30町(約3,270m)をそれぞれ超える程度であった。江戸時代までは、九十九島・八十八潟が景勝地となり、「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の『奥の細道』(1689年)でも「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と評され、「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠まれた。

■松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。松尾家は農業を業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。
『奥の細道』(芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文)の旅の初め千住に滞在した日数が多いのに『奥の細道』には消息がないため、隠密としての任務を受けに行っていたのではないかとの憶測と出生地伊賀との関係、当時の日本人としては異常な速さの歩き方などから忍者ではなかったかという在野の説もある
その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。

●荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)(荒海)
 直江津

俳句(芭蕉)「奥の細道」●荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)(荒海)

<句意>日本海の荒海の彼方にほの見える佐渡の上空に横たわる雄大な天の川のきらめき
詠んだ場所については諸説あるが、出雲崎付近と思われ、元禄2年(1689)旧暦7月7日(七夕)の夜、越後(新潟)直江津の句会で披露された。芭蕉46歳。

●わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)
 富山・放生津八幡宮

●あかあかと 日は難面(つれな)くも 秋の風(赤映)
 新潟・新潟

俳句(芭蕉)「奥の細道」わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ) ●あかあかと日は難面(つれな)くも秋の風 赤映

<句意>(早稲の香が、ムっと漂い、重く垂れさがった稲穂の道を分けるように進むと右手に 有名な景勝地である、有磯海(富山湾)や雨晴海岸が見えてきたよ

<句意>強い日射しが容赦なく照りつけ、残暑はなお厳しい中にも、寂しい秋風の気. 配が漂いはじめ、長旅の旅愁をいっそうつのらせる。元禄二年(一六八九)四十六歳の作

●石山の 石より白し 秋の風(那谷寺(なたでら)) 石川・小松

●月清し 遊行のもてる 砂の上(月光) 福井・敦賀

俳句(芭蕉)「奥の細道」●石山の 石より白し 秋の風(那智寺) ●月清し 遊行のもてる 砂の上(月光)

<句意>那谷寺境内の白く曝れた石山を吹きめぐる蕭殺たる秋風は、この石山の石よ. り白々として、底知れぬ物悲しさを帯びていることよ。 元禄二年(一六八九)四十六歳の作

<句意>(昔、遊行上人二世他阿上人に始まってから、歴代の)遊行上人が持ち運んだという(神前の)砂の上に差している月光は、ことさら清らかな感じを与えることだ。

■那谷寺(なたでら)は、石川県小松市に所在する仏教寺院。高野山真言宗別格本山。那谷寺(なたでら)は、石川県小松市に所在する仏教寺院。高野山真言宗別格本山。 元禄2年(新暦1689年)奥の細道の松尾芭蕉は弟子の河合曾良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、奇岩霊石がそそりたつ遊仙境の岩肌を臨み句を詠む。

●寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋(浜の秋) 敦賀・色の浜

●蛤の ふたみへ別れ 行く秋ぞ(はまぐり) 岐阜・大垣

俳句(芭蕉)「奥の細道」●寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋(浜の秋) ●蛤の ふたみへ別れ 行く秋ぞ(はまぐり)

<句意> (昔、遊行上人二世他阿上人に始まってから、歴代の)遊行上人が持ち運んだという(神前の)砂の上に差している月光は、ことさら清らかな感じを与えることだ。

<句意>蛤の(離れがたい)ふたと身とが別れるように尽きぬ名残を惜しみつつ、(私は伊勢の二見ガ浦へと出発することになったけれども)秋もまた去ろうとしている。
 

■大垣は戸田氏十万石の城下町。また陸路(美濃路)と水路(水門川)が通じる物資の集散地であり、西濃地方最大の都市として繁栄しました。左写真は水門川と大垣のシンボル住吉灯台。かつての賑わいを偲ばせます。 芭蕉は八月二十一日(陽暦10月4日)頃に大垣に到着。芭蕉にとって大垣は幾度か訪れたことのある地。未知の地を巡る旅であった「奥の細道」の旅も、ここ大垣が結びの地ということになりました。
■芭蕉の著名な句(掲載の中の句は省略)
 古池や蛙飛びこむ水の音
  (ふるいけや かはずとびこむ みずのおと)
 名月や池をめぐりて夜もすがら
  (めいげつや いけをめぐりて よもすがら)
 花の雲鐘は上野か浅草か
  (はなのくも かねはうえのかあさくさか):東京都
 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
  (はつしぐれさるもこみのをはしげなり):三重県伊賀市
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
  (たびにやんで ゆめはかれのをかけめぐる):辞世

 

■三重県では色々な場所で松尾芭蕉の銅像が見れます。

松尾芭蕉像(伊賀市伊賀支所

松尾芭蕉像(伊賀市伊賀支所

■歴史|天正伊賀の乱の索引 [ 天正の乱以前(平安時代に4鬼を使った藤原千方 他)|第一次天正伊賀の乱(百地三太夫,石川五右衛門 他)|第二次天正伊賀の乱(伊賀忍者・服部一族・・・)|その後(忍者の末裔? 観阿弥、芭蕉 他) ] 織田信長と伊賀忍者
□「Haiku and stamps(Introducing Haiku Poets . . . . . WKD) 」俳句・
 

松尾芭蕉と伊賀上野城  伊賀上野城と俳聖殿

三重県上野市は、旧伊賀国の国府が置かれ、その後も城下町、伊賀一円の行政・経済・文化の中心地として栄えた都市です。 「秘蔵のくに(国)」については、慶長13(1608)年に、徳川家康が大坂の豊臣勢に対する戦略上の配慮から東西交通の要の一つであるこの地に藤堂高虎を封じ、本格的な市街地を形成させた際、高虎が城の大修築を行うに当たって「伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠とすべし」と言ったとされることに由来します。「伊賀上野城」は、天守閣は復原されたものですが、白い城壁が美しく、別名「白鳳城」とも呼ばれており、高虎が築いた石垣の高さは、30メートルに及び、日本一といわれています。 また、同市は、江戸時代の俳人松尾芭蕉の生誕の地であり、芭蕉に関する建造物、資料等が多く存在するほか、伊賀流忍術に関する資料を集めた「忍者屋敷」、荒木又右衛門の伊賀越仇討ゆかりの「鍵屋の辻」などがあって往時の面影を色濃く残しており、多くの観光客が訪れています。

「秘蔵のくに・伊賀上野」(芭蕉の生誕地・隣町) 切手 伊賀上野城 と芭蕉

服部一族の氏神・花垣神社
の入口の芭蕉の句碑

■「一里<ひとさと>は 皆花守の子孫かや」 芭蕉翁  三月下旬頃、芭蕉はここ花垣庄を訪れ、古の風雅を偲び、土地の人に挨拶の意を込めた即興句。句意は、「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人が宿直をして桜の花守をしたという由緒深いところである。今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫なのであろうか。」 「案内板より」

伊賀市にある俳聖殿
Haiseiden , Iga City

近鉄・伊賀市駅前の芭蕉
の銅像

俳聖殿 近鉄・伊賀市駅前の芭蕉の銅像

Haiseiden , Iga City
An octagonal hall shaped by Basho's traveling attire, with a roof of Japanese cypress bark. In the hall is an Iga ceramic statue of Basho. It has been designated a city cultural asset. It was constructed in 1942 for the 300th anniversary of Basho's birth. The statue of Basho is open for viewing only for the Basho Festival, held on October 12.
 

芭蕉の生誕の地(史跡):出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説 と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。

芭蕉の生誕の地(史跡)

芭蕉の生誕の地(史跡)

滋賀県大津の義仲寺
俳人松尾芭蕉の墓

義仲寺の境内の句碑

義仲寺の境内の「行く春を近江の人とおしみける」の句碑

義仲寺(ぎちゅうじ)は、滋賀県大津市馬場にある単立(天台宗系)の寺院。山号は朝日山。本尊は聖観音菩薩。この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。翁堂は、正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には36俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図(翁堂の天井には、伊藤若冲筆「花卉(かき)図天井画」(15面))である。翁堂は蝶夢法師が明和6年(1796)10月に再興。翌7年に画像完成。安政3年(1856)類焼、同5年再建。現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。

義仲寺の境内の句碑

義仲寺の境内の句碑

義仲寺の境内の句碑

伊賀市 福地城跡の遠景
「芭蕉翁生誕之地」
柘植,

「芭蕉翁生誕之地」の碑
(柘植 福地城本丸)

福地城跡本丸の芭蕉の句碑 
「古さとや臍の緒に泣くとしの暮 はせを」

福地城跡本丸の
芭蕉の句碑

「芭蕉翁生誕之地」の碑(本丸) 福地城跡本丸の芭蕉の句碑 福地城跡本丸の芭蕉の句碑

上野天満宮・芭蕉の句碑

上野天満宮は、かの俳聖松尾芭蕉が、伊賀藤堂家に仕官していた武士の身分を捨て、俳諧で身を立てることを決意した時に、自分の文運を祈願して「貝おほい」という作品集を奉納した神社としても有名です。寛文12年(1672年)のことだったそうです。

俳諧古選(柘植)

芭蕉句選(柘植)

俳諧古選(柘植) 芭蕉句選(柘植)

芭蕉

芭蕉の紀行の様子

松尾芭蕉の松尾半左衛門宛自筆の遺書(柘植)

芭蕉の紀行の様子 松尾芭蕉の松尾半左衛門宛自筆の遺書(柘植) 松尾芭蕉の松尾半左衛門宛自筆の遺書(柘植)

御先ニ立候段残念可被思召候。如何様共又右衛門便二被成、御年被寄、御心静二御臨終  可被成候。至爰申上る事無御座候。市兵へ・次右衛門・意專老を初、不(残)御心得奉頼候。中二も十左衛門・半左殿右之通。 はゝ様・およし力落し可申候。以上
          十月十日                桃青
   松尾半左衛門様  新蔵ハ殊二骨被折忝候

わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。

Minomushian(蓑虫庵) , Iga City
Of all of the grassy thatched huts that are connected with Matsuo Bash?, Minomushian is the only one that still exists today. When he returned to Ueno in 1688, he wrote a haiku poem about the hut where his pupils would visit him. The haiku read, "Come and listen/To the voice of the bagworm/The grassy thatched hut." From that point onward, the hut was called Minomushian or "Hut of the Bagworm Moths." Within the tranquility of the garden, Bash? wrote his most well-known poem, "The old pond/ A frog jumps in/ The sound of water," which is inscribed along with his other haiku poems on stone tablets that are lined up around the area.

能の観阿弥・世阿弥

田村(能楽)

■「田村」は、坂上田村麻呂を主人公にして、清水寺創建の縁起物語と田村麻呂の蝦夷征伐を描いた作品である。観阿弥・世阿弥が作った能楽です。坂上田村麻呂は8世紀の終わりから9世紀の初めにかけて、 奥州の蝦夷(エミシ)征伐を敢行した将軍です。先祖は東漢(やまとのあや)渡来人ともいわれ、後世には様々な 伝説に包まれております。

葵上(あおいのうえ、能楽)

観阿弥創座の地

田村(能楽) 日本の古典芸能 葵上(あおいのうえ、能楽) 観阿弥創座の地

能楽大成者 観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。その後、足利三代将軍義満の絶大な庇護を受け「能楽」として京の地で開花し、伝統芸能の一つの頂点になりました。 現在、名張では年一回薪能が開催され、大勢の見物客で賑わっています。

羽衣(能楽)

観阿弥(かんあみ) 左の写真は、名張市役所にある記念の銅像、
右は名張駅前西口の観阿弥の銅像です。

羽衣(能楽) 名張市役所 観阿弥 能 座 名張駅前西口 観阿弥 能 座

「観阿弥創座の地 なばり夏能」を見てだあこ![名張市役所 平成23年8月8日掲載

江戸川 乱歩

江戸川 乱歩(明治27年(1894年)10月21日 - 昭和40年(1965年)7月28日)は三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれる。大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家である。また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。本名:平井 太郎(ひらい たろう)。筆名はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったもの。日本推理作家協会初代理事長。卒業後、貿易会社社員や古本屋、夜鳴きソバ屋などの仕事を経た後、大正12年(1923年)、『新青年』に掲載された「二銭銅貨」でデビュー。

江戸川乱歩の二銭銅貨
のせんべいを販売。

名張駅西口にある
江戸川乱歩の銅像

名張市内にある「江戸川乱歩生誕の碑」

名張 江戸川乱歩 二銭銅貨

名張駅西口にある江戸川乱歩の銅像 名張 江戸川乱歩 誕生 名張 江戸川乱歩 誕生

『二銭銅貨』は江戸川乱歩による短編推理小説で,1922年に執筆され、1923年、雑誌『新青年』(大正12年4月号)に掲載された。この作品で乱歩は評判になり、作家として生計をたてていけるようになった。後の活躍の出発点ともいえる重要な作品。日本最初の本格探偵小説ともいわれています。少年探偵団シリーズの1つに、同名の『二銭銅貨』で若年層向けにリライトした作品がある。探偵役も無名時代の明智小五郎ということになっています。


※伊賀市は、2004年(平成16年)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町、阿山町、大山田村、島ヶ原村、名賀郡青山町の6市町村が合併(新設合併)して誕生した市です。

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地元伊賀地方出身の松尾芭蕉の俳句等の切手と観阿弥・江戸川乱歩関連の写真

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