Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
日本の美術・工芸品切手|日本の国宝や重要文化財、伝統工芸:Japanese traditional crafts.
蒔絵(まきえ)、仏像・鉄器・漆器・磁器・陶器・織物・人形・灯篭・彫り物・土偶 他。

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日本の国宝や重要文化財、伝統工芸に関する切手

 日本の国宝や重要文化財、伝統工芸に関する切手のページです。飛鳥時代以降の国宝や重要文化財を中心に掲載。蒔絵(まきえ)は、漆芸の技法の一つである。他には仏像・鉄器・漆器・磁器・陶器・織物・人形・灯篭・彫り物など日本では非常に有名なものを整理してます。国宝・舟橋蒔絵硯箱(本阿弥光悦) 国宝・片輪車蒔絵螺鈿手箱 葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱 五絃琵琶「螺鈿紫檀五絃琵琶」(正倉院宝物、奈良時代) 国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱 尾形光琳作などです。国宝の中の一部(姫路城、犬山城、金剛三昧多宝塔、厳島神社、室生寺五重塔、玉虫厨子など)は日本の世界遺産の頁(日本全体、奈良、京都)や建築物に、絵画などは別の頁「日本の絵画」や「浮世絵」や広重・北斎の頁で掲載中。Japanese traditional crafts.
■参考:国宝の指定件数(2008年(平成20年)指定分までを含めた国宝の指定件数)は、建造物 214件(262棟)、美術工芸品 862件( 絵画 157件、彫刻 126件、工芸品 252件、書跡・典籍 223件、古文書 59件、考古資料 43件、歴史資料 2件)
 

 

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仏像・彫刻・印章・鏡

国宝・金印

■金印:「建武中元二年(57)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。」 光武は後漢を建国した光武帝。天明四年(1784)、筑前国那珂郡役所に志賀島の甚兵衛という百姓が、田んぼの中から金印を発見したと届け出た。亀井南冥は持ち込まれた金印を見て、この後漢書の記事に思い当たったわけで、彼の博識と慧眼には感服するばかりである。彼のおかげで、この金印が大変貴重なものであることが日本中に広まり、福岡藩は発見者の甚兵衛に白銀五枚の褒美を与えた。

国宝・神人車馬龍虎画像鏡

■神人車馬龍虎画像鏡:豊後高田市大字草地 鑑堂古墳出土、白銅製、径二〇.五cm、古墳時代。隷書体でもって三九字からなる次の銘文が鋳出されている。「劉氏作竟四夷服多賀国家人民息胡虜殄滅天下復風雨時節五穀孰長保二親得天下大吉利兮」文様の構図が漢の元和三年(八六A.D)銘、永初七年(一一三A.D)銘などの画像右に近い系統であることも年代決定のうえに注意を惹く。

国宝・金印 国宝・神人車馬龍虎画像鏡

国宝・広隆寺の弥勒菩薩

■広隆寺の木造弥勒菩薩半跏像:像高は約123センチ、アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。制作時期は7世紀とされる。広隆寺像は元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。日本に所在する仏教彫刻のうち、もっとも著名なものの1つと思われる。ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を激賞したことはよく知られている。

島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ヶ廻に所在する
加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸(国宝)

国宝・広隆寺の弥勒菩薩 飛鳥時代 国宝 島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ヶ廻に所在する加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸

■島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ヶ廻に所在する加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸
弥生時代、三十九口

指定年月日:平成20年7月10日

国(文化庁)

国宝・重要文化財(美術品)

国宝・迦陵頻伽(日本、1966)

・迦陵頻伽は仏典に登場する半鳥人。迦陵頻伽・迦陵頻迦(かりょうびんが)は上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物。サンスクリットの kalavinka の音訳。『阿弥陀経』では、共命鳥とともに極楽浄土に住むとされる。殻の中にいる時から鳴きだすとされる。その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられ、「妙音鳥」、「好声鳥」、「逸音鳥」、「妙声鳥」とも意訳される。また、日本では美しい芸者や花魁(おいらん)、美声の芸妓を指してこの名で呼ぶこともあった。大徳寺(京都)内に千利休が建立した金毛閣の中に長谷川等伯の筆になる秀逸な迦陵頻伽図がある。 切手は、中尊寺金色堂堂内具のひとつ。平安時代の作。

迦陵頻伽

蒔絵

■蒔絵(まきえ)は、漆芸の技法の一つです。漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金属の薄板を定着させる平文(ひょうもん)(または平脱/へいだつ)や漆器表面に溝を彫って金銀を埋め込む沈金、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿」(らでん)とは区別される。

国宝・舟橋蒔絵硯箱(本阿弥光悦)

国宝・片輪車蒔絵螺鈿手箱

■片輪車蒔絵螺鈿手箱:木製漆塗 縦22.4 横30.6 高13.5。平安朝の工芸を代表する蒔絵の名品。金・青金の研出蒔絵と螺鈿を用いて流水に半ば浸された無数の車輪を描き,内面には金・銀の研出蒔絵で草花や飛鳥を散らしている。いずれも料紙装飾などに使われた当時流行の文様である。なお,この作品は今日では手箱とよばれているが,装飾経を収める経箱として造られたものである可能性が強い。

舟橋蒔絵硯箱(本阿弥光悦) 日本の伝統工芸

■国宝・舟橋蒔絵硯箱:蓋甲を高く盛り上げた独特の姿をみせる硯箱。箱の外側は全面を金粉を密に蒔いた金地に仕立て,鉛板の橋を斜めに渡し,『後撰和歌集』に収められた源等の歌「東路のさのの(船橋)かけてのみ思わたるを知る人そなき」を銀文字で散らす。

国宝・片輪車蒔絵螺鈿手箱 平安時代

葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱

五絃琵琶「螺鈿紫檀五絃琵琶」(正倉院宝物、奈良時代)

葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱

■葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱:鎌倉にある松岡山・臨済宗円覚寺派・東慶寺の文化財。胴径11.3cm・高さ9.2cm・桃山時代。聖餐で信徒に与える、イエスの肉を意味する聖餅(オスチャ)を入れる容器。蓋にはイエズス会の標章が印されている。IHSの三文字を中心に、上にある花形の十字架と下の三本の釘が円光と、聖光で囲まれている。標章の外側を細かい南蛮唐草文が金蒔絵で縁取っている。

五絃琵琶「螺鈿紫檀五絃琵琶」(正倉院宝物、奈良時代) シルクロード

■五絃琵琶「螺鈿紫檀五絃琵琶」:この琵琶は世界で唯一残る5弦の琵琶で、長さ108センチ、幅31センチ、厚さ8センチ。ラクダに乗って琵琶を弾く人の姿がデザインされている。 螺鈿は、夜光貝やアワビなどの貝殻を加工して木地などにはめ、研ぎ出す装飾技法。北村さんの検証によると、琵琶を弾く人やラクダなどは厚さ2ミリ程度の夜光貝で表現。人の足、敷物部分は縦5センチ、横3・9センチ、ラクダの下半身などの部分は縦6・1センチ、横2・5センチの大きさの貝が使われ、これらは宝物中でも最大級の貝になるという。

国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱(日本,1955年、尾形光琳作) 国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱

国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱 (日本、1955年) 尾形光琳 作 国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱 尾形光琳 作

■八橋蒔絵螺鈿硯箱、尾形光琳作:縦24.2p,横19.8p,高11.2p。『伊勢物語』八橋の段に取材した燕子花と板橋の意匠を,蓋の表と四つの側面にあらわした硯箱。表面の黒漆塗りは艶消しで,花に螺鈿をもちい,葉や茎は金の平蒔絵で描き,橋には鉛の板をはり,杙には銀の板をはめ込んでいる。箱の身は二段重ねで,上段に硯と水滴をおさめ,下段は料紙箱とし,上段と下段の見込みに金の平蒔絵で流麗な波文を描いている。『伊勢物語』第九段、在原業平〔ありわらのなりひら〕東下〔あずまくだ〕りの一節。自らをよけい者とみなして京を離れた業平が、三河国の八橋(現=愛知県知立市)という燕子花〔かきつばた〕の乱れ咲く川辺にたどり着いて望郷の歌を詠んだ場面の情景を描いたもの。

昭和すかしなし切手「らでん模様」正倉院宝物の
花鳥のらでん模様(1949年) クリックで
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第2次新昭和切手「らでん模様」正倉院宝物の花鳥のらでん模様

第2次新昭和切手「らでん模様」正倉院宝物の花鳥のらでん模様

シカ・春日山蒔絵硯箱

シカ・春日山蒔絵硯箱

■春日山蒔絵硯箱(重要文化財、.室町時代 15世紀):足利義政遺愛の硯箱のひとつとして名高い作品である。被蓋造(かぶせぶたづく)りの硯箱を梨子地(なしじ)とし、蓋表に女郎花(おみなえし)や桔梗(ききょう)、薄、”さるとりいばら”が生い茂り、三頭の鹿が佇む秋の野が満月に皓々(こうこう)と照らし出されている様を金研出(きんとぎだし)蒔絵と高蒔絵であらわしている。蓋裏には山中の茅屋(ぼうおく)で鹿の声に耳を傾けているかのような男が描かれている。

鉄器・漆器

■南部鉄器は、17世紀中頃、南部藩主が京都から盛岡に釜師を招き、茶の湯釜をつくらせたのが始まりといわれます。以来、良質な原材料に恵まれたことや、藩が保護育成に努め各地より多くの鋳物師、釜師を召抱えたことで発展を続け、その製造品も茶釜から日用品にいたるまで広い用途に応じていました。有名な南部鉄瓶は、18世紀になって茶釜を小ぶりにして改良したのが始まりで、一般の人にも手軽に用られるようになりました。

南部鉄器

南部鉄器

堆錦椀(ついわんきん)

赤絵枝梅竹文碗

南部鉄器

■黒漆と顔料を混合した堆錦モチと呼ばれるものを伸ばして文様を描く沖縄独特の堆錦技法による。県立博物館蔵。

■赤絵焼は平田典通が中国より1670年に伝えたという。作品は18-19世紀のものとされ県指定文化財。

堆錦椀(ついわんきん) 琉球 赤絵枝梅竹文碗 琉球

輪島塗

■輪島塗の起源にはさまざまな説がありますが、現存する最古の輪島塗は河井町にある「重蔵権現本殿の朱塗扉」で、室町時代の大永4(1524)年の作といわれています。漆器の技法そのものは縄文時代にまでさかのぼることができます。長い時間をかけ、幾世代にもわたって受け継がれてきた技。しかし、それはたんに伝統を守ることだけにとどまりません。創意を重ね、技を磨き、つねに進化と深化を続けてきたのです。たとえば、「輪島地の粉」の発見。これは珪藻土の一種を焼いて粉末にしたもので、漆に混ぜることで頑丈な下地がつくれるようになりました。弱くなりがちな所に布をかぶせる「布着せ」という手法も生みだされました。こうして、輪島塗ならではの「優美さと堅牢さ」を支える、本堅地法とよばれる工法が完成したのです。

輪島塗

磁気・陶器

■九谷焼(くたにやき)とは、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器。大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を 有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。作風は、飯田屋風 天保の頃、宮本屋窯の飯田屋八郎右衛門が焼いた赤絵のものを赤九谷とも言う。 古九谷風 赤・黄・青(緑)・群青・紫の五色を使った重厚な五彩色の構図が特徴である。木米風 赤地の上に中国風の人物画が描かれる。吉田屋風 古九谷風で使われる五色のうち赤色を使わない。青九谷とも言う。
 

九谷焼:石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で
生産される色絵の磁器。

九谷焼 伝統工芸 日本

■伊万里焼は、遡ること遠く江戸時代、鍋島藩の御用窯として、その卓越した技法を守るため、大川内山に優秀な細工人や画工を集め、色鍋島など当時としては技術の粋を結集させて製陶にあたらせたのが始まりです。ここには明治の廃藩に至るまで鍋島の御用窯が置かれていましたが、陶技の秘法を漏らさないよう、大川内山の入口に関所を設け人の出入りを厳しく規制するとともに、焼成された焼物についても市販されることなく将軍家、諸大名への献上贈答品、藩庁用品として用いられ珍重されました。

伊万里・有田焼

伊万里・有田焼 「色絵狛犬」(佐賀県重要文化財)

「色絵狛犬」(佐賀県重要文化財)

伊万里焼・有田焼

砥部焼 Tobe Ware(Ehime)

伊万里焼・有田焼 砥部焼 Tobe Ware(Ehime)

■ In the middle of the 18th century, the local clan head felt that it would be possible to improve clan finances by producing porcelain using a locally found kaolin. Making the most of the warm qualities of the base material derived from locally obtained porcelain stone, this practical yet appealing ware is characterized by the tableware with its bold handpainted designs in a blue glaze, and the celadon porcelain flower vases with their soft coloring obtained by using a natural ash.

■砥部焼(とべやき)は、愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器である。一般には、食器、花器等が多い。愛媛県指定無形文化財。別名喧嘩器とも呼ばれる。 後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと、発展を遂げた。 やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。砥部焼の多くは手作り成形のため、全国的に見ても決して大産地や有名産地ではないが、独特の風合いが愛好家に評価されている。砥部焼は、ややグレーがかった白地に、呉須(ごす)の藍色でシンプルに描かれた文様など、素朴なデザインが特徴的。

染付芙蓉手VOC字文皿 ・・
 長崎・出島のオランダ東インド会社(V.O.C)を通じ、西欧へ輸出されていた有田諸窯の陶磁器の大皿です。(江戸東京博物館 蔵)

染付芙蓉手VOC字文皿

野々村仁清・国宝「色絵雉香炉」

備前焼(伊部焼)

■野々村仁清(ののむら にんせい、生没年不詳)は、江戸時代前期の陶工。通称、清右衛門。京焼色絵陶器の大家。丹波国桑田郡野々村(現・京都府南丹市美山町旧大野村)の生まれ。若い頃は粟田口や瀬戸で陶芸の修業をしたといわれ、のち京都に戻り、御室(おむろ)仁和寺の門前に窯を開いた。国宝 色絵雉香炉:野々村仁清/ほぼ等身大の雉の香炉で、京焼の祖といわれる仁清の彫塑的な作品のうちでも特にすぐれている。上下二つに分かれ、蓋に4個の煙出し孔がうがたれ、胎土はわずかに黄色味をおびている。緑、紺青、赤などの絵具と金彩で、羽毛などを美しく彩った豪華な作品で、尾を水平に保って造形、焼成するなど至難な技が駆使され、緊張感あふれる作となっている。

■備前焼とは、岡山県備前市周辺を産地とする陶器、b器。「伊部焼」とも呼ばれる。同地区で数多く見られる煉瓦造りの四角い煙突は備前焼の窯のものである。平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。当時の主力は水瓶や擂鉢など実用本位のものであり、「落としても壊れない」と評判が良かった。この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。

備前焼

色絵雉香炉(いろえきじこうろ)は、石川県立美術館が所蔵
する野々村仁清作の国宝に指定された香炉である。
野々村仁清・国宝「色絵雉香炉」

薩摩焼400年祭 火計り茶碗、染付鳳凰文広口花瓶

■薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県内で焼かれる陶磁器で、竪野系、龍門司系、苗代川系がある。主な窯場は姶良市の龍門司窯、日置市(旧東市来町)の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯など。「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の磁器と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれる。豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、捕虜として連行されてきた朝鮮人陶工たちが、島津義弘の保護の下に発展させた。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に初出展され、欧米で流行したジャポニスム(日本趣味)に影響を与えた。2002年(平成14年)1月に国の伝統的工芸品に指定された。茶陶や日用陶磁器などに幅広く利用されている薩摩焼が、朝鮮半島から伝来して、平成10年で400年を迎えました。

薩摩焼400年祭

火計り茶碗 : デザイン題材は、薩摩焼が朝鮮半島から伝来した当時の作品である「火計り茶碗」。 背景には東シナ海と登り窯を配しています。  
染付鳳凰文広口花瓶 : デザイン題材は現在制作されている「染付鳳凰文広口花瓶」で、400年の伝来・発展の歴史を表現しています。 「染付鳳凰文広口花瓶」の背景には窯の中で燃えさかる炎を配しています。

その他

国宝 金銅透彫鞍金具

■金銅透彫鞍金具は古墳時代の作です。朝鮮の技術だともいわれています。誉田八幡宮(こんだはちまんぐう、大阪府羽曳野市、応神天皇を祀る。応神天皇陵のすぐ南に鎮座する。)に奉納されています。

■縄文のビーナス:昭和61年、長野県茅野市米沢の棚畑遺跡から出土した約4500年前の土偶は、平成7年に国宝に指定され、日本で最古の国宝となりました。 縄文時代の土偶・土器の感覚を超越した特異なまでに近代的なこの土偶は、人々に感動を与え、いつしか「縄文のビーナス」と呼ばれるようになりました。八ヶ岳連峰を背景に。

国宝 縄文のビーナス

国宝 金銅透彫鞍金具 縄文のビーナス

西陣つづれ織(Nishijin Hand-Woven tapestries)

琉球紅型(びんがた,Bingata)

西陣織 琉球紅型

■西陣織とは、京都の先染め織物をまとめた呼び名。 一般的な「西陣織」と呼ばれる織物の中に、一回一回経糸(たていと)に緯糸(ぬきいと)を通し、爪を使って糸を手繰り寄せ、すべて手作業で織られる「つづれ織」と呼ばれる織物があります。 つづれ織は仏教の伝来とともに日本に伝えられました。つづれ織の起源はエジプトだと言われています。紀元前15世紀の王墓からつづれ織の衣類などが見つかっているそうです。その後、各地に広がっていき、東洋にはシルクロードから伝わったのです。 横糸だけで文様を表現するのがつづれ織です。
Nishijin(西陣) is a district in Kamigyoo-ku, Kyoto, Japan, and (by extension) a traditional textile produced there, more narrowly referred to as Nishijin-ori(西陣織, Nishijin fabric). The origin is said to be Egypt.
Nishijin weaving was created in Kyoto over 1200 years ago by using many different types of colored yarns and weaving them together into decorative designs. The work of the Nishijin weave is present in the traditional clothing of the Japanese Bride. To represent the pattern in the weft only.
■紅型(びんがた,Bingata)とは、沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つ。14世紀の紅型の裂が現存しており、技術確立の時間を考慮すると、その起源は13世紀頃と推定されている。琉球王朝時代は王族や貴族の衣装として染められた。
Bingata (Okinawan: 紅型, literally "red style") is an Okinawan traditional resist dyed cloth, made using stencils and other methods. It is generally bright-colored and features various patterns, usually depicting natural subjects such as fish, water, and flowers. Bingata is worn during traditional Ryuukyuu arts performances and historical reenactments. Bingata dates from the Ryuukyuu Kingdom period (c. 14th century), when the island of Okinawa experienced an influx of foreign goods and manufacturing techniques.

小千谷縮(Ojiya Pongee、おぢやちぢみ)

博多人形

■小千谷縮:新潟県小千谷における麻織物の歴史は古く、縄文時代後期と思われる土器に布目のあとが残されています。小千谷の気候にあった麻織物は評価が高く、将軍へ献上されていました。

ふみ書く博多人形(1979年)

■博多人形(はかた にんぎょう)は、福岡県の伝統工芸品の一つ。発祥は1600年代に博多の町で陶師を営んでいた中ノ子家より転業した中ノ子安兵衛・吉兵衛親子と、小堀流山笠人形の流れを汲む白水家との複合的要因が最も有力とされている。「中ノ子」の苗字由来にはこれまで諸説ある。博多人形は、1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会と1900年(明治33年)のパリ万国博覧会に出品され、その名は国内のみならず、海外でもたいへん話題となった。博多人形は、素焼き土人形。 

小千谷縮 ふみ書く博多人形(1979年)

■小千谷縮は、水分を吸いやすく、吸い込んだ水分を良く発散させるため、すぐ乾燥します。
Ojiya Pongee( 小千谷縮 ,Ojiya tidimi ) The production of this cloth can be broken down into a number of main stages. First of all, the thread is made by hand-spinning silk floss. This becomes the ikat or kasuri pattern and, although the warp is left plain, one of the special features of this cloth is the fact that the pattern is only in the weft. To do this, a 'ruler' or template is made from which to mark off the thread with ink. The dye is then appropriately applied by rubbing it into the yarn with a special spatula. The yarn is dyed, set up on the loom and weaving begins. The position of the ikat threads must be continually monitored as the cloth is woven. Finally the cloth is finished to complete the production process.

■木目込人形(きめこみにんぎょう)は木製の人形の一種。桐塑または木で作られた人形に、衣服の皺や模様の形に本体に筋彫りを入れ、筋彫りに目打ちなどで布の端を押し込んで衣装を着ているように仕立てた人形。 この、筋彫りに布の端を押し込む動作を「木目込む(決め込む)」ということから、木目込み人形と呼ばれるようになった。

江戸木目込人形

博多人形

江戸木目込人形 博多人形

一位一刀彫 Ichii Woodcarving(Gifu)

鎌倉彫

■一位(イチイ)は、 約八百年前(平治元年)天皇即位の際に、飛騨よりこの木で造った笏(しゃく)を献上した所、他の材で作られたものよりも美しく質が高かったので「正一位」という最高の位を与えられた所からこの名がついた。その後学名も一位となり、現在でも天皇即位、伊勢神宮の式典遷宮の際に用いられています。  そのような銘木一位を、一刀一刀に気持ちを込めて彫り上げられた彫刻が一位一刀彫です。

■『鎌倉彫』とは、鎌倉時代から現在まで引き継がれてきた漆塗りの工芸品で、その歴史はなんと700年になります。 12世紀より、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、日本の中心となった鎌倉に集まってきた仏像彫刻師たちにより、寺院で使われる仏具や、香を入れる器を漆塗りの工芸品で作ったことが起源とされており、『禅』の文化の影響を受け、彫りの繊細さと、沈んだ色調の美しさが特徴です。

一位一刀彫 Ichii Woodcarving(Gifu) 鎌倉彫

■出雲石燈ろうは、地元で採れる火山灰が固まって出来た砂岩を原石として、古い時代から作られていました。江戸時代には、土地の城主がその価値を認めて、一般の人々が採ることが許されない「お止石(おとめいし)」として、建材用にも使用しました。宍道町来待(きまち)地区を中心とした東西10kmに広がる砂岩層(凝灰岩砂岩)は来待石(きまちいし)と呼ばれています。採石、加工が容易で、豊富に産出されることから、建築材料、灯ろうなど、古くから良質の石材として利用されてきました。
Izumo stone lanterns have been made for many hundreds of years from a local sandstone that formed from volcanic ash. During the Edo period (1600-1868) Matsudaira Naomasa, the local lord, recognized the value of this craft and placed the stone under a monopoly. The stone was then also used for architectural purposes. Ever since the end of the 19th century, the pieces of stonework for gardens and home have been seen as stone art and are well-known throughout Japan.

出雲石燈ろう Izumo Stone Lanterns(Shimane/Tottori)

京扇子 ( Kyo-Sensu )

出雲石燈ろう Izumo Stone Lanterns(Shimane/Tottori) 京扇子

■扇の始まりは平安時代初期に遡ります。当時使用されていた「木筒」という木の細く薄い板を何枚かつなげて、現在の扇の形にしたものが始まりだと考えられています。薄いヒノキ板を重ね綴ったことから「桧扇(ひおうぎ)」と呼ばれる扇です。次に竹と紙で出来た「紙扇」が作られ、13世紀頃には中国へ輸出されました。それがさらにヨーロッパへと伝わり、西洋風の扇になりました。ヨーロッパに根づいた扇がその後日本へ逆輸入され、「絹扇(きぬせん)」を生み出しました。 末広がりで縁起がいいとされる扇子。 良く吟味された材料の竹や紙を用いた、確かな手仕事から生まれる小さな工芸品には、表面的な美しさだけではなく、その風合い、持ち味等、実用品こそが持つ様々な「美」があります。
A hand-held fan ( 扇子, Sensu ) is an implement used to induce an airflow for the purpose of cooling or refreshing oneself. The folding fan was invented in Japan around the 6th to 8th century.
In addition to folding fans ( 扇, oogi ), the non-bending fans ( 団扇, uchiwa ) are popular and commonplace. The fan is primarily used for fanning oneself in hot weather.

琉球(沖縄)の民族工芸品

■沖縄の工芸は、14〜15世紀ころの中国、東南アジア、日本本土などとの海外交易に 深い関わりを持っています。これらの国々から導入した多種多様な工芸文化は、やがて 本県の亜熱帯性気候風土に育まれながら独自性豊かな新しい工芸文化を生み出しています。
■琉球ガラス(りゅうきゅうガラス)は、沖縄県の沖縄本島を中心に生産される、吹きガラスなどのホットワーク作業のガラス工芸品である。「沖縄ガラス」「琉球硝子」と表記されることもある。 「琉球ガラス」は、太平洋戦争後の資源難のため、アメリカ軍基地で捨てられたコーラやビールの空き瓶を溶かして再生したことから始まる品である。

嘉瓶(ユシビン、沖縄)

厨司瓶(沖縄)

螺鈿硯屏(らでんけんびょう)

漆器『沈金御供飯』

嘉瓶(ユシビン、沖縄) 厨司瓶(沖縄) 螺鈿硯屏(らでんけんびょう) 漆器『沈金御供飯』

■伊勢形紙 Ise Paper Stencils
伊勢形紙の歴史は古く、その始まりについては、色々な説があります。室町時代の絵師が「職人尽絵(しょくにんずくしえ)」に形紙を使う染職人を描いているところから、室町時代末期には形紙があったと考えられます。江戸時代に入ると、現在の和歌山県と三重県南部を支配していた紀州藩の保護を受け、白子、寺家の両村を中心に発展を遂げました。
Although the history of these stencil papers dates back a very long way, no one is too sure as to actually when they were first made. However, it seems likely that they were already in existence at the end of the Muromachi period (1392-1573) because a contemporary painter called Kano Yoshinobu, depicted someone using a stencil in a painting called Shokunin-zukushi-e. During the Edo period (1600-1868), the production of Ise paper stencils developed with patronage from the Kishu clan over-seeing the areas corresponding to present-day Wakayama prefecture and the southern part of Mie prefecture.
It is these stencil papers which have traditionally been used in the dyeing of kimono cloth with family crests and patterns including those for yuzen, the light summer-weight kimono called yukata and the very fine overall patterns known as komon.

伊勢形紙 Ise Paper Stencils

伊勢形紙 Ise Paper Stencils 伊勢形紙 Ise Paper Stencils

日本の国宝や重要文化財、伝統工芸に関する切手

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