Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 日本の美術切手|美術家別、タ行:高橋由一/高村光雲/竹内栖鳳/竹久夢二/田中一村/谷内六郎/俵屋宗達/鳥高斎栄昌 /鳥文斎栄之/月岡芳年/土田麦僊/東郷青児/東洲斎写楽/堂本印象/魚屋北渓/富岡鉄斎/鳥居清長/鳥居清倍 /鳥居清峰(二代清満)/鳥居言人/豊原国周 他。

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日本の美術切手(美術家別) タ行

 日本の絵画や人形・彫刻等の美術切手(美術家別、タ行)です。 美術家がハッキリしている絵画や浮世絵だけでなく水墨画・日本画・油絵・版画・彫刻等多数掲載してます。 繊細な筆タッチだけでなく、やはり日本人の感性に訴えるものがあります。 奈良時代から平安時代にかけて、中国や朝鮮半島などから渡来した技法や様式、あるいはそれに倣い日本で描かれた図画が「唐絵」と呼ばれた。これに対して日本的な主題を描くものが産まれ、「大和絵」と呼ばれ、別の頁(作品別)でも掲載しています。 水墨画や狩野派の絵画・屏風絵も掲載中。 高橋由一は、日本近代洋画の最初の画家。 掲載美術家は予定も含め、 高橋由一 / 高村光雲 / 竹内栖鳳 / 竹久夢二 / 田中一村 / 谷内六郎 / 俵屋宗達 / 鳥高斎栄昌 / 鳥文斎栄之 / 月岡芳年 / 土田麦僊 / 東郷青児 / 東洲斎写楽 / 堂本印象 / 魚屋北渓 / 富岡鉄斎 / 鳥居清長 / 鳥居清倍 / 鳥居清峰(二代清満) / 鳥居言人 / 豊原国周 他です。

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た行(日本の美術家)

掲載美術家は予定も含め、
高橋由一 / 高村光雲 / 竹内栖鳳 / 竹久夢二 / 田中一村 / 谷内六郎 / 俵屋宗達 / 鳥高斎栄昌 / 鳥文斎栄之 / 月岡芳年 / 土田麦僊 / 東郷青児 / 東洲斎写楽 / 堂本印象 / 魚屋北渓 / 富岡鉄斎 / 鳥居清長 / 鳥居清倍 / 鳥居清峰(二代清満) / 鳥居言人 / 豊原国周

高橋由一

竹内栖鳳

高橋由一・鮭 ●

■高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) - 明治27年(1894年)7月6日)は、江戸生まれの江戸時代から明治期の洋美術家。幼名は猪之助。名は浩、維新後に由一を名乗る。代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』。極端に縦長の画面に、縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は、西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。1879年には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。

竹内栖鳳・アレ夕立に ●

■竹内 栖鳳(たけうち せいほう、1864年(元治元年)11月22日 (旧暦)(12月20日) - 1942年(昭和17年)8月23日)は明治〜昭和期の日本美術家。最初は棲鳳と号した。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家。その画風は四条派を基礎としているが、狩野派の他に西洋の写実画法などを意欲的に取り入れており、革新的な画風を示すことで日本画の革新運動の一翼を担った。

高橋由一・鮭 油絵 竹内栖鳳・アレ夕立に 日本画

関連ブログ 日本画切手|竹内栖鳳 の「アレ夕立に」について

竹内栖鳳・ターナー、コローなどから強い影響を受けた絵 ●

竹内栖鳳・ライオンを描いた代表作 ●

ターナー、コローなどから強い影響を受けた絵 ライオンを描いた代表作

■竹内 栖鳳の絵は、時として守旧派からは「鵺派」と呼ばれて揶揄されたが、大画面を破綻なくまとめる確実な技量のみならず、その筆法には悠然たる迫力を備えており、近代を代表する大家であることは異論が無い。また弟子の育成にも力を入れ、画塾「竹杖会」を主宰。上村松園や西山翠嶂をはじめ、西村五雲、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨ら名だたる俊英を多数輩出している。

高村光雲

高村光雲・老猿

■高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎、高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。老猿(東京国立博物館蔵) - 明治26年(1893年)シカゴ万博出品作。木彫。国の重要文化財に指定。

高村光雲・老猿 彫刻

俵屋宗達

国宝・俵屋宗達の『源氏物語関屋澪標図』

俵屋宗達の『牛追い図』

国宝・俵屋宗達の『源氏物語関屋澪標図』 俵屋宗達の『牛追い図』

■俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生没年不詳 - 慶長から寛永年間に活動)[1]は、江戸時代初期の美術家。通称は野々村宗達。 宗達は尾形光琳と並び称せられる、近世初期の大美術家。 慶長7年(1602年)5月に福島正則の命令で行われた平家納経の修復に関わり、その内3巻の表紙と見返しの計6図を描いたと見られる(史料上確認出来る宗達の事績の初見)。皇室からも作画の依頼があり、元和2年(1616年)、後水尾天皇が狩野興以に貝合わせの絵を描くのを命じた際、参考の一つとして「俵屋絵」を見せたとの記録が残る。代表作としては、@風神雷神図 - 建仁寺(京都国立博物館委託)二曲一双 紙本金地着色 寛永年間中頃 、A蓮池水禽図 - 京都国立博物館 一幅 紙本墨画 元和年間前半、B源氏物語関屋及び澪標図(1631年) - 静嘉堂文庫 六曲一双 紙本金地着色 寛永8年間(1631年) がある。『牛追い図』は、京都の醍醐寺にある重要文化財の扇面屏風画です。

竹久夢二

竹久夢二・黒船屋 ●

竹久夢二 左:北方の冬、右:朝の光へ ●

竹久夢二・黒船屋 竹久夢二 大正ロマン

■竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は、日本の美術家・詩人。 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する美術家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも詩「宵待草」には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。明治35年(1902年)18歳 早稲田実業学校入学。学生時代、スケッチを「読売新聞」等に投書していました。大正6年(1917年)33歳『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ芸術座音楽会にて発表し大ヒットしました。 大正8年(1919年)35歳 寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介され、秀逸な絵画作品である『黒船屋』はお葉をモデルとし完成させた。後に一児をもうけたが離婚。 また、竹久夢二は多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりと評価されています。

ゴンドラの唄・夢二

「婦人グラフ」表紙・口絵(株式会社港屋監修)/竹久夢二作

竹久夢二(日本美術家)

夢路の作品「宝船」

ゴンドラの唄・夢二 竹久夢二(日本美術家) 夢路の作品「宝船」

「婦人グラフ」表紙・口絵(株式会社港屋監修)/竹久夢二作

「セノオ楽譜」表紙絵(株式会社港屋監修)/竹久夢二作

「セノオ楽譜」表紙絵(株式会社港屋監修)/竹久夢二作

大正ロマンの象徴として、いまも絶大な人気を持つ竹久夢二。夢二が表紙や挿絵のために、数多くの作品を提供した女性向けグラビア雑誌「婦人グラフ」の挿絵の一部。
セノオ楽譜は、妹尾幸陽が国内外の名曲を紹介するため、大正4年にセノオ音楽出版社を設立し発行された楽譜集です。その内、竹久夢二は270余点の表紙絵を手がけ好評を博しました。また作詞にもその才能を発揮し、なかでも大正7年に発表された「宵待草」は多くの人々に愛されました。

土田麦僊

舞妓林泉(土田麦僊) ●

土田 麦僊(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 - 1936年(昭和11年)6月10日)は大正〜昭和期の日本画家である。明治37年(1904年)、竹内栖鳳に弟子入り。大正7年(1918年)、麦僊は同じ京都市立絵画専門学校出身の同士であった村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花とともに国画創作協会を旗揚げした。
舞妓林泉(1924)東京国立近代美術館

舞妓林泉(土田麦僊)

東洲斎写楽

東洲斎写楽・市川蝦蔵

東洲斎写楽・都伝内

■東洲斎写楽は生没年不詳の浮世絵師。寛政6年(1794年)に出版が開始された後、確認されている錦絵作品は、およそ10ヶ月の期間内に集中しており、その後の消息は不明である。役者絵といえば「写楽」。個性的な表現ですね。歌麿をみいだした版元の蔦屋重三郎に才能をかわれ、役者の大首絵(おおくびえ)で颯爽(さっそう)とデビューしたが、あまりに赤裸々に個性を表現しすぎたために、適当な様式化と美化をこのんだ当時の鑑賞界にはうけいれられなかった。ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像美術家と激賞したことがきっかけで("Sharaku" 1910年)、大正時代頃から日本でもその評価が高まった。 写楽の作品は別ページで詳細を掲載。

東洲斎写楽・市川蝦蔵 浮世絵 歌舞伎 東洲斎写楽・都伝内 浮世絵

東郷青児

東郷青児・サルタンバルク ●

■東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 - 1978年(昭和53年)4月25日)は日本の洋美術家。本名は東郷 鉄春。独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。

東郷青児・サルタンバルク

富岡鉄斎

富岡鉄斎・普陀洛山観世音菩薩像 ●

富岡鉄斎

■富岡 鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)- 1924年12月31日)は、明治・大正期の日本の文人美術家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っている。彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。

堂本印象

■堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年12月25日 - 1975年9月5日)は京都市生れの日本美術家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本美術家として認められた。
下の図案は、天皇陛下の御生誕(昭和8年(1933年)12月23日)を祝して、衆議院より堂本印象に制作が依頼され、昭和10年(1935年)に完成し昭和天皇に献上されました。(所蔵:宮内庁三の丸尚蔵館) 、また御表着の文様(シート背景右下)、御唐衣の文様(シート背景右上)は、 御即位の儀式において皇后陛下がお召しになった御装束の御表着と御唐衣に織り出された文様。 向鶴の文様は伝統的な有職文様で、白樺の文様は皇后陛下のお印にちなんでデザインされています。

堂本印象・兎春野に遊ぶ

ウサギ 日本 堂本印象・兎春野に遊ぶ 絵画 切手

堂本印象・霊峰飛鶴図屏風
(右隻)(シート背景中央) ●

霊峰飛鶴図屏風(右隻)(シート背景中央)

鳥居清長

■鳥居 清長(とりい きよなが、 宝暦2年(1752年) - 文化12年5月21日(1815年6月28日)は、江戸時代の浮世絵師。江戸の本材木町の本屋白子屋市兵衛の子。鳥居派は役者絵を専門とする画派だが、清長の本領はむしろ美人画にある。細身で繊細な春信の美人画に対し、清長は八頭身でどっしりとした体つきの健康的な女性像で知られる。天明期をリードした浮世絵師です。浮世絵の他には春画・黄表紙(江戸時代中期の1775年以降に流行した草双紙(一種の絵本)のジャンルの一つ。)も作っています。代表作には、品川の遊郭に取材した「美南見(みなみ)十二候」や「風俗東之錦」などのシリーズがある。

鳥居清長・雨中湯帰り

鳥居清長・待乳山の雪見 ●

鳥居清長・大川端夕涼み図

鳥居清長・雨中湯帰り 浮世絵 鳥居清長・待乳山の雪見 浮世絵 鳥居清長 大川端夕涼み図

鳥居言人

鳥居言人・「長襦袢」 ●

鳥居言人・「帯」 ●

鳥居言人・「長襦袢」 「帯」 1988年

■鳥居言人 幼名鳥居清忠。明治33(1900)〜昭和52(1978) 東京生まれ。 1914年(大正3)小堀革丙音に師事、翌年より言人と号する。大正18、鏑木清方へ師事。大正41、鳥居派八代目を襲名。江戸元禄時代、歌舞伎の興隆と同時期に興った鳥居派の絵師であり、現代まで続いている唯一の流派で初代清信方二代清倍、清満、清忠、言人と続いた。繊巧麗婉、女性の容質と装姿美を描現されたのであるが、さすがに家元300年の伝統に生きる人らしく、その特色には現代性志向のうちにも江戸の調べがあったと言える。

(参考)日本の美術団体

■日本美術院展(院展)1898年創立。財団法人。1910年(明治43年)、岡倉天心がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、同院は事実上の解散状態となる。1914年(大正3年)、文展(文部省美術展覧会)に不満を持つ大観や観山らは、前年に岡倉が歿したことを契機にその意志を引き継ぐ動きを見せ、日本美術院を再興する。院展は日本美術院の公募展(展覧会)の名称として現在も使われており、院展と日本美術院はほぼ同義に扱われることが多い。現在は日本画のみを対象としている。 日本美術院ホームページ
■文部省美術展覧会(文展)は、国家主導の大規模な公募展、すなわち官展として開始したのが「文部省展覧会」(文展)。最初期は「日本画」、「西洋画」、「彫刻」の3部門で、1926年から「美術工芸」が、1948年からは「書」が加わった。 日本最大の総合美術団体として、野にあって野にあらずといった性格を有し、全体の傾向としても依然穏健な作風が主流である。明治40年(1907年)に第一回展が開催されるものの、その審査員の選定が問題となり、火種はくすぶったままであった。そして大正3年に横山大観が審査員を外されたことを遠因として日本美術院が再興するが、大正8年(1919年)には「帝国美術院」の発足にともなって、「帝国美術院展覧会」(帝展)と改称する。  日展公式サイト

 

豊原国周

豊原 国周(とよはら くにちか、天保6年(1835年) - 明治33年(1900年)7月1日)は幕末から明治にかけての浮世絵師。嘉永元年(1848)に歌川国貞(三代豊国)に入門する。嘉永5年(1852)に豊国の役者絵の一部を描き、門人八十八と署名する。安政2年(1855)頃より、最初の師である豊原周信と豊国の名前を合わせた画名である豊原国周と署名するようになる。顔貌描写に羽子板絵式の装飾味を持たせ、美人画にも独特のはれやかさを示した。 展示の写真は実物 (皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からの国書と贈物の返礼に、明治天皇から贈った品々のうち、ウィーンに現存する画帖(日本の風景や暮らしを描いた100図)と2基の蒔絵棚が、日本に初めて里帰り。ウィーン美術史美術館蔵 2010年、ハプスブルグ展より) ● 

風俗・物語・花鳥図画帖より 
豊原国周「駕籠かきと美人」

風俗・物語花鳥図画帖より
豊原国周「三曲」 紙本彩色 

豊原 国周 豊原 国周

豊原 国周 風俗・物語花鳥図画帖より と歌川 国貞 の浮世絵(ウガンダ)

歌川 国貞 「こしゃく娘」

豊原 国周 歌川国貞・こしゃく娘 浮世絵

日本の美術切手(美術家別) タ行
高橋由一 / 高村光雲 / 竹内栖鳳 / 竹久夢二 / 田中一村 / 谷内六郎 / 俵屋宗達 / 鳥高斎栄昌 / 鳥文斎栄之 / 月岡芳年 / 土田麦僊 / 東郷青児 / 東洲斎写楽 / 堂本印象 / 魚屋北渓 / 富岡鉄斎 / 鳥居清長 / 鳥居清倍 / 鳥居清峰(二代清満) / 鳥居言人 / 豊原国周

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