Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 日本の美術切手|美術家別、ア行:青木繁  / 浅井忠 / 伊東深水 / 伊藤若冲 / 上村松園 / 歌川広重(安藤広重) / 梅原龍三郎 / 太田聴雨 / 岡鹿之助 / 岡田三郎助 / 岡本太郎 / 尾形光琳 / 荻原守衛 / 奥村土牛 / 奥村政信 / 落合芳幾 / 小野竹喬 / 岡倉天心 / 礒田 湖龍斎 他。

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日本の美術切手(美術家別) ア行

 日本の絵画や人形・彫刻等の美術切手(美術家別、ア行)です。 美術家がハッキリしている絵画や浮世絵だけでなく水墨画・日本画・油絵・版画・彫刻等多数を掲載してます。 日本の美術は、繊細な筆タッチだけでなく、やはり日本人の感性に訴えるものがあります。 奈良時代から平安時代にかけて、中国や朝鮮半島などから渡来した技法や様式、あるいはそれに倣い日本で描かれた図画が「唐絵」と呼ばれた。これに対して日本的な主題を描くものが産まれ、「大和絵」と呼ばれ、別の頁(作品別)で掲載しています。 水墨画や狩野派の絵画・屏風絵も掲載中。 掲載美術家は予定も含め、 青木繁  / 浅井忠 / 伊東深水 / 伊藤若冲 / 上村松園 / 歌川広重(安藤広重) / 梅原龍三郎 / 太田聴雨 / 岡鹿之助 / 岡田三郎助 / 岡本太郎 / 尾形光琳 / 荻原守衛 / 奥村土牛 / 奥村政信 / 落合芳幾 / 小野竹喬 / 岡倉天心 / 礒田 湖龍斎 他です。

美術家の氏名のINDEX あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 / 作品別(大和絵・日本画) 国宝・工芸

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お断り)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から一部、美術家の紹介で転用もしています。


あ行(日本の美術家)

掲載美術家は予定も含め、
青木繁 / 浅井忠 / 磯田湖龍斎 / 伊東深水 / 伊藤若冲 / 井上安治 / 礒田 湖龍斎 / 上村松園 / 歌川国貞(三代豊国) / 二代歌川国貞(四代豊国) / 歌川広重 / 梅原龍三郎 / 太田聴雨 / 岡鹿之助 / 岡田三郎助 / 岡本太郎 / 尾形光琳 / 荻原守衛 / 奥村土牛 / 奥村政信 / 落合芳幾 / 小野竹喬

青木繁

安藤広重(歌川広重)

青木繁・わだつみのいろこの宮 ●

■歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。「東海道五十三次」他に、「木曾街道六十九次」「近江八景」「名所江戸百景」など、諸国名所絵、江戸名所絵など多くの名作を残しました。詳細はコチラ

 

安藤広重・月に雁

青木繁・わだつみのいろこの宮

■青木 繁(あおき しげる、1882年7月13日 - 1911年3月25日)は日本の明治期の洋美術家。『海の幸』の作者として知られる繁は、近代日本美術史の上でもっとも著名な洋美術家の一人である。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた後、放浪生活に入り、満28歳の若さで没した繁の生涯は半ば伝説化している。

安藤広重・月に雁

わだつみのいろこの宮
「古事記」上巻の綿津見の宮の物語を題材とした作品です。 兄の海幸彦からかりた釣り針をなくした山幸彦が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(いろこ)の如く造れる」宮殿へとくだり、画面向かって左のトヨタマヒメ (豊玉毘売)とその侍女に
出会う場面が書かれています.。 

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浅井忠

池大雅

浅井忠・収穫 東京藝術大学蔵 重要文化財 ●

池大雅・国宝・釣便図 ●

浅井忠・収穫 池大雅・国宝・釣便図 絵画

浮世絵関連の頁索引 
[ 浮世絵切手日本の絵画
印象派・ゴッホ
プラハ美術館収蔵
安藤広重葛飾北斎
趣味の雑貨(版画)|写真 浮世絵・錦絵 国芳,芳年 他 ]

■浅井 忠(あさい ちゅう、安政3年6月21日(1856年7月22日) - 明治40年(1907年)12月16日)は、明治期の洋美術家。教育者としても貢献した。13歳の頃から佐倉藩の南美術家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説「三四郎」の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
■池 大雅(いけの たいが/いけ たいが、 享保8年5月4日(1723年6月6日) - 安永5年4月13日(1776年5月30日))は、日本の江戸時代の文人美術家。「十便十宜図のうち、釣便図」:川端康成の蒐集品として著名な「十便十宜図」は、中国・清の李漁の「十便十宜詩」に基づき、山荘での隠遁生活の便宜(便利さ、よろしさ)を画題に大雅と蕪村が共作した画帖である(大雅は「十便図」を担当)。小品ながら、文人の理想とする俗塵を離れた生活を軽妙な筆遣いと上品で控えめな色彩で活写している。

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伊藤若沖

伊藤若沖・「群鶏」 ●

■伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、 正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))は、近世日本の美術家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師、京都の青物問屋の長男として生まれた。代表作の『動植綵絵』30幅は、多種多様の動植物がさまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品である。綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる幻想的な雰囲気が漂う。また、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。『動植綵絵』は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、のち皇室御物となり、現在は宮内庁が管理している。 写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」。下の切手は、日本、1998年。

伊藤若沖・芍薬群蝶図

伊藤若沖・「群鶏」絵画 芍薬群蝶図(日本、1998年) 伊藤若冲の絵画 シャクヤク

伊藤若冲の絵画・
著色花鳥版画

伊藤若冲・著色花鳥版画・
櫟に鸚哥(インコ)図

伊藤若冲・著色花鳥版画・
薔薇に鸚哥図

伊藤若冲・
雪中鴛鴦(えんおう)図

伊藤若冲・雪竹に錦鶏図

伊藤若冲筆・著色花鳥版画・櫟に鸚哥(インコ)図(日本、1998年) 伊藤若冲筆・著色花鳥版画・薔薇に鸚哥図

伊藤若冲・動植綵絵・紅葉小禽図(部分)

伊藤若冲・大鶏雌雄図(部分、宮内庁三の丸尚蔵館 所蔵)

伊藤若冲筆 動植綵絵・紅葉小禽図(部分)

切手の補足説明)宮内庁三の丸尚蔵館 所蔵「大鶏雌雄図(部分)2005年発行」は、30幅に及ぶ花鳥画の大作「動植綵絵」の一つで、雄雌二羽の鶏が描かれています。  また、この切手はご覧いただいた角度により2種類の別のデザインが浮かび上がる特別な印刷技術「メタリックマルチイメージ(金属多重模様)」を採用、また、切手の背景には0.3mmの細かな文字「微小文字」で『JAPAN POST 2005』とデザインしています。 切手の4辺の中央部の穿孔は、通常の丸型とは異なる「楕円形」の穿孔です。

伊藤若冲・大鶏雌雄図(部分) (宮内庁三の丸尚蔵館 所蔵)
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伊藤深水

伊藤深水・指 ●

伊藤深水・吹雪 ●

■伊東 深水(しんすい、1898年2月4日 - 1972年5月8日)は大正・昭和期の日本美術家。日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、美術家として困惑する時期もあったという。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めた。娘は女優の朝丘雪路。女優の真由子は孫。

伊東深水・三千歳 ●

伊藤深水・指 伊藤深水・吹雪 日本画 伊藤深水

■歌舞伎所作事「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」に登場する吉原大口屋の遊女三千歳。
作品では悪事を行い追われている御家人片岡直次郎が三千歳に忍んで会いに来る瞬前の三千歳の表情が巧みに描かれています。
■楽屋:艶やかな和服姿の美しい女性が楽屋で入念に紅差しをしています。姿見に向かって下唇を少しだけ突き出して紅差ししている様子が描かれています。所蔵:明治座
■吹雪:「吹雪」は深水の傘美人の中でも最も評価が高く、横なぐりの吹雪の中を重い傘を傾けながらひたむきに歩く女性の美しさを描いた傑作です。

伊藤深水・楽屋(部分) ●

伊藤深水・吹雪(部分) ●

伊藤深水 伊藤深水
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礒田 湖龍斎

礒田 湖龍斎(いそだ こりゅうさい、享保20年〈1735年〉? - 寛政2年〈1790年〉?)
天明2年(1782年)、絵師として名誉な地位である法橋に叙せられ、晩年は「武江薬研堀隠士」と自称して専ら肉筆浮世絵を描いた。肉筆美人画の代表作として「遊女道中図」、「美人愛猫図」、「羽根突き図」(以上、東京国立博物館所蔵)、「花魁と禿図」、「中洲舟遊の図」、「雪中美人図」(以上、浮世絵太田記念美術館所蔵)、双幅「男女図」、「二美人と供図」、「相合傘図」(以上、MOA美術館所蔵)、「雪の朝図」、「桜下男女図」、「娘道成寺図」(以上、ニューオータニ美術館所蔵)、「遊戯図」(千葉市美術館所蔵)、「吹雪になやむ美人図」(鎌倉国宝館所蔵)、「雪中美人図」(フリーア美術館所蔵)、「雪中美人図」(プライスコレクション蔵)などが挙げられる。

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上村松園

■上村 松園(うえむら しょうえん、明治8年(1875年)4月23日 - 昭和24年(1949年)8月27日)は、明治の京都下京に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた日本美術家。「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)を念願として女性を描き続けた。
 「気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くために生き続けて来たようにも思える」(松園)

上村松園・母子 ●

上村松園・序の舞

上村松園・秋の粧

上村松園(日本画家)

上村松園・母子 上村松園・序の舞 上村松園・秋の粧 上村松園(日本画家)

序の舞

■「序の舞」 : 1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させる。それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」(松園)
■「秋の粧」 : 近代日本を代表する女性日本美術家上村松園(うえむらしょうえん)(1875-1949)によるとしかさの女性と若い娘の二人の美女を描いた美人画。 上村松園 1936年作、所蔵:西宮市大谷記念美術館
■「牡丹雪」 : 裾を持ち上げ前かがみになりながら慎重に歩む女性。作品の上部及び右方の大きな余白を組み合わせたことで雪の情景が効果的に描かれています。 所蔵:山種美術館

上村松園・牡丹雪 (部分 2010年) ●

上村松園・牡丹雪

上村松園・鼓の音(つづみのね)(部分) ●

上村松園・春芳(部分) ●

上村松園 上村松園

■鼓の音(つづみのね)(部分):松園が余技として最も好んだ謡曲・鼓に題をとったもので、打たれた鼓の音色を表現しようとした作品です。優雅に返された右手、強くしなやかな指先からは、快い鼓の音が響いてくるようです。 所蔵:松伯(しょうはく)美術館
■春芳:梅の香を賞でる武家の女性の姿で、内掛にも梅の紋が入っています。小袖は松藤模様で、鹿の子絞りに金の刺繍がされています。べっ甲の櫛かんざしを差した髪は元禄勝山という髪型で、揚帽子を付けています。元禄勝山は勝山という遊女が始めたと言われ、丸髷の原型となったということです。 所蔵:山種美術館

パラグアイ発行の浮世絵切手(右から2つ目は、上村 松園 『焔』です)

パラグアイ発行の浮世絵切手
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梅原竜三郎

梅原竜三郎・雲中天壇 ●

■梅原龍三郎(1888-1986)は、 近代日本の最も代表的な美術家。京都に生まれ、浅井忠に師事し、1908年に渡欧してのち、ルノワールの指導を受けますが、東洋美と西洋美の接点を追求して、華麗な色彩と剛放な筆捌きで独自の画境を拓きました。

梅原竜三郎・雲中天壇
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岡本太郎

大阪万博・太陽の塔・岡本太郎

大阪万博・太陽の塔と会場風景

岡本太郎・眼

紆余曲折を経て出来あがった前衛的で巨大なシンボルタワー「太陽の塔」は、当時の一部の知識人などから「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びた。だが、日本万国博覧会は、大きな成功を収めた後に閉幕。1975年に永久保存が決まり、この前衛的な塔も大阪のシンボルとして人々に愛され続ける事となる。

大阪万博・太陽の塔・岡本太郎 大阪万博・太陽の塔と会場風景 岡本太郎・眼 絵画

■岡本 太郎(1911年2月26日 - 1996年1月7日)は、抽象絵画やシュルレアリスムとも関わり、縄文や沖縄の魅力に再注目した人物でもある。平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的に行った。1970年に大阪で万国博覧会が開催される事が決まり、主催者は、担当プロデューサーの人選に迷った末に太郎に白羽の矢を立てた。太郎はプロデューサー就任を承諾し、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。

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岡鹿之助

岡鹿之助・雪の発電所

■岡 鹿之助(おか しかのすけ、1898年7月2日 - 1978年4月28日)は昭和期の洋美術家。自分の絵のマチエールが西洋絵画のそれに比べて劣ることに悩み、試行錯誤の末到達したのが彼の作風を特徴づける点描画法である。鹿之助の点描はむしろ同系色の点を並置することによって堅固なマチエールを達成しようとするものである。鹿之助はこの技法を用いて、静けさに満ちた幻想的な風景画(雪景色を描いたものが多い)を多く残した。作家を父とし、東京で生まれた岡鹿之助は、中学生の時から 岡田三郎助 に素描を学んだ。東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科を卒業して直ちに渡仏。パリでサロン・ドートンヌに出品し入選した。しかし自分の未熟さを痛感し、 藤田嗣治 の助言もあってそれから15年間、ヨーロッパに滞在して油彩画の研究に励んだ。

岡鹿之助・雪の発電所

40歳の時に第二次大戦の混乱を避ける為、已む無く帰国。帰国後、春陽会会員となった。54歳の時《遊蝶花》で芸能選奨文部大臣賞を受賞。58歳で《雪の発電所》 (上記の絵) で現代美術日本展最優秀賞や毎日美術賞を受賞した。

岡倉天心

岡倉天心(美術家)

■岡倉 天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年9月2日)は明治期に活躍した美術家、美術史家、美術評論家、美術教育者である。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。弟の岡倉由三郎は英語学者。妹のてふ(蝶子)は彫刻家山田鬼斎夫人。横浜生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者としても著名。

岡倉天心(美術家)
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岡田三郎助

岡田三郎助・あやめの衣 ●

岡田三郎助・婦人像・小鼓 ●

岡田三郎助・古き昔を偲びて

岡田三郎助・あやめの衣 岡田三郎助・婦人像 楽器 小鼓 岡田三郎助・古き昔を偲びて

■岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、1869年2月22日(明治2年1月12日) - 1939年(昭和14年)9月23日)は明治〜昭和にかけて活躍した洋美術家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残している。妻・八千代(1883-1962年)は女流作家で、小山内薫の妹である。岡田三郎助・古き昔を偲びて は、藤原京創都1300年で発行。

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尾形光琳

■尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) - 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の美術家。工芸家。尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する美術家のひとりである。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている

国宝・尾形光琳「白梅図・紅梅図」

尾形光琳が描く「梅」
(1994年)

尾形光琳・桔梗
・「画帖二帖の内桔梗図」

国宝・尾形光琳「白梅図・紅梅図」 尾形光琳が描く「梅」(1994年) 尾形光琳・桔梗・「画帖二帖の内桔梗図」

■国宝『燕子花図屏風』は平安時代に成立した、最も著名な日本の歌物語のひとつ『伊勢物語』の第九段「八橋」の場面を描いた作品で、光琳は生涯中しばしば、この燕子花を意匠とした作品を手がけていることが知られているが、本作はその中でも随一の代表的作品としても名高い。伊勢物語では、三河国の八橋(現在の愛知県知立市八橋町近辺。水が蜘蛛の手のように分かれて流れているために、八つの橋を渡したことから『八橋』と名付けられたとされている)の沢のほとりに燕子花(カキツバタ)が美しく咲いていたと記されているが、本作ではその美しく咲く燕子花のみに主点を置いて、金地に栄える群青(燕子花の花部分)と緑青(燕子花の茎草部分)「八橋」の場面が描写されている。

緒方光琳・孔雀葵花図 ●

緒方光琳・国宝・燕子(かきつばた)花図屏風
根津美術館 大阪万博 ●

緒方光琳・孔雀葵花図 緒方光琳・燕子花図屏風

緒方光琳・四季草花図小屏風

緒方光琳・四季草花図小屏風

緒方光琳・四季草花図小屏風

四季草花図小屏風 尾形光琳 四季草花図小屏風

■八橋蒔絵螺鈿硯箱、尾形光琳作:縦24.2p,横19.8p,高11.2p。『伊勢物語』八橋の段に取材した燕子花と板橋の意匠を,蓋の表と四つの側面にあらわした硯箱。表面の黒漆塗りは艶消しで,花に螺鈿をもちい,葉や茎は金の平蒔絵で描き,橋には鉛の板をはり,杙には銀の板をはめ込んでいる。箱の身は二段重ねで,上段に硯と水滴をおさめ,下段は料紙箱とし,上段と下段の見込みに金の平蒔絵で流麗な波文を描いている。

国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱(日本,1955年、尾形光琳作)

国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱

尾形光琳・佐野渡硯箱

国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱 (日本、1955年) 尾形光琳 作 国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱 尾形光琳 作 日本の馬と文化 佐野渡硯箱
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太田聴雨

太田聴雨・星を見る女性

■太田聴雨( おおた‐ちょうう、1896‐1958) 大正-昭和時代の日本画家。 明治29年10月18日生まれ。川端玉章門下の内藤晴州にまなぶ。青樹社を結成し、昭和2年より前田青邨(せいそん)に師事。5年院展で「浄土変」が第1回日本美術院賞。26年東京芸大助教授。昭和33年3月2日死去。61歳。宮城県出身。本名は栄吉。別号に翠岳。作品に「星を見る女性」など。「星を見る女性」の作品中の望遠鏡は、昭和6年に国立科学博物館1号館が完成した時、屋上に設置された日本光学製の20cm 屈折望遠鏡がモデルになっているそうです。(273×206p 東京国立近代美術館蔵)

 
太田聴雨・星を見る女性 絵画 日本画
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奥村土牛

荻原守衛

奥村土牛「醍醐」

■奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年2月18日 - 1990年9月25日)は現代日本画壇の最高峰に位置した代表的な日本美術家の一人。本名:義三(よしぞう)。刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>が著名で、皇居にも飾られている。

荻原守衛・女

■荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。第四回文展に「女」が出品され、文部省により買上げ。「女」(石膏原型が重要文化財指定)。臼井吉見の『安曇野』は、碌山、相馬夫妻など安曇地方ゆかりの人物の群像を描いた歴史小説である。

奥村土牛「醍醐」 萩原守衛・女 彫刻 ブロンズ 像
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小野竹喬

小野竹喬(おのちっきょう)・「奥入瀬の渓流」(昭和26年(1951)制作、東京都現代美術館所蔵))

近代河川制度100周年記念・小野竹喬画「奥入瀬の渓流」

■小野竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。


 

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