日本の絵画切手(美術家別) マ行
日本の絵画や人形・彫刻等の美術切手(美術家別、マ行)です。 美術家がハッキリしている絵画や浮世絵だけでなく水墨画・日本画・油絵・版画・彫刻等多数掲載してます。 繊細な筆タッチだけでなく、やはり日本人の感性に訴えるものがあります。 奈良時代から平安時代にかけて、中国や朝鮮半島などから渡来した技法や様式、あるいはそれに倣い日本で描かれた図画が「唐絵」と呼ばれた。これに対して日本的な主題を描くものが産まれ、「大和絵」と呼ばれ、別の頁(作品別)でも掲載しています。 水墨画や狩野派の絵画・屏風絵も掲載中。
掲載美術家は予定も含め、 前田青邨 / 円山派の祖・円山応挙 /棟方志功 / 村上華岳 / 森一鳳 / 森狙仙 です。
美術家の氏名のINDEX あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 / 作品別(大和絵・日本画) 国宝・工芸
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掲載美術家は予定も含め、 前田青邨 / 円山応挙 / 棟方志功 / 村上華岳 / 森一鳳 / 森狙仙 |
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前田青邨 |
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前田 青邨・洞窟の頼朝 (重要文化財) ● |
■前田 青邨(まえだ せいそん、 1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県出身の日本美術家。妻は荻江節の5代目荻江露友。歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。その中でも、武者絵における鎧兜の精密な描写は、ことに有名である。晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わる。その遺志は、弟子の平山郁夫にも引き継がれている。代表作の1つ「洞窟の頼朝」は2010年に重要文化財に指定された。 |
■「昭和天皇皇后御訪欧記念」の画家は、昭和天皇の皇后・良子様。皇后様の日本画はプロ級の腕前でした。師匠は前田青邨画伯だったそうです。 |
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前田 青邨・腑分け( 人体解剖 ) |
「昭和天皇皇后御訪欧記念」 |
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丸山応挙 |
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丸山応挙・トラ |
丸山応挙・深山大沢図 ● |
円山応挙・ 「朝顔狗子図杉戸(部分)」 朝顔 狗子 |
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■円山 応挙(まるやま おうきょ、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、丹波の国穴太(あのう)村に農民の子として生の江戸時代中期の絵師。近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。また応挙は諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた美術家とも言われている。応挙の画風上の特色として第一に挙げるべきことは近世の日本の美術家のなかでも際立って「写生」を重視したことである。「覗からくり」に使用される「眼鏡絵」の制作で西洋の遠近法・陰影法に触れ、中国の宋元画や花鳥画から写生の手法を学び、写実的な独自の画風を確立した。
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村上華岳 |
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村上華岳・裸婦 ● |
■村上 華岳(むらかみ かがく、1888年7月3日 - 1939年11月11日)は、大正〜昭和期の日本美術家。華岳の描く仏や菩薩は大正9年(1920年)の『裸婦図』の系譜を引いており、世俗性と精神性、妖艶さと聖性、官能美と悟りの境地という相反する要素が不思議に調和している。華岳の仏画は20世紀の宗教絵画の最高峰と言って過言ではないであろう。 画像クリックで拡大。 |
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棟方志功 |
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棟方志功・弁財天妃の柵 |
■棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は日本人の板美術家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。志功の言葉、「アイシテモ愛しきれない オドロイテモ驚ききれない ヨロコンデモ喜びきれない カナシンデモ悲しみきれない それが板画です」。
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棟方志功・観聞頌 |
棟方志功・金渓頌・唐衣の柵 |
棟方志功の作品名につく「柵」について、棟方志功は以下の様に語っている。 |
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■棟方 志功は、佐藤一英の“大和し美し”を読んで感動、1936年(昭和11年) 国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。棟方 志功の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『釈迦十大弟子』、 『阿弥陀如来像』、『蓮如上人の柵』、『御二河白道之柵』、『我建超世願』、『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名である。 |
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森一鳳 |
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森一鳳・眠る猪 |
森一鳳・野を駆ける猪 |
森一鳳・雀 「桜に雀図(部分)」 |
森一鳳・桜 「桜に雀図(部分)」 |
森一鳳・群鳥 「群鳥図(部分)」 |
森一鳳・萩に四十雀 |
■森一鳳(1798〜1872)は、播州生まれの画家。大坂に出て近世大坂画壇における写生派を代表する森派の森徹山に学び、徹山のあと森派を継承した。写実的な画風に情趣を加味した画風で幕末の大坂で大きな支持を獲得し、その遺作も多い。また、藻を刈る一鳳(儲かる一方)の訓読から、藻刈船の画題でも知られ、商家に重用されました。 |
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森狙仙 |
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森狙仙・雨中桜五匹猿図(部分) |
■森狙仙(もり そせん、1747年(寛延元年) - 1821年(文政4年))は日本の江戸時代後期の絵師。狩野派や円山応挙などの影響を受けながら独自の画風を追求し、養子森徹山へと連なる森派の祖となった。写生画法を身につけ、ことに猿に関しては生態描写や克明な毛描きにおいて抜群の力量を示し、当時の大阪画壇でも大きな存在でした。狙仙の日本猿の習性に向けられた観察力は、多くの作品に反映され、本図には、風雨に散る花に興味をいだいた猿の親子が、桜の木にたわむれ楽しむ様子が描かれています。 |
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森狙仙(〜1821)筆 |
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日本の絵画や人形・彫刻等の美術切手(美術家別、マ行): |
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