日本の世界遺産(琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群)の切手
日本の世界遺産(UNESCO World Herittage)・「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」(Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu)の切手(Stamp) です。 琉球が琉球王国への統一に動き始める14世紀後半から、王国が確立した後の18世紀末にかけて生み出された、琉球地方独自の特徴を表す文化資産群で、重要文化財2棟を含む次の9つの資産が平成12(2000)年12月に世界遺産に登録されました。切手は復元された守礼門(1958年)。今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城は、いずれも三国鼎立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城であり、首里城は琉球王がその居所と統治機関を設置するために築いたものです。王室関係の遺跡として円覚寺跡、玉陵、識名園(別邸)が残り、王国文化をうかがうことができます。 |
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日本の世界遺産と遺跡・古墳 |
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「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」(Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu) |
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■琉球列島は日本列島南端に位置します。14世紀中頃には三王国が分立していましたが、15世紀前半にこれらを統一して琉球王国が成立しました。中国・朝鮮・日本・東南アジア諸国との広域の交易を経済的な基盤とし、当時の日本の文化とは異なった国際色豊かな独特の文化が形成されました。その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。 |
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■首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。(世界遺産・「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」) |
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玉稜、園比屋武御嶽石門、今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡 |
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首里城跡 歓会門、正殿、識名園、斎場御嶽(世界遺産・「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」) |
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(世界遺産・「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」 UNESCO World Herittage、Gusuku Sites and Related
Properties of the Kingdom of Ryukyu) |
今帰仁城跡 | ||
首里城正殿 |
仲曽根豊見親の墓(1966年) |
■仲曽根豊見親は、15〜16世紀初期に宮古を統治していた首長の仲曽根豊見親玄雅。豊見親は中山(首里王府)と手を結び、1500年に八重山のオヤケアカハチを征伐したそうな。以前、掲示板サイトか何かで、石垣と宮古はあんまり仲が良くないというようなことが書かれてあったようです(真偽のほどは定かでないが)。 |
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宮古島・平良 |
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琉球(1952年) 真玉橋(まだんばし)、首里城正門、守礼門、崇元寺石門、弁財天堂 |
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■真玉橋 (まだんばし)は、 国場川に架かる橋。1522(尚真46)年に創建、1836年に長さ109メートル、幅4.8メートルの石造アーチ橋に改修。潮切りがあり、風格を備えた造りはアーチ橋の傑作と賞賛された。沖縄戦で友軍によって破壊。 |
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宮良殿内(沖縄・1964年) |
弁財天堂(沖縄・1968年) |
円覚寺総門(沖縄・1968年) |
中村家(沖縄・1969年) |
■宮良殿内は、国の重要文化財に指定されている立派な赤瓦の家、宮良殿内。現在も宮良家の住居なので、家の中に入ることはできませんが、素敵な庭まで、見ることができます。1816年に八重山の行政官、宮良親雲上當演が琉球王朝の貴族屋敷も模して作らせた県内唯一の士族屋敷です。 |
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円覚寺放生橋(沖縄・1967年) |
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■中城城跡は、沖縄東海岸中部の中城湾にそった標高167メートルの高台上に、 北東から南西にほぼ一直線に連郭式に築かれた城で、さきの第二次大戦の戦禍をまぬがれ、県内でもっとも原型をとどめていることで有名です。 眺望の地として知られ、城跡に立つと東に中城湾(太平洋)、西に東シナ海を望み勝連半島、知念半島、さらに周辺の洋上の島々までも見渡すことができます。 規模も大きく、面積は122,399平方メートルにおよび、人気があり古くから観光の名所となっています。 中城城は、尚泰久王(しょうたいきゅう)時代(1454年〜1460年)に、護佐丸が築いた城とされていますが、 はっきりとした年代は不明です。 築城技術という点でも注目され、城は多郭式で六つの城郭から成り、南は断壁、北は急傾斜地になっています。城壁は、自然の岩石と地形をたくみに利用した曲線の美しい石壁で囲まれており、一の郭・二の郭が布積みの「石切積み」 、三の郭は「亀甲乱れ積み」の二通りの手法を用いています。(世界遺産・「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」) |
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中城城跡(沖縄・1963年) |
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琉球文化財シリーズ(1954-55年) |
民族舞踊シリーズ(B円、1956年) |
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だきびん |
東道盆 |
やなぎ節、むんじゅる、ななみちき |
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■守礼門(しゅれいもん)は、首里城歓会門の外、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウウフミチ または アヤジョウウフミチ とも)の東側に位置する牌楼型の門(楼門)である。日本城郭でいう首里城の大手門に値する。柱は4本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いている。沖縄戦で焼失したが、1958年に再建され、1972年には県指定文化財となった。 |
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守礼門(沖縄) |
守礼門(1964年)東京五輪 |
復元された守礼門(1958年) |
沖縄復帰記念・守礼門 |
「組踊」 1段目:執心鐘入、人盗人、2段目:銘苅子、二童敵討、3段目:孝行の巻 |
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■組踊(くみおどり)とは、琉球王国時代の沖縄で向受祐・玉城親方朝薫が創始した、踊念仏・能・狂言をアレンジして発展した芸能の一種。第二尚氏王朝時代の琉球では、王の代替わり時に明または清からやって来る冊封使の接待は重要な政治課題であった。1719年、第二尚氏第13代尚敬王の冊封にあたって、踊奉行の職にあった玉城朝薫(このとき位階は親雲上)は、かねてから造詣の深かった日本本土の芸能を参考に、冊封使の接待式典全7宴中の第4宴・重陽の宴において、『二童敵討(にどうてきうち)』『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』の二題を上演した。これが組踊の始まりである。さらに第6宴・拝辞の宴で『銘苅子(めかるしぃ)』『女物狂(おんなものぐるい)』『孝行之巻(こうこうのまき)』の3題が上演され、この5題が後世まで組踊の傑作「朝薫の五組」として愛されることになる。朝薫の創始以後、組踊は冊封の宴以外の場でも士族階級の娯楽として広く楽しまれ、琉球処分後は庶民の娯楽としての裾野もひろげ、また発展もした。第二次世界大戦後、琉球政府が沖縄県となった1972年5月15日には国の重要無形文化財に指定された(総合認定)。(Wikipediaより転載) |
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■勝連城跡(かつれんじょうあと)勝連町:琉球王国の王権の安定過程で最後まで国王に抵抗した有力按司である阿麻和利の居城です。築城は13〜14世紀に遡り、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城主の阿蘇和利は、1458年に中城城の護佐丸を滅ぼした後、王権奪取を目指して国王の居城である首里城を攻めますが、逆に滅ぼされました。
城内には建物跡、固有信仰の「火の神」を祀った聖域のほかに、最上段の郭一本丸一には王・ノミヂ獄と称される円柱状に加工された霊石があり、信仰の対象となっています。 |
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沖縄県観光協会:世界遺産「琉球王朝・首里城」 絵葉書 |
沖縄県観光協会:世界遺産「琉球王朝・識名園」 |
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日本の世界遺産(琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群)の切手 |
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