アジアの旅行写真|中華人民共和国の首都・北京(Peijing) 旅行 |
中華人民共和国
中華人民共和国(People's Republic of China。通称は、China。略称は、PRC)、通称中国(ちゅうごく)は、1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家。東アジアのユーラシア大陸東岸に位置し、その国土の大陸部は、中国大陸とも呼ばれる。首都は北京市。世界最大の人口を擁する国家。約13億人という人口は、19世紀末の世界人口(13-15億人と推計)、あるいは、現代の西ヨーロッパ(約4億人)とアフリカ(約10億人)の合計に匹敵する。人口の94%を占める漢族のほか、チワン族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、回族、ミャオ族、イ(彝)族、トゥチャ族、満族など、政府が認定している55の少数民族よりなる多民族国家。 近郊の世界遺産
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中華人民共和国の首都・北京
■中国の首都・北京(英語、Beijing)です。2008年の北京オリンピックも無事成功裏に終わり、大きく国も変わろうとし変化がありました。北京市)は、中華人民共和国の首都であり、中国の最高権力機関である中国共産党中央委員会の所在地。戸籍人口1,538万人(2005年末)だが、他に公安機関(警察)に一時住居登録している流動人口が364.9万人いる。 北京には万里の長城含めて世界遺産が多数(紫禁城,万里の長城,周口店の北京原人遺跡,頤和園,天壇,明の十三陵)あります。
2006年6月21日,NTV系のTV「世界仰天ニュース」で中国・長春の貧乏な家に育ち、7歳で脳腫瘍となった少女欣令の話がありました。余命幾許も無い時に腫瘍で目も見えない時、新聞記者の善意で記事になり。本人の念願だった天安門での国旗掲揚を見たいとの願望を、数千人の善意の嘘で叶えた内容でした。非常に感動ものでした。皆さんにも是非見て欲しいと思っています。写真説明は2006年以前のためオリンピックに関しての変な表現はご容赦ください。
切手で紫禁城(故宮)の展示品の見学は絵画編、文物編、旧中国(歴史証言)でお願いします。
北京の風景(観光地と市内風景等)
☆世界でも有名な天安門です。この時は激しい黄砂で煙っています。
往来する自動車の多さに戸惑いました。急激な経済発展の底力を見たような気がします。 道路を渡るには地下道です。 総面積40万平方メートル以上もある広大な広場の中央には、人民英雄記念碑がそびえ立つ。 毛沢東主席記念堂、天安門城楼、中国歴史博物館、中国革命博物館などさまざまな建造物が。 黄金色の瑠璃瓦、ベンガラ色の城壁、白い大理石の欄干が印象的な城門・天安門は、北京の象徴です。
※北京首都国際空港は、中華人民共和国北京市に位置する国際空港。中国最大の空港であり、年間利用者数では世界第二の規模を持つ。 中国国際航空が中国民航時代から同空港をハブ空港としている。 北京中心部から東北25.35kmに位置し、北京市順義区に囲まれているが、同市朝陽区の飛び地である。 空港は1958年に開港し、1999年に大改造が行われ、3倍の広さになった。
北京の人物・女性(民族衣装)
■北京市内では、目新しい姿の女性や男性も見かけませんでした。残念!
■王府井(ワンフーチン)とは、北京中心部東城区にある繁華街。「東長安街」通りから「五四大街」通りまでの南北の通りを「王府井大街」と呼んでいるが、そのうち「東単二条」通りから「東安門大街」通りまでの間は歩行者天国となっている。「東方広場」や「新東安市場」などの巨大デパートや飲食店が立ち並んでおり、中国の地方からの観光客や外国人観光客の姿も多い。デパートでも物は安いですよ。
北京の動物&石(京劇と玉石ほか)
■残念ながら、前回訪問時にはいるのかいないのかわかりませんが、動物の姿が撮れませんでした。
北京の植物・花 愛新覚羅溥儀
☆植物も花も、あったかと思いますが、記憶に無く割愛しました。 唯、どこかのお寺で造花があり、それを背景に写真を撮ったら、すぐさまおばさんが飛んできて、10元(日本円で約130円)をくれと言われ困りました。
※頤和園は、もともとは1750年に清の6代皇帝、乾隆帝が母の還暦を祝って造営した庭園です。1860年に第二次アヘン戦争(アロー戦争)により破壊されていた庭園を、修復したのが西太后です。
※頤和園の万寿山は、高さは約60m。老人が山中で石の甕を作ったという言い伝えから、古くは甕山と呼ばれていた。1750年(清の乾隆15年)からで、乾隆帝が皇太后60歳の誕生日を記念するために、園静寺の跡地に大報恩延寿寺を建立し、その際山名も万寿山に改められた。
※昆明湖は頣和園2.9km2の4分の3を占める大きな湖で、杭州にある西湖を模して作られています。西湖を模したのは西太后ではなく、もともとの庭園を造った乾隆帝です。乾隆帝は清の絶頂期に皇帝となったので、性格は派手好みで、外征(他国への侵攻)、文化の振興(特に書を好んだ)等で、華やかな史実が残っており、書のコレクションの収拾などを目的に、たびたび江南地域(杭州、蘇州、紹興、揚州といった地域)にでかけていました。江南行幸の中で印象深かった杭州の西湖を作りたいという乾隆帝の強い願いが、この昆明湖になったわけです。
北京関連情報
■北京関連の書籍・旅行の情報
世界遺産に登録されている故宮博物院・天壇の紫薇軒で、中国でも有名な書道家と紹介される「愛新覚羅 兆基」さんによる書画の展示販売・書の実演販売が組み込まれることがある。1文字2万円、印章の押印でさらに2万円の案内がある。購入すると、先生と一緒の写真撮影も可能。書としての価値は不明なため、雰囲気に飲まれず、書を楽しめる人が購入することがお勧め。 |
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中国・北京・明十三陵博物館の24金メッキのメダル兼入場券 |
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■明十三陵の由来はクーデターと関係がある。明の初代皇帝の朱元璋は中国東部の南京に都を定め、朱元璋の死後、皇位を孫に継がせようとしたが、その四番目の息子の朱棣は皇位争いのために内戦を起こし、最終的に皇帝になった。 (下へ続く) |
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南京が陥落された後、朱元璋の孫は行方不明となり、今でも歴史上の懸案だったのである。朱棣は即位した後、南京は不安定だと思い、都を北京に移した。朱棣の在位期間中、自分のために陵墓の場所を選び、最終的に北京西北郊外の景色が美しくて守りやすく攻撃しがたいことから、自分の陵墓にし、しかも「長陵」と名づけた。1409年に建造をはじめ、明が滅亡した1644年まで、200年余りに亘って、13人の皇帝がここに埋葬され、明時代皇帝の陵墓群となったため、「十三陵」と通称されている。 |