デッドカントリー 旧中国の切手(清帝国から現在の中華人民共和国や台湾の中華民国が分離・成立するまでの期間) |
旧中国のページ内の切手索引 [ 大清帝国|中華民国|共産党軍(解放軍・革命軍)と膠州湾 ]
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大清帝国 ・・・ 最後の皇帝は溥儀(ふぎ)
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■18世紀が終わるまでには、清帝国とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。しかし、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年(世界で最初の切手が発行された年)宣戦布告した。
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竜(大清帝国、1878年)
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竜(大清帝国、1885年)3C
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竜(大清帝国、1885年)5C
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中国の一番切手の切手
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クリックで拡大します。 |
☆紫禁城(故宮、世界遺産に指定されています) 映画ラストエンペラーの舞台ともなった紫禁城
の大和殿です。
壮大さは目を瞠るものがあります。 故宮博物院は、1924年に北洋軍閥の一人である馮玉祥が
溥儀を紫禁城宮殿から退去させ、1925年10月10日に宮殿内で清朝が持っていた美術品などを
一般公開したのが始まりです。
切手で故宮の展示品の見学は絵画編、文物編でお願いします。
写真は、「今の中国写真集(北京)」。
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■日清戦争(第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に朝鮮王朝をめぐる日本と大清帝国の両者の全面戦争であり、また歴史的にも日中間の大規模かつ長期に渡る戦争としては最初のものです。明治政府は朝鮮との国交問題解決のためにも、まず朝鮮の宗主国である清と対等の国交条約を結び、その冊封関係を利用して朝鮮と交渉するという方針をたて、清の直隷総督との間で1871年9月日清修好条規及び通商章程を締結した。両国が当時おかれていた西欧列強による脅威を前提に相互扶助を誓約するものであった。他方両国には琉球王国の日清両属という領土問題での懸案もあった。その後日清戦争へと。詳細は他にて。上下の切手はちょうどその時期に発行されたことや日本のかかわりの意味が読み取れるものです。その後、遼東半島に関し三国干渉でロシアが介入してきたことから一旦売却しその金で軍備を増強し日露戦争へと流れてゆく。1895年、日本が台湾を清朝より併合。1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏し中国は日本の支配下から外れた。
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竜(1897年、日本印刷) 0.5C
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竜(1897年、日本印刷) 1C
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竜(1897年、日本印刷) 2C
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竜(1897年、日本印刷) 4C
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竜(1897年、日本印刷) 5C
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竜(1897年、日本印刷) 10C
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大清帝国に関する書籍
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■大清帝国の切手は、日本とロンドンで印刷され、区別は日本は「IMPERIAL CHINESE」の表記でロンドンは「CHINESE IMPERIAL」の表記である。
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■阿片戦争(アヘンせんそう、英:First Opium War, First Anglo-Chinese War)は清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争。
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竜(1898年、ロンドン印刷) 0.5C
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竜(1898年、ロンドン印刷) 1C
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竜(1898年、ロンドン印刷) 2C
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竜(1898年、ロンドン印刷) 3C
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竜(1898年、ロンドン印刷) 4C
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竜(1898年、ロンドン印刷) 5C
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竜(1898年、ロンドン印刷) 20C
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竜(1898年、ロンドン印刷) 30C
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旧中国・上海発行の切手
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旧中国・漢口(ハンコウ)
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中華民国発行の天壇(1909年) 世界遺産
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中華民国発行の天壇(1909年)
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中華民国(国民政府)
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■1911年に辛亥革命(革命のスローガンは「駆除韃虜,恢復中華,建立民国,平均地権(清朝打倒、中華回復、民国建国、地権平等)」)が勃発して清朝が打倒され、1912年1月1日に孫中山が総統府にて中華民国臨時政府の臨時大総統に就任する。袁世凱の臨時大総統就任により1912年4月に、中華民国臨時政府は北京へ移り(北京政府)、黄興により総統府は南京留守府に変わり、1913年の第二革命により袁世凱討伐軍の総司令部が南京に置かれる。孫文は1914年7月に中国革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称した。
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大清帝国・竜に「中華民国」加刷 文字種で分類(1912年)
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大清帝国・竜に「中華民国」加刷 10C (1912年)
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大清帝国・竜に「中華民国」加刷(1912年)
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大清帝国・竜に「中華民国」加刷
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辛亥革命後の孫文(1912年)2分
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辛亥革命後の孫文(1912年)8分
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辛亥革命後の孫文(1912年)10分
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■孫文(そんぶん)は、清末民初の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 号は中山、字は載之。中国では前者で、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun
Yat-senで知られる。
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■袁世凱(えん せいがい)は辛亥革命の混乱の中で清政府と孫文らの革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。さらに一時皇帝に即位したが、内外の反発を買って退位、失意のうちに没した。
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袁世凱大統領(1912年)
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袁世凱大統領(1912年)
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袁世凱大統領(1912年)
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中華民国、ジャンク(1913-23年)
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク
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中華民国、ジャンク・加刷
新彊専用の様です
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ジャンク・暫作・1分
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暫作・1分(黒色加刷)
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ジャンク・暫作・3分
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中華民国の稲刈り風景(1913-23年) 20分と50分、15分
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北京の入り口(1913-23年)1ドル
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北京の入り口(1913-23年)
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北京の入り口(1913-23年)5ドル
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北京の入り口(1913-23年)10ドル
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北京の入り口(1913-23年)20ドル
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中華民国発行の天壇(1923年)
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中華民国発行の天壇(1923年) |
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蒋介石大統領(1929年)
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蒋介石大統領(1929年)
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■蒋 介石(しょう かいせき、1887年10月31日-1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統で5回当選し、あわせて1943年から死去するまで中華民国元首の地位にあった。英語表記では
"Chiang Kai-shek"(チアン・カイシェック)。
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南京・中華民国維新政府樹立
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南京・中華民国維新政府樹立・FDC 孫文2.5分(1928年3月28日)
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■1927年に蒋介石により南京国民政府(中華民国維新政府)が置かれる。国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府です。以前の歴史は上段の部分でコメント。
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南京・中華民国維新政府樹立、
押印拡大図
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■中華民国維新政府は、1938年3月28日に南京で成立し、江蘇省、浙江省、安徽省の三省と、南京及び上海の両直轄市を統括していた政権。北洋軍閥系の要人であった梁鴻志が行政院院長として政権のトップにあった。日本の中支那派遣軍が日中戦争時に樹立した地方傀儡政権です。国旗には、中華民国の旧国旗である五色旗が使用されていた。他に「和平建國」の字の入った旗があったといわれる。また、独自の通貨として華興商業銀行券(華興券)を発行し、支配地域で流通させました。1940年に南京で汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、維新政府は臨時政府と共に3月29日に南京国民政府へと編入された。
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南京の孫文陵(1929年) 1C
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南京の孫文陵(1929年) 4C |
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中国国民政府が
「美国(=米国)開国150年」を記念して発行したもの
アメリカと中華民国の旗と地図(1939年)
開国(かいこく)とは、鎖国の反対で外国と交際・貿易をすること。
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南京の孫文陵(1929年) 4C10C |
南京の孫文陵(1929年) 4C1ドル |
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中華民国・南京の議事堂(1946年)
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中華民国・孔子、孔子の学校、孔子廟、孔子の寺(1947年)
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万里の長城の上を飛ぶカーチス”ジェニー”(中華民国、航空)
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■カーチス ジェニー (Curtiss Jenny)
1913年代、アメリカを代表する航空機メーカー・カーチス社は新型機の開発に苦労していたが、ことごとく失敗。ヨーロッパの進んだ技術を導入するしか方法がないとの結論に
達し1914年のはじめにイギリス、ソッピース社にいたB.ダグラス・トーマス技師を設計者として招いた。アメリカに来たトーマスは数ヵ月後の1914年春には試作機カーチスJの初飛行を成功させている。当時、第一次大戦で航空機が武器として活用されるようになり、パイロットの養成が急務となり、
練習機として開発されたジェニーが大量に生産され、その総生産数は8,000機を超えベストセラーとなった。(建築工房ブログより)
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中華民国・万里の長城の上を飛ぶ Junkers F-13(1932-7年、航空)
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中華民国・航空・加刷(1948年)
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1ドル→5万円(インフレ)
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中華民国・航空・加刷(1948年)
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中華民国の郵便搬送用トラック
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中華民国・華東・加刷
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中華民国の郵便自動車
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中華民国の郵便車(1947年)
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中華民国・家と山、工場
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万里の長城(国民政府)
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中華民国・孫文加刷(1948年)
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相当、紙質の悪い切手です。裏糊もなし
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中華民国・孫文加刷
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中華民国・孫文加刷
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中華民国・孫文加刷
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中華民国・孫文加刷
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中華民国・台湾省
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日本切手(大日本帝国郵便)に加刷
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中華民国・台湾省・3銭
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中華民国・台湾省・5銭
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中華民国・台湾省・10銭
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台湾限定
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■1946年6月、この時から中華郵政(中華民国の台湾において郵便事業および郵便貯金事業を行う公共事業体)が発行した切手が発売されるようになる。ただし大陸との通貨制度の相違のため、切手には「限台湾貼用」との表記が伴っていた。
1949年、中国国民党が国共内戦に敗北し台湾に逃れる。
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台湾限定、1932-34年発行切手に加刷
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台湾限定、孫文の肖像画切手に加刷
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台湾限定、孫文の肖像画切手に加刷
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台湾限定、孫文の肖像画切手に加刷
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共産党軍(解放軍・革命軍)・・現在の中国の前身
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■中国共産党は、1921年7月に、コミンテルンの主導により、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、中華民国の上海にて第一回中国共産党大会(中共一大会議)を開催、結成された。中華民国時期には、中国国民党と、時に協力し(1924年の第一次国共合作)、時に敵対し(1927年の蒋介石による4・12クーデター(上海クーデター)により国共分裂)、軍閥および日本との戦いを続けた。
■毛沢東率いる共産党軍(解放軍・革命軍)は、国民党軍に追われて1934年10月18日に根拠地を放棄し敗走、いわゆる「長征」を開始するが、この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた会議(遵義会議)で党の実権をほぼ掌握。1936年秋には陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)でコミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び第二次国共合作を構築。1937年に始まった日本軍閥との間で起きた日華事変では抗日戦線を展開するが、主として交戦(ゲリラ戦)をしたのは国民党軍で、共産党軍は山奥の延安に隠れながら朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は傍観し力を温存した。(下へ続く)
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
華北
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1946年− |
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毛沢東(華北、1949年)
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毛沢東(華北、1949年)
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毛沢東(華北、1949年)
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農夫と労働者(華北、1948年)
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
華中
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華中の通信切手・加刷(1949年)
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漢口地域の地図(1949年)
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華中・孫文・加刷
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
華東
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華東の開放地域の地図(1949年) 50円、3円、1円と2円
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華東の開放地域の地図(1949年) 5円と10円
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塔と輸送機関(華東、1948年)
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塔と輸送機関(華東、1948年)
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塔と輸送機関(華東、加刷)
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華東・孫文・加刷
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華東・孫文・加刷
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
華南
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広東のパンパール川の橋(1949年)
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広東のパンパール川の橋(1949年)
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
東北
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■中国共産党が東北部に拠点を移したのは、日本の敗戦後の事です。日本が敗戦し、その後に国民党との間に覇権をかけた戦争が起きると、中国共産党は支援国のソ連が占領していた東北部に拠点を移していきます。そこで多数の切手も発行されました。
■東北と八路軍:日本の敗戦後、国共内戦が再開すると、八路軍(現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織。)は更に大きな力を発揮するようになる。満州で、関東軍の装備を接収したソ連軍は、これをそのまま八路軍に与え、国民党軍を攻撃させた。八路軍は国民党軍との戦いに勝利し、1949年10月の中華人民共和国建国に大きな役割を果たした。
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毛沢東・共産党26周年(東北、1947年) 毛沢東(東北、1948-9年)加刷
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農夫と労働者(東北、1947年)
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クレーンの操縦者
(東北、1948年)
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労働者、旗、地球
(東北、1949年)
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帝国主義反対の旗を持つ労働者(東北、1947年)
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農場と工場(東北、1949年)
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旗を持つ労働者(東北、1949年)
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ハルピンの英雄の塔(東北、1949年)
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地球と旗(東北、1948年)
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中国地図と蒋介石とライオン(東北、1946年)
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中国地図と蒋介石とライオン(東北、1946年)
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毛沢東の肖像(東北、1947年)
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毛沢東の肖像(東北、1947年)
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(上からの続き)
■1945年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東と蒋介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は蒋介石率いる中国国民党軍との国共内戦となり、毛沢東は中国人民解放軍を率いて戦うこととなる。中国人民解放軍はソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗により、アメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍に勝利を重ね、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利し、1949年1月には北平(北京)に入城する。1949年4月23日には国民党政府の根拠地首都の南京を制圧した。
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
西北
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万里の長城(北西、1949年)
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
西南
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中国の地図と旗(西南、1950年) インフレ傾向が見える加刷
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中国の地図と旗(西南、1950年) インフレ傾向が見える加刷
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「毛主席/朱徳と人民解放軍(八路軍)」 |
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共産党軍(解放軍・革命軍)
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山東
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共産党軍(解放軍・革命軍) |
江西
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毛沢東(山東)
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江西・孫文・加刷
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ドイツ海軍の膠州湾占領
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■日清戦争後の1896年、ドイツは三国干渉で最終的に山東半島に目をつけた。ドイツ帝国は独清条約を結び、膠州湾(こうしゅうわん、Jiaozhou
Bay)を99年間清国政府から租借することになった。膠州湾はドイツ帝国が中国北部の山東半島南海岸に所有していた租借地で、膠州湾租借地の行政中心地として、ドイツは湾入り口東側の半島に青島(Tsingtao、現在の表記:Qingdao)を建設した。第一次世界大戦開戦直後、日本はドイツに対し、膠州湾租借地を中国に返還するよう最後通牒を発し、1914年11月7日には膠州湾は日本軍が占領した。
この後、日本は中国政府に対華21ヶ条要求を行い、山東省の権益は日本が引き継ぎ、青島は日本軍が統治した。1919年パリ講和会議での日本の山東権益の承認に対し、中国の民衆や学生は強く反発した(特に五四運動)。高まる国際的圧力の中、日本は山東省権益などを放棄することを決定し、1922年12月10日に日本は中国政府に膠州湾を返還した(山東還附)。
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■中国に租界地を持っていたのは、以下のとおりです。
●アメリカ[上海]1848年〜1863年共同租界に、●ベルギー[天津]1902年〜1931年、●イタリア[天津]1902年〜1943年、●オーストリア[天津]1902年〜1917年(第1次大戦敗戦国で接収)、●ロシア1898年〜25年間租借契約(ロシア革命で返還)、●ドイツ1898年〜99年間租借契約(第1次大戦敗戦国で接収)、●イギリス1898年〜25年.99年間租借契約、●フランス1899年〜99年間租借契約、●日本1905年〜18年間のち99年間租借契約 です。 99年租借が当時は基本だったのでしょうか?香港もマカオもそうです。
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