アジアの旅行写真|中国・広東省南部の食の広州市とマカオの玄関・珠海市(しゅかいし) |
広東省南部の広州市・珠海市
中華人民共和国広東省南部の地級市・珠海市(しゅかいし)はマカオ特別行政区に隣接する経済特区でイミグレがあります。磨製石器や彩文土器を使用した新石器文化が4千年から5千年前に珠海に存在していたことが判明しており、鳳凰山脈周辺や珠江周辺を中心に遺跡が分布しています。 広州市(こうしゅうし)は、古代の百越の地であるが、秦の始皇帝が中国を統一して現在の広州に南海郡番禺県を設置したのが始まりです。広州は中華人民共和国広東省に位置する副省級市。広東省人民政府が置かれる省都であり、華南地区全体の行政的中心でもある。人口約713万人であるがただし約300万程度と推定される流入人口があり、実質の常住人口は約1,000万人とみられ、上海市、北京市に次ぐ中国第3の大都市であり、「食は広州にあり」という、広東料理の中心地、中華グルメには垂涎の的の広東料理の中心地。 広州は今若い女性向けのファッションの発信地にもなった。 日本でも最近になり特区を創る動きがある。
ご注意)写真は2009年12月に娘が撮影したものです。著作権は保持しています。 |
広州市
■広州は、古代の百越の地であるが、秦の始皇帝が中国を統一して現在の広州に南海郡番禺県を設置したのが始まりである。 秦帝国の崩壊後、漢人官僚・趙佗が南越国を樹立して自立したが、前漢の武帝によって滅ぼされた。 漢代には交州に属し、三国呉が広州を分置した。古代から中国の南海貿易の中心地として発展し、唐代半ばの741年には最初の市舶司が設置され、多数のイスラム教徒やユダヤ人が訪れた。 外国人居留区である蕃坊もおかれた。 唐末の黄巣の乱に際して襲撃を受けて多大な打撃を受けたが復興し、五代十国時代には南漢王国の首都となった。 2010年の常住人口は1,270万人。
広州駅:中国国鉄・九広鉄路(広深鉄路)、 |
暑い気候である広東省では、医食同源の観点から、生薬にもなる食材、例えば山芋、杏仁、ハトムギ、麦門冬などを取り入れ、野菜や肉などをじっくり煮て、食材のエキスを抽出したスープ「湯」を非常に重視しており、種類も多く、日常的に食べている。広州市内のマックはいつも若い小姐たちで行列。 |
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中国・広州市の地図 |
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広東料理の飲茶(おかゆは最高です) |
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※広東料理の飲茶 「食は広州にあり」という。広東料理の中心地。香港の方が洗練されているかもしれないが、広州が本場である。 |
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■広州は珠江デルタ地帯の北部、西江、北江、東江の合流地点に位置する港湾都市である。海からは虎門を入り、獅子洋を遡る。隣接する行政市は仏山市、東莞市、中山市、清遠市、恵州市である。 |
■広東料理と呼ばれるものは、もともと広東省の一部であった海南島の海南料理もかつては広東料理の一種とする事があったが、味付けや調理法から福建料理の系統と考える方が妥当である。 広東語である飲茶(ヤムチャ)やワンタンが、英語でも日本語でもそのまま外来語として使われていることからも分かるように、中華料理の中では最も世界中に広まっている。 「飛ぶものは飛行機以外、四つ足は机以外、泳ぐものは潜水艦以外」なんでも食べると言われているほどさまざまな物を食材に使用している。 |
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早朝の広州の大きな広場、人気もまばら |
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※広州の名物料理と言えばハトの丸焼き。エジプトのハト料理は、ハトの中にお米が入っているが、広州のこのハトの丸焼きは、丸ごとハト1羽を焼いたもの。 そういえば京都の伏見稲荷にも、ウズラや雀の丸焼きもありました。 |
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朝もやの中の広州市街地 広州の市街地遠望 |
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孫文の銅像と広州・中山紀念堂 |
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広州・中山紀念堂
■広州の中山記念堂は、 1931年、辛亥革命の指導者孫文(1866-1925年、号は中山)を記念して、広州市民と海外華僑の献金によって建てられたもので、総統府が置かれていた場所(現在の越秀公園の南)に建てられた。 紺色の瑠璃瓦が美しい八角形のホールの高さは58メートル。5000人を収容できる内部には、柱は一本も使用されていない。ホールの前には高さ5メートルの孫文の銅像が立っている。
広州・中山紀念堂と孫文の立像 (拡大) |
広州・中山紀念堂 |
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広州・中山紀念堂の内部の様子 |
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早朝の広州・中山紀念堂(開館前) 広州・中山紀念堂 |
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広州・中山紀念堂の内部と孫文の胸像 |
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広州・陳氏書院
■広州・陳氏書院は、広州市の西側に位置する重要文化財に指定されている清朝の廟で、一般には陳家祠と呼ばれているが、地図や看板には中国民間工芸館と書かれることもある。 清朝末期に、“陳”姓の氏族が祖先を祭るために創建したものである。 前院、後院、西院と中庭を挟んで立ち並ぶ建物は、天井が高く、風通しがよい伝統的な広東式建築で、それぞれ廊下で結ばれている。 見所は建築物の屋根、柱、窓、欄干などいたるところに施された中国古典や故事にちなんだ動物、人物などの精巧な彫刻である。 現在は「広東民間工芸館」として陶磁器、書画、硯、象牙や翡翠の彫刻などが展示されている。「陳家祠」の別名もあり。
広州・市街地風景
■広州は最も古い名称が 「楚庭」と呼ばれる。紀元前214年、秦始皇帝が嶺南を統一した後、南海郡(「郡役所所在地」番禺にあった。即ち、今の広州)を建てて、広州が番禺と呼ばれ,226年に孫権は統制の都合で交州を交州と広州という二つの部分に分けた。州治が元々広信(今の広西の梧州、広東省の封開县の辺り)にあったので、広州の名前は広信の「広」という字を取ったものである。交広のそれぞれ統制した後、広州という州治が番禺に移転されて、広州の名前はそれになった。1921年に市政厅が成立してから、広州という都市に指定された。
広州・街中のネックレスの販売・修理屋さん |
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広州のファーストフード店と売り子さん |
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餅屋さんのお店の玄関の豪華な提灯(ランタン) |
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ひっそりと佇む信心深い |
■広州で評判の長隆国際サーカスを鑑賞しよう。 広州で世界最大級のサーカスを間近で鑑賞してみませんか。なにかとアクロバティックな中国。長隆国際サーカスの派手な音楽やまばゆい照明はもちろん、動物たちのアクションには圧巻です!また、「生死時速(Speed of LIFE AND DETH)」回る4つの輪の中で4人の男性が回る?というもの。今にも滑り落ちそうで、冷や冷やしながらみてしまった。 |
広州市の人通りの |
広州市街地のお祭り風景・ドラや太鼓で囃し立てて |
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広州市街地の食堂街の提灯 |
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■小姐(シャオチエ):小姐とは、中国語で「おねえさん」というような意味です、一言で言えば。主に未婚の女性のことを指します。 「小姐」は呼びかけにも使えて、中国ではレストランのウエイトレスなどに対して普通に使われていますが、台湾では「お水系」をイメージする人もいるんで、あまり頻繁には使われないようです。(台湾で、呼びかけとして「小姐」を使う場合は、「小妹」を使うことが多いです) |
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珠海市
■珠海は、戦国時代は百越の居住地であり、中原支配に組み込まれたのは前214の秦により嶺南地区に南海郡が設置されたことに始まる。 しかし秦の滅亡と同時に嶺南地区は再び中原支配を離れ南越国の勢力下に置かれるようになった。 武帝により南越国が滅亡した後、前漢は前111年(元鼎6年)
に番禺県設置し、後漢が滅亡すると呉による支配が行われた。その後は東晋時代は東官郡、南北朝時代には東莞県、隋代には宝安県の管轄とされた。 唐代になると757年(至徳2年)、東莞県は宝安県に改称され、珠海地区には初めて香山鎮が設置された(北宋期に香山寨と改称)。宋代の1152年(紹興22年)、
それまで東莞県に属していた香山寨を分割し、南海・新会・番禺三県の海岸地区と統合し香山県が設置され広州府に属すようになり、清末まで継続した。 辛亥革命により中華民国が成立すると1925年、孫文を顕彰し香山県は中山県と改称された。
広東語は、中華人民共和国の広東省の中心部、広西チワン族自治区の東南部から中部、香港とマカオの全域、および一部の華僑、華人の間で使用される。マレーシアとシンガポールにも多くの話者がおり、欧米やオセアニアの中国系社会でも主要な方言となっている。推定使用人口は8,000万人。
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