アジアの旅行写真|シルクロード 西安は中国古代の諸王朝の都となった長安 |
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西安 索引 [ 秦始皇兵馬俑博物館|秦始皇帝陵(驪山陵)|青龍寺(空海)|大慈恩寺・大雁塔|西の城門(安定門)|西安 飲食店等|西安 唐歌舞 ]
西安市(せいあんし、英語: Xi'an)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。 国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。
西安の古称は長安であり、かつては西都、西京、大興、京兆、奉元等とも称された。古代より政治の中心地として西周から秦、漢から隋、唐の都城と十数の王朝の都として千年の歴史を有す古都である。 2004年、西北大学が日本人遣唐留学生井真成の墓誌を市内から発見して話題となった。
西安の個別の施設のガイドさんは商売上手です。 国立の博物館、お寺さん、工場含め皆さん一応の説明が終わると秘密の部屋へご案内、値段から始まり値引き合戦。終われば出口までが遠く、途中には施設とはあまり関係ないもののお店があります。少し閉口した。中国の経済の不安定さを感じた。
2016年6月
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市街地から40kmの距離に民航総局が規定した七大ハブ空港の一つである西安咸陽国際空港が位置し、70の都市へ129路線(国際線は18都市25路線)が運行され中国国内において北京、広州、上海と共に四大空港に数えられている。
西安 秦始皇兵馬俑博物館
秦始皇兵馬俑博物館(The Museum of Qin Terra-cotta Warriors and Horses)。
兵馬俑(へいばよう)は、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には陝西省西安市臨潼区の秦始皇帝陵兵馬俑坑出土のものを指す。
始皇帝陵兵馬俑坑では、現在までに約8000体の俑が確認されている。兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない。また、かつては兵士の俑のそれぞれに顔料で彩色がされていたこともその後の発掘調査で判明した。 世界遺産。
兵馬俑は見るものを圧倒します。写真で見る兵馬俑は単純にすごいなとの感触でした、しかしいざ実物を見てみると気持ちが一新しました。あの存在感や生命力みなぎる姿は、我々を圧倒させるものでした。 その陰で兵馬俑の補修をする研究員のいくつかの破片を組み合わせる地道な活動があっての事と頭が下がる感謝の気持ちで一杯です。
Terracotta Warriors will overwhelm what you see. Look at the photo Terracotta Warriors was the feel of a simple Do not amazing, but the feeling was renewed and emergency look at the real thing. Sight of overflowing that presence or life force, was intended to overwhelm us.
銅車馬 兵馬俑博物館には兵馬俑の他にもう一つ世界に誇る宝物が展示されている。それは銅車馬である。銅車馬は秦始皇帝陵墓よりわずか西へ20㍍の所で発掘された。 銅車馬は秦始皇帝が巡行するさいに使用された車馬(馬車と馬)を銅で製作したものです。
復元された銅車馬(立車)と銅車馬(安車) 銅車馬は盛んに彩絵、装飾されていて、金銀の装飾部品は四千にも昇る大量の金銀を使用している。二号車を例にとると、金部品737件、銀部品983件と 車馬は宝物の如く異彩に包まれ金銀の光の中に主人の尊い身分を示している。 |
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「秦始皇帝陵及び兵馬俑」は中国陝西省西安北東30kmの驪山北側(臨潼区)にある秦始皇帝の陵(墓)とその周辺にある兵馬俑坑のユネスコの世界遺産(文化遺産)としての総称である。
関連ページ 4,000年の歴史の国・アジア(中国)の世界遺産の切手 兵馬俑
西安 秦始皇帝陵(驪山陵)
始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。 紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。 これが秦始皇帝陵である。 1974年に地元の住民により発見された。 この辺りは当時はザクロ畑だそうで今も沢山のザクロの木があり、6月には花を咲かせていました。
秦の始皇帝陵(驪山陵)碑 |
秦の始皇帝陵 |
秦の始皇帝陵(驪山陵) |
秦の始皇帝陵(驪山陵)碑 |
秦の始皇帝陵の珍モクレン |
秦の始皇帝陵のザクロ |
史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。
また兵馬俑坑は、始皇帝を取り巻くように配置されており、その規模は2万平方m余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。 ユネスコの世界遺産(文化遺産)
秦の始皇帝陵の白ザクロ |
秦の始皇帝陵の近くのシルクロード展覧館(食事、土産) |
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ザクロ(石榴、柘榴、若榴、学名: Punica granatum)は、初夏に鮮紅色の花をつける。しかし秦の始皇帝陵のザクロな殆どが朱色なのに1本の木だけ白色の花を咲かせていた。
西安 青龍寺(空海)
青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。 唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。
1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地が古の青龍寺であったことを確かめた。
弘法大師空海は延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。 第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。 同年12月23日に長安に入った。 31歳。
永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。 同年5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。 恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂(かんじょう)、7月に金剛界の灌頂を受ける。 ※灌頂とは、主に密教で行う、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式。
西安 大慈恩寺・大雁塔
大雁塔(だいがんとう)とは、652年に唐の高僧玄奘三蔵がシルクロード(絲綢之路)を経てインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。 名前は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。
高さは7層64mで現在は、西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っています。
大雁塔は、長安年間(701年 - 705年)、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、現在の7層に落ち着くという変遷を経ている。この様子は、杜甫や岑参といった詩人たちによって、詠まれている。
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
2014年に「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録された。
この時期にいた則天武后、玄奘、天智天皇~持統天皇に関して整理した。則天武后(624~705年)は中国歴史上、最大の悪女、あるいは、劉邦の呂后、清の西太后に並ぶ三大悪女といわれますね。
中国 |
618年 |
隋滅ぶ。 |
629年 |
玄奘(がインド旅行に出発 646年(貞観20)玄奘の『大唐西域記』が完成する |
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663年 |
白村江の戦い、救援を求められた倭国(天智天皇)が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する |
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則天武后の庇護の下、玄奘(~664年)は大般若教六百巻の翻訳などの偉業をなして生涯を閉じました。 |
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680年 |
則天武后は唐王朝を簒奪し、対抗勢力を弾圧する恐怖政治を行った。 |
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日本 |
552年 |
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。 奈良県桜井市金屋の初瀬川沿いに、「仏教伝来之地」碑が立つ。 百済の聖明王は、553年と554年に日本に援軍を要請した。 |
600年 |
第1回遣隋使派遣。 |
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630年 |
第一次遣唐使派遣。 |
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645年 |
大化の改新。 |
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672年 |
天武も持統も吉野から名張、上野を経由して大津で勝利(壬申の乱)した。 |
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686年 |
天武天皇崩御、690年持統天皇即位。 |
西安 西の城門(安定門)
西安古城壁は、完全に保存されている世界最大の古代城壁として、また世界で最も整った古代の軍事砦として有名で西安の城壁で最大の西門。この門はシルクロード(絲綢之路)の発着点ともなりました。
現在、西安にある城壁は、唐の長安城を基礎に明の洪武年間(1370年~1378年)にかけて、レンガを積み重ねて築かれ、周囲13912メートル、高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の広さ15メートルある。
西安古城壁 |
西安古城壁 |
安定門の楼閣 |
シルクロード(絲綢之路)の出発点 安定門 |
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シルクロード(絲綢之路)の中国側起点は長安(陝西省西安市)、安定門まさにここがシルクロードの中国側の起点となった場所です。 |
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西安の中心 朱雀門 |
西安街中で見かけた門 |
ライトアップした西安鐘楼 |
朱雀門は、条坊制を模範に造営された中国の古代都城では、宮殿近くの南側の中央門。城壁の内側にあり、中央北辺に宮殿、官衙からなる宮城が置かれた。
西安鐘楼 (西安钟楼) は、中国陝西省西安市にある鐘楼。明朝初期の洪武帝の時代の1384年に建てられ、西安市のシンボルとなった。当初は広済街にあったが、1582年に現在の場所に移された。中国国内では有数の大きさである。鐘楼には、唐時代かの、青銅製の鐘も多く存在している。楼は正方形で、高さは36メートルで、そのうち基壇の高さが8メートルある。
西安 飲食店等
クワ(桑)は、クワ科クワ属の総称。カイコの餌として古来重要な作物であり、また果樹としても利用される。シルクロードのこの地域では至極当たり前なのでしょうね。その果実(マルベリー
(Mulberry))は甘酸っぱく、美味であり、高い抗酸化作用で知られる色素・アントシアニンをはじめとする、ポリフェノールを多く含有する。今沢山の桑の実が中国各地の市場に出ています。
臭豆腐(しゅうどうふ、チョウドウフ)は、豆腐で作られる加工食品、湖南省長沙市の主流の漬け汁は真っ黒で、白い豆腐が黒く変色してしまうが、これも揚げて唐辛子の激辛タレをかけて食べる。「黒皮豆腐」とも称され、長沙では、ホテルのレストランでも食べられることが多い。たくわんやくさやに匹敵する食べ物。 しかし写真のものは臭いはするが揚げた後でも黒くはなく白い。長沙ではないのか?
西安 唐歌舞 陝西省歌舞大劇場
陝西省歌舞大劇場にて見学した唐代歌舞ショーは楊貴妃と玄宗皇帝の恋物語などの唐代絵巻を華麗に再現する歌舞ショーで、日本でも上演経験のある有名な歌舞団が熱演していました。西安でしか見れない中国屈指の地方劇だそうです。ダンスだけでなく珍しい楽器の演奏も素晴らしかった。
陝西省歌舞大劇場 |
観客は殆どが中国以外 |
二人の案内で演目開始 |
陝西省歌舞大劇場 当日の演目プログラム |
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美しい衣装をつけた男女が琵琶・笛・太鼓など音曲を奏でるのに合せての色あでやかな舞台は堂々としていた。
★遣唐使 井真成(せいしんせい、いのまなり?、699年 - 734年(日本・天平6年、唐・開元22年)) |
アジアの旅行写真|中華人民共和国 西安は中国古代の諸王朝の都となった長安 |
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