日本の写真・風景|日本三大霊山の一つ世界遺産・高野山 弘法大師空海 |
和歌山・高野山
日本三大霊山の一つ高野山。 日本三大霊山とは高野山、比叡山、恐山を言います。 高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100ヶ寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺とともに、真言宗の宗祖である空海(弘法大師、774年~835年)が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。 紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる、寺院や参詣道(熊野古道、大峯奥駈道、高野山町石道)などの総称。2004年7月7日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。 空海は宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。 南無とは従いますの意味だそうです。 流石に境内はコウヤマキ((高野槙・高野槇、Sciadopitys
verticillata)は、マツ目コウヤマキ科の種で日本固有種)が多い。 切手以外は殆ど拡大あり。 平城遷都1300年祭ホームページ
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ページ内索引 { 高野山・奥の院|奥の院・境内、食事|高野山・入口|高野龍神スカイライン }
■真言宗の開祖空海(弘法大師)が、桓武天皇の勅許を得て、延暦23年(804)私費で唐に渡り、 唐の長安において、唐の国師である青龍寺恵果阿闍梨から真言密教を授かり、20年掛かるものを2年で習得し帰朝してここに開山した。帰朝の船中か ら、師より授けられた三銛(さんこ:仏具)を空中に投げ、「伽藍建立の妙地を示し給え」と心に念じたところ、三銛の一つは高野山の松の樹に掛かって、まばゆいばかりの光を放っていた。それを見た空海は、この地こそ真言密教の修禅にふさわしい地で あるとして開山を決意した、と伝わる。残りの2つは、一つは京都の東寺、2つ目は四国の青龍寺(四国八十八ヶ所霊場第36番札所)と言われています。 相撲の朝青龍は青龍寺の近くに住んでいたことから四股名を名づけたそうです。 青龍寺の本堂、大師堂、薬師堂が一直線に並ぶのは唐の青龍寺を模したもの。 四国八十八カ所霊場36番札所。本尊の波切不動明王(秘仏)は、空海が唐から帰国する途中で嵐に遭った際に波切不動明王が現れて波を切り開いたといい、その時に見た不動明王をかたどったため波切不動明王といわれ漁業関係者の信仰を集めている。 高野山は大まかには、西の大門→金剛峯寺→奥の院となります。奥の院に至るまでにお寺さんが密集しています。
高野山・奥の院
■奥の院 :寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定(にゅうじょう)の地とされる奥の院である。一番奥には空海が今も瞑想されている御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま、永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じられている。「死去」と言わず「入定」というのはそのためである。
奥の院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。
高野山の奥の院には上杉謙信・景勝霊屋(たまや)、松平秀康及び同母霊屋、佐竹義重霊屋など、建造物として重要文化財に指定されているものをはじめ、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、法然、親鸞、初代 市川團十郎、俳優の鶴田浩二など古今のさまざまな人物の墓碑や供養塔がある。 また芭蕉や高浜虚子の句碑もある。戦国武将や江戸期の武人の墓所が多いが、中には源平の熊谷直実、平敦盛などなど、かつての恩讐を忘れ、うっそうと生い茂る杉木立の静寂の中にに眠っているようである。
■奥の院は、地表と川と橋の三重構成になっており、橋を渡ってからは死後の世界で、その下を流れる川を「三途の川」に見立 てているのだという。 皇室・貴族関係をはじめ、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)などの宗派をこえた各宗派の開祖、文人、 庶民にいたるまであらゆる階層の人々が供養塔を建立している。 橋を渡れば、当たり前だが俗物的な行為は全て禁止です。 御廟橋に入るときはお辞儀し、出るときは再度お辞儀と「南無大師遍照金剛」が必要です。 本廟は灯篭堂の裏で、お姿は灯篭堂の地下で見る事が出来ます。 空海は835年3月21日、62歳の時生身のま ま定入したという伝説があり、五穀を絶って即神仏となり、高野山の本廟で永遠に生き続けています。
弘法大師御廟(国史跡史蹟)の前の燈篭堂が正面に |
弘法大師御廟(国史跡史蹟)の前の最後の無明の橋(御廟橋) |
無明の橋(御廟橋)の手前の水かけ地蔵等 |
※水かけ地蔵等は全身に水を掛けるのではなく、足元に水を注ぐのが礼儀です。殆どの人が作法を間違っています。この無明の橋の下を流れているのが「玉川」と言い、流水灌頂(水子供養)や、真冬の水行を行う川。 |
高野山 奥の院・境内、食事
■熊谷寺は圓光大師(法然上人)・見真大師(親鸞上人)・熊谷蓮生法師(熊谷直実公)の御旧跡、法然上人二十五霊場の番外札所です。 熊谷寺は桓武天皇(737~806)の皇子、葛原親王(786~853)の御願により、承和4年(837年)に建立せられ、宗祖弘法大師(774~835)の法孫、真隆阿闍梨が初代住職です。 寿永3年(1184年)2月7日、摂津(今の神戸市)一の谷における源平の合戦(鵯越の逆落とし)に敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した熊谷直実は格闘数合やがて組敷いて首級をあげようと良く見ると、一子小次郎直家と同年輩の美少年、平家の大将参議経盛(1,125~1,185)の末子敦盛(1,169~1,184)でした。
高野山での食事
■高野山・赤松院で、住職による特別法話と、. 12年に一度、御開帳される、秘仏の「寅年守り本尊・虚空蔵菩薩」をじっくり、拝観させて頂きました。
■お遍路さんの格好:白の衣服は死に装束で、杖は卒塔婆と聞きました。それ程の思いでする事が、弘法大師に通じると思います。弘法大師は宗派を問わずお救いしてくれる。
切手編 ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」
■地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」もおおよそこれと同じ地域である)。8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては大変良い場所であるとされている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称の山は無い。
金剛峯寺・大門、金剛峯寺:木造矜羯羅童子立像 |
■国宝 八大童子立像(矜羯羅童子像(こんがら))は、寺伝では建久9年(1198年、鎌倉時代)運慶の 作と伝えられており、その作技などからも運慶乃至は運慶
工房で製作された可能性は極めて高い。 高野山の八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)は、国宝。 |
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金剛三昧院・多宝塔 |
金剛三昧院・経蔵 |
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和歌山・高野山・国宝 制多伽童子(せいたかどうじ)像 |
国宝・恵光童子 |
国宝・金剛三昧院・多宝塔 |
運慶作 |
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神応ケ峰からの高野山 |
護摩壇山とシャクナゲ |
金剛峯寺・国宝 |
(1969年、高野竜神国定公園) |
(1969年、高野竜神国定公園) |
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高野山と国宝「矜羯羅童子像」(日本、1999年) |
■奥の院 :弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。 |
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■高野山の主な名物、みやげ : 各種仏具 、高野槇 、高野槙(饅頭) 、槙の雫(饅頭) 、大師餅 、高野豆腐 、胡麻豆腐 、みろく石(饅頭)
、梅干(高野山というよりは和歌山県特産) 、大師陀羅尼錠 、般若湯 、生麩 、あんぷ
■コウヤマキ(高野槙・高野槇、Sciadopitys verticillata)は、マツ目コウヤマキ科の種で日本固有種。常緑針葉樹で高木となる。別名ホンマキ。コウヤマキ科は1属1種であり、コウヤマキのみを含む。 庭園に植栽し、材木としても利用される。世界三大造園木の一つで、木曽五木の一つ。古代には、棺材として最上級とされた。水に強くて朽ちにくいことから、現在でも湯船材や橋梁材として重宝されている。和名は、高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来する。また、高野山では霊木とされる。高野山では古くからヒノキ・スギ・モミ・ツガ・アカマツ・コウヤマキの六種の樹木を「高野六木(こうやりくぼく)」と呼んで重視した。
高野山入口
■[道の駅] 紀の川万葉の里 - 和歌山 かつらぎ町は和歌山県北東部に位置し、北は和泉山脈、南は紀伊山地の高野山麓にあって、町の中央には清流紀の川がゆったりと流れる自然豊かな町です。 気候は四季を通し温暖で、フルーツはパイナップル、バナナ以外はなんでも栽培され、特に栗、柿、桃、ぶどう等が盛んです。 また、平成16年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録が成され、本町においても「丹生郡比売神社」
「町石道」「八町坂」の登録が決定され、「観光のまち」「人と人のふれあう町」を目指しております。
車での行き帰り、九度山というところを通りました。ここはあの真田幸村が拠点にしていたところです。関が原で敗れた真田幸村は、この九度山に隠棲し、「十勇士」たちと反撃の機会をうかがったのです。
[道の駅] 紀の川万葉の里 |
[道の駅] 紀の川万葉の里 - 和歌山(かつらぎ町) |
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■九度山町(くどやまちょう)は、和歌山県北部に位置する町。真田信繁(幸村)所縁の地として知られる。紀の川の南岸にあり、そこに流れ込む不動谷川の川筋に沿ってできた谷間と、さらにそこへ東から流れ込む丹生川による谷間からなる。高野山への通り道である。
古くからの高野山領であり、明治まで続いた。関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れた真田昌幸・信繁親子が、この地に蟄居させられた。
柿の葉は昔から民間薬として重宝がられました。鯖も塩をすることで鮮度を保ち海より遠く離れた紀ノ川上流まで運ばれました。九度山は柿の産地です。
いつしかこの二つは合体し祭りに欠かせないご馳走として現在にまで受け継がれました。
高野龍神スカイライン
■高野龍神スカイライン(こうやりゅうじんスカイライン)は、起点を和歌山県伊都郡高野町奥の院交差点、終点を田辺市龍神村(旧・日高郡龍神村)とする延長42.7km 全線2車線のスカイライン。 和歌山県と奈良県の県境の1000メートル級の尾根に沿って延び、護摩壇山の近くを通る。
作成にあったては、Wikipediaや当地HP・パンフレット等を参考にしています。
日本の写真・風景|日本三大霊山の一つ世界遺産・高野山 弘法大師空海 |