Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
写真|浮世絵・錦絵 歌川国芳、弟子の月岡芳年 他。 国芳は、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。

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写真|浮世絵・錦絵 歌川国芳、弟子の月岡芳年 他

 日本が世界に誇る浮世絵(an ukiyoe)の写真です。 特に歌川国芳とその弟子達の作品を取り上げています。 他には海外の美術館にて撮ったものも入れています。 2019年に名古屋市立博物館で開催された『挑む浮世絵 国芳から芳年』特別展覧会。
 特別展内ですべての展示品の撮影がOKでした。
 歌川 国芳(寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師。 画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号した。 12歳の頃に描いた鍾馗図が初代歌川豊国の目に止まり、程なく豊国門に入る。 画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。 江戸日本橋本銀町一丁目で生まれる。
 弟子の月岡 芳年(つきおか よしとし、1839年4月30日(天保10年3月17日) - 1892年(明治25年)6月9日)は、幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師。歌川国芳に師事した。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。 
参考文献:『挑む浮世絵 国芳から芳年』   国芳のニュースはこちら
 


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 浮世絵・錦絵

歌川 国芳

唐土廿四孝 閔子鶱
『東西海陸紀行』/歌川国芳

唐土廿四孝 菫永
『東西海陸紀行』
/歌川国芳

和漢準源氏 乙女 天羅国斑足王 悪狐華陽夫人顕
/歌川国芳

唐土廿四孝 菫永 和漢準源氏 乙女 天羅国斑足王 悪狐華陽夫人顕/歌川国芳

■『東西海陸紀行(Gedenkwaerdige zee en lantreize door de voornaemste landschappen van West en Oostindien. 1682)』は、1640年のブラジル赴任以降、バタヴィア、北京、インドと世界各地をめぐったオランダ東インド会社社員のヨハン・ニューホフ(1618-1672)のスケッチ入りの日記をまとめ、本人の没後に出版された旅行記。 舶載され日本にも到着、当時の蘭学者らにとって最も重要な世界地理情報源のひとつでした。 浮世絵師歌川国芳(1797−1861)の手に渡ったらしく、「忠臣蔵十一段目夜討之図」や「二十四孝童子鑑」など、国芳の洋風版画の原図としても利用されました。
■閔 子騫(びん しけん、紀元前536年 - 紀元前487年)は、中国春秋時代の儒学者。子騫は字、名は損。魯国出身。孔門十哲の一人。徳行で有名であり、孔子からも孝行者であると賞賛されている(『論語』先進第十一)。

源頼光酒呑童子退治/勝川春亭

朝比奈三郎鰐退治/歌川国芳

源頼光酒呑童子退治/勝川春亭 朝比奈三郎鰐退治/歌川国芳

■酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。・・・
大江山には3つの鬼退治伝説が残されている。一つは、『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王(彦坐王)が土蜘蛛陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。二つめは聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話、三つめが源頼光と頼光四天王が活躍したことで知られる、有名な酒呑童子伝説である。
■朝比奈 三郎 義秀は、鎌倉時代初期の武将・御家人。安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。義秀の大力の話は『曽我物語』にもあり、また鎌倉の朝夷奈切通(朝比奈切通し)は義秀が一夜で切り開いたものという伝説もある。義秀は大力の勇者であったため、『平家物語』などの軍記物語で活躍した大力の女武者巴御前の子と伝わる。
■土蜘蛛は、記紀の時代には、奥州から九州に至るまで広く存在していた皇命に従わない異形の民を指していた。特に九州に多く、通常は、洞穴の中に住む未開の民であり、朝廷に征討されていった。

大江山酒呑童子/歌川国芳

源頼光土蜘蛛退治/歌川国芳

大江山酒呑童子/歌川国芳 源頼光土蜘蛛退治/歌川国芳

児雷也と大蝦蟇/歌川国芳

弁慶が勇力戯に三井寺の梵鐘を叡山に引揚げる図
/歌川国芳

児雷也と大蝦蟇/歌川国芳 弁慶が勇力戯に三井寺の梵鐘を叡山に引揚げる図/歌川国芳

龍宮玉取姫/歌川国芳

白井権八と亀菊 山中団九郎を討つ/歌川国芳

龍宮玉取姫/歌川国芳 白井権八と亀菊 山中団九郎を討つ/歌川国芳

■自来也、児雷也(じらいや)は、江戸時代後期の読本に登場する架空の盗賊・忍者
■承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。
■玉取姫・
海女の玉取り伝説(香川県志度町)
■団九郎は、江戸時代初期の盗賊で、岩屋を根城に尾張、鳴海、知立など東海道筋に出没し、人々に恐れられていました。この話を聞いた武士・白井権八が猿投山に乗り込み、一味を滅ぼしたという伝説があります。「豊田市ぶらてくガイド」

誠忠義士伝 吉田定右ェ門兼貞/歌川国芳

誠忠義臣名々鏡 ち  堀部弥兵衛金丸/歌川国芳

二十四考童子鑑 楊香/歌川国芳

誠忠義士伝 吉田定右ェ門兼貞/歌川国芳 誠忠義臣名々鏡 ち  堀部弥兵衛金丸/歌川国芳 二十四考童子鑑 楊香/歌川国芳

■楊香は父と山に入った時虎に遭い、父の命を守るために追い払おう とした。しかし敵わなかったので天に自らを犠牲にし、父を守りたまえと祈った。すると虎が逃げていき、無事に父子で家に帰ることが出来たという。(中国二十四孝)

誠忠義士聞書之内 討入本望之図/歌川国芳
■大星由良之助・力弥ほか、『仮名手本忠臣蔵』の役名が記されていることから、芝居絵として描かれていることがわかります。
高師直(吉良上野介)邸の門外から梯子をかけて、まさに討ち入ろうとする場面です。

誠忠義士聞書之内 討入本望之図/歌川国芳

忠臣蔵十一段目 両国橋勢揃図/歌川国芳

八犬伝之内芳流閣/歌川国芳

忠臣蔵十一段目 両国橋勢揃図/歌川国芳 八犬伝之内芳流閣/歌川国芳

通俗水滸伝豪傑百八人之一人 花和尚魯知深初名魯達
/歌川国芳

相馬の古内裏/歌川国芳 国芳の代表作の一つ
■山東京伝による読本『善知安方(うとうやすかた)忠義伝』に取材した作品で、源頼信の
家臣大宅太郎光国と、平将門の遺児で、妖術を操る滝夜叉姫との対決の場面である。

通俗水滸伝豪傑百八人之一人 花和尚魯知深初名魯達/歌川国芳 相馬の古内裏/歌川国芳

■魯 智深(ろ ちしん)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。天孤星の生まれ変わりで、序列は梁山泊(現在の山東省西部、EDEN(エデン)、「優れた人物たちが集まる場所」)第十三位の好漢。渾名は花和尚(かおしょう)で、「花」は刺青を指し全身に刺青があったことが由来。少々思慮は浅いが義侠心に厚く、困っている者を見ると助けずにはいられない性格。
■滝夜叉姫(たきやしゃひめ)は、平将門の娘とされる伝説上の妖術使い。本来の名は五月姫(さつきひめ)という。天慶の乱にて父将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされるが、生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船明神の社に丑三つ時に参るようになった。満願の二十一夜目には貴船明神の荒御霊の声が聞こえ、五月姫は妖術を授けられた。

源三位頼政鵺退治/歌川国芳

源三位頼政鵺退治/歌川国芳

源三位頼政鵺退治/歌川国芳 源三位頼政鵺退治/歌川国芳

■源 頼政は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出して従三位に叙せられた。源三位(げんざんみ)。 古典『平家物語』には鵺(ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が記されている。それによると、近衛天皇の御世、帝が毎晩何かに怯えるようになった。 その昔、帝の病平癒祈願のため、源氏の棟梁・源義家が御所にあがり、「陸奥守、源義家!」と叫んで弓の弦を三度鳴らしたところ病魔が退散し、帝の容態はみるみる回復した。そのため此度も武士を警護につけるがよいということになり、同じ源氏の一門で武勇の誉れ高かった頼政が選ばれた。深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れた。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。

列猛伝 源三位頼政
/歌川国芳

列猛伝 宮本武三四
/歌川国芳

清玄堕落之図/月岡芳年

真勇競 弁慶/歌川国芳

列猛伝 源三位頼政/歌川国芳 列猛伝 宮本武三四/歌川国芳 清玄堕落之図/月岡芳年

■宮本武三四とは歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた。宮本 武蔵は、江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名。
■清玄・桜姫は、浄瑠璃、歌舞伎などの登場人物。 聖僧堕落説話「清玄桜姫物」の主人公。近松門左衛門の「一心二河白道(いっしんにがびゃくどう)」や、4代鶴屋南北の「桜姫東文章(あずまぶんしょう)」などに脚色された。清玄は京都清水寺の僧。参詣にきた桜姫に恋し、破戒堕落し殺されても亡霊となって姫につきまとう。

宇治川合戦之図/歌川国芳

宇治川合戦之図/歌川国芳

宇治川合戦之図/歌川国芳 宇治川合戦之図/歌川国芳

■宇治川合戦は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。宇治市の瀬田の当たりの宇治川で行われた。結果は頼朝軍の勝利。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」が有名です。
■川中島合戦は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。信玄は日叙上人に、川中島の合戦で勝利をおさめたのは身延山(山梨県南巨摩郡にある海抜1153メートルの山)のお陰であったという感謝の手紙を出しています。

甲越川中島大合戦/歌川国芳

甲越川中島大合戦/歌川国芳

身延山合戦之図/歌川芳宗

川中島合戦対陣図/歌川国芳

身延山合戦之図/歌川芳宗 川中島合戦対陣図/歌川国芳

曽我政宗本意を達し右幕下の本陳へ切込捕ハるゝ図 曽我夜討之図/歌川国芳 大判六枚続 (左、真中)

曽我政宗本意を達し右幕下の本陳へ切込捕ハるゝ図 曽我夜討之図/歌川国芳 大判六枚続

曽我政宗本意を達し右幕下の本陳へ切込捕ハるゝ図 
曽我夜討之図/歌川国芳 (右)

■曾我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。
虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年) - ?)は、鎌倉時代初期の遊女。曾我祐成の妾。お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれる。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちを描いた『曽我物語』で、この物語を色づけ深みを持たせる役割をしている。『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。俳句の夏の季語に「虎が雨(とらがあめ)」という言葉があるが、旧暦の5月28日に降る雨に後世の人びとが虎御前の悲しみを重ねたものである。この日は曾我兄弟の仇討ち決行の日であり、祐成の命日に当たる。

敵ケ原大合戦之図/月岡芳年 (左、真中)

敵ケ原大合戦之図/月岡芳年 敵ケ原大合戦之図/月岡芳年

■敵ケ原大合戦 関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた。石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。 ★湯浅小介高貞  湯浅 五助(ゆあさ ごすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大谷吉継の家臣。諱は隆貞(たかさだ)とされる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた。(西軍) ★品 左近友之  島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。関ヶ原の戦いで黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去した。(西軍)

敵ケ原大合戦之図/月岡芳年 (右)

信州川中嶌百勇将戦之内 真田喜兵衛昌幸/歌川国芳

■こま込のなす 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。

信州川中嶌百勇将戦之内 真田喜兵衛昌幸/歌川国芳

文月の七夕/歌川国芳

満月の月/歌川国芳

縞揃女弁慶 暦を見る美人
/歌川国芳

江戸じまん名物くらべ こま込のなす/歌川国芳

文月の七夕/歌川国芳 満月の月/歌川国芳 江戸じまん名物くらべ こま込のなす/歌川国芳

大願成就有ケ瀧縞 
文覚上人/歌川国芳

註文御誂染 あいねつミ
/歌川国芳

当世夏景色/歌川国芳
水茶屋の娘

睦月 中万字屋内錦木
/歌川芳重 遊女

註文御誂染 あいねつミ/歌川国芳


団扇に張って使う団扇絵

当世夏景色/歌川国芳 睦月 中万字屋内錦木/歌川芳重

皇都会席別品競 久保町売茶亭 春本いく/月岡芳年
芝の料亭「売茶亭」

稲本屋内小稲/歌川国芳
吉原の遊女

古今比女鑑 秋色/月岡芳年
女流俳人

山海めでたいつゑ 十 天気にしたい 土佐鰹節/歌川国芳

皇都会席別品競 久保町売茶亭 春本いく/月岡芳年 古今比女鑑 秋色/月岡芳年 山海めでたいつゑ 十 天気にしたい 土佐鰹節/歌川国芳

新吉原角街稲本楼ヨリ仲之街 仁和賀一覧之図/落合芳幾

■吉原俄(にわか) 江戸吉原の遊郭で行われた即興芝居。享保年間(1716~1736)に始まり、
毎年8月中旬から9月中旬まで街頭の屋台の上で幇間(ほうかん)や芸者などが演じた。

はやく酔をさましたい 豊前小倉縞/歌川国芳

新吉原角街稲本楼ヨリ仲之街 仁和賀一覧之図/落合芳幾 はやく酔をさましたい 豊前小倉縞/歌川国芳

見立多以尽 おしゃくがしたい/月岡芳年

見立多行以尽 とりけしたい
/月岡芳年

見立多以尽 洋行がしたい
/月岡芳年

見立多以尽 てがあらいたい
/月岡芳年

見立多以尽 おしゃくがしたい/月岡芳年 見立多行以尽 とりけしたい/月岡芳年 見立多以尽 洋行がしたい/月岡芳年 見立多以尽 てがあらいたい/月岡芳年

風俗参十二相 暗さう 明治年間妻君の風俗/月岡芳年

風俗参十二相 かゆさう 嘉永年間かこゐものの風ぞく
/月岡芳年

四代目中村歌右衛門死絵
/歌川国芳

織越大領政知/歌川国芳
四代目坂東彦三郎演

風俗参十二相 暗さう 明治年間妻君の風俗/月岡芳年 風俗参十二相 かゆさう 嘉永年間かこゐものの風ぞく/月岡芳年 四代目中村歌右衛門死絵/歌川国芳

二代目沢村訥升の前田利家 市川左団次の佐久間盛政 
沢村源平の三法師君 五代目坂東彦三郎の羽柴秀吉 
九代目市川団十郎の柴田勝家/月岡芳年

見立橋弁慶/落合芳幾

見立橋弁慶/落合芳幾

日本駄右エ門猫之古事/歌川国芳

第二番目 三題咄高座新作
(和国ばし藤次 市川小団次)/落合芳幾

第二番目 三題咄高座新作(和国ばし藤次 市川小団次)/落合芳幾

■日本駄右エ門は、歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」の登場人物。白浪五人男の首領。日本六十余州をあらしまわった大盗賊。 日本駄右エ門猫之古事は、弘化4年(1847)7月市村座上演の「尾上梅寿一代噺」に取材した役者絵。中央の老婆が三代目尾上菊五郎。破れた御簾の向こうから正面を見据える大きな猫の顔が大迫力です。

蛍狩り/歌川芳虎

立美人図/歌川国芳

文殊菩薩図/月岡芳年

見立忠義むすめ/歌川芳艶

蛍狩り/歌川芳虎 文殊菩薩図/月岡芳年 見立忠義むすめ/歌川芳艶

としよりのよふな若い人だ/歌川国芳

流行猫の戯 身の臭婬色時(みのくさささかりのいろどき)/
歌川国芳

としよりのよふな若い人だ/歌川国芳 流行猫の戯 身の臭婬色時/歌川国芳

■『としよりのよふな若い人だ』については、浮世絵のジャンルのひとつに「寄せ絵(だまし絵)」というものがあります。名前の通り人物や動物を寄せて、字や人の顔を描いた作品のことをいいます。寄せ絵は歌川国芳の作品が非常に有名。
■『里すゞめねぐらの仮宿』:天保の改革によって役者絵や遊女に関わる絵が禁止され、浮世絵界は大打撃を受けたが、国芳は役者や遊女を動物に見立てて描き、その規制をかいくぐり、ユーモア溢れる世界を創出した。弘化2年(1845)の暮れ、吉原が火災に遭い、仮宅(吉原以外の仮の営業所)での営業を余儀なくされた模様を取り上げている。 吉原の仮営業を知らせる広報(吉原の広告)。
■『亀喜妙々』:実は役者絵です。カメの顔が人です。カメの甲羅にはそれぞれの役者の家紋が描かれている。天保の改革の影響が色濃く出ている。

里すゞめねぐらの仮宿/歌川国芳

亀喜妙々/歌川国芳

里すゞめねぐらの仮宿/歌川国芳 亀喜妙々/歌川国芳

流行逢都絵希代稀物/歌川国芳

浮世又平名画奇特/歌川国芳

流行逢都絵希代稀物/歌川国芳


■『浮世又平名画奇特』:題材は、近松門左衛門の「傾城反魂香・又平住家の場」宝永5年(1708)。『流行逢都絵希代稀物』

浮世又平名画奇特/歌川国芳

源頼光公舘土蜘作妖怪図/歌川国芳

駒くらべ盤上太平棋/歌川国芳

源頼光公舘土蜘作妖怪図/歌川国芳 駒くらべ盤上太平棋/歌川国芳

きたいなめい医 難病療治/歌川国芳

二代目竹沢藤次曲独楽 九尾の狐三国渡/歌川国芳

きたいなめい医難病療治/歌川国芳


■「きたいなめい医」とは、江戸時代には珍しかった女医を示す

二代目竹沢藤次曲独楽 九尾の狐三国渡/歌川国芳

■『浅草奥山生人形』は、熊本出身の人形師・松本喜三郎が、安政2(1855)年から江戸・浅草奥山で生人形を用いて「外異国人物」の姿を展示した見世物は大変な評判になり、ここに示した歌川国芳の《浅草奥山生人形》をはじめ、そのさまを伝える錦絵が大量に制作された。

浅草奥山生人形/歌川国芳

二代目竹沢藤次曲独楽 お岩稲荷/歌川国芳

浅草奥山生人形/歌川国芳 二代目竹沢藤次曲独楽 お岩稲荷/歌川国芳

駒くらべ将棋のたはむれ はだかの王将・まってくんねへまたねへ/歌川国芳

道外武者 御代の若餅
/歌川国芳

新撰東錦絵 生嶋新五郎之話/月岡芳年

駒くらべ将棋のたはむれ はだかの王将・まってくんねへまたねへ/歌川国芳 道外武者 御代の若餅/歌川国芳 新撰東錦絵 生嶋新五郎之話/月岡芳年

■『道外武者 御代の若餅』は、天下統一を「餅つき」にたとえ、織田信長が杵で餅をつき、明智光秀が餅をひっくり返し、サル顔の羽柴秀吉が餅を丸めて、最後にそれを食べるのが徳川家康であるという錦絵です。
■生島 新五郎は、江戸時代中期の歌舞伎役者。江戸城大奥の月光院付きの御年寄であった江島と共に、江島生島事件の中心人物である。

当盛見立人形の内 二かい座敷の図/歌川国芳

流行菊花揃 巣鴨通 植木屋弥三郎/歌川国芳

当盛見立人形の内 二かい座敷の図/歌川国芳 流行菊花揃 巣鴨通 植木屋弥三郎/歌川国芳

浅茅ケ原一ツ家之古図 師匠の筆意に習らつて/歌川芳盛

当盛見立人形之内 一ツ家之図/歌川国芳

浅茅ケ原一ツ家之古図 師匠の筆意に習らつて/歌川芳盛

観世音霊験/歌川国芳

木曽街道六十九次之内 大久手 一ツ家老婆/歌川国芳

一魁随筆 一ツ家老婆
/月岡芳年

観世音霊験/歌川国芳 木曽街道六十九次之内 大久手 一ツ家老婆/歌川国芳 一魁随筆 一ツ家老婆/月岡芳年

安達原一ツ家之図/歌川国芳 
もう一つに”ひとつ家”

奥州安達がはらひとつ家の図/月岡芳年

月百姿 孤家月/月岡芳年

安達原一ツ家之図/歌川国芳 奥州安達がはらひとつ家の図/月岡芳年 月百姿 孤家月/月岡芳年

■「浅茅ヶ原の鬼婆」は、東京都台東区花川戸に伝わる伝説。一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称される。浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。江戸時代後期には江戸で広く知られたものになっており、浮世絵や芝居の題材としても数多く取り上げられている。
用明天皇の時代(在位:585年-587年)、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があった。旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害した。亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。老婆が殺した旅人が999人に達した。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。
浅草寺(東京都台東区)には安政2年(1855年)の開帳のおりに奉納された浮世絵師・歌川国芳による大きな額の絵馬が保存されている。国芳には『木曽街道六十九次之内』(「大久手 一ツ家老婆」)や『本朝二十四孝』(「一ツ家の老女」)や『観世音霊験一ツ家の旧事』など、この伝説を描いた作品は他にも多い。その構図は生人形の興行としても再利用されてもいる。 
■「安達ヶ原の鬼婆」:黒塚は、福島県二本松市(旧安達郡大平村)にある鬼婆の墓、及びその鬼婆にまつわる伝説。安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆」として伝えられている。能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』もこの黒塚の鬼婆伝説に基づく。 黒塚の近隣にある観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』などによれば、神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求めた。岩屋には一人の老婆が住んでいた。老婆は奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。逃げる祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えた。すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた。祐慶は平安時代後期に実在した人物。
■生人形とは、江戸時代の後期から明治時代にかけて製作された細工物であり、実際に生きている人間のように見えるほどの精巧な細工をほどこした人形。嘉永5年(1852)、大阪の難波新地で行われた張子細工の役者の似顔絵人形(大江眼龍齋作)が先駆と言われている。

外国写真鏡之図
/歌川芳員

端午の節句/歌川芳藤

一魁随筆 山姥 怪童丸
/月岡芳年

大日本名将鑑 道臣命
/月岡芳年

外国写真鏡之図/歌川芳員 端午の節句/歌川芳藤 大日本名将鑑 道臣命/月岡芳年

芳年略画 志渡の浦玉取蜑、雷公行水/月岡芳年

月百姿 四条納涼/月岡芳年

月百姿 高倉月 長谷部信連/月岡芳年

月百姿 信仰の三日月 幸盛/月岡芳年

芳年略画 志渡の浦玉取蜑、雷公行水/月岡芳年 月百姿 高倉月 長谷部信連/月岡芳年 月百姿 信仰の三日月 幸盛/月岡芳年

月百姿 吼噦/月岡芳年

■怪童丸は、浄瑠璃・歌舞伎の山姥(やまんば)物に登場する子供の役名。坂田公時(金時)の幼名。金太郎。
■道臣命(みちのおみのみこと)は記紀に登場する人物。初名は日臣命(ひのおみのみこと)。大伴氏の祖。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた。
■志渡の浦玉取蜑は、 玉取姫・海女の玉取り伝説(香川県志度町)と同じ。タコ、雷
■長谷部 信連(はせべ のぶつら)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。信連の子孫は能登国穴水の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。
■山中鹿之助幸盛(尼子十勇士) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。
■吼噦(こんかい)は、キツネの鳴き声を表す語。また、狐のこと。

月岡芳年

月百姿 吼噦/月岡芳年

頼光山中ニ妖怪見る図/歌川芳員

矢島海底図/歌川芳艶

頼光山中ニ妖怪見る図/歌川芳員

清盛布引滝遊覧義平霊難波討図/歌川芳房

清正朝鮮国ヨリ日本ノ富士ヲ見ル図/歌川芳藤

清盛布引滝遊覧義平霊難波討図/歌川芳房 清正朝鮮国ヨリ日本ノ富士ヲ見ル図/歌川芳藤

■『清盛布引滝遊覧義平霊難波討図』は、平清盛の病気全快の祝宴が、涼を誘う天下の名勝地・布引の滝で催された。 「平治の乱」(1159年)で敗北し逃亡し捕まり、難波次郎常俊が六条川原で打ち首の介錯をした源氏の棟梁・源義朝の嫡男で頼朝、義経の兄・源義平。 その義平の霊が雷となって復讐に燃えるそのすさまじい形相(中央上部)と雷光に当たり敢え無く雷にうたれ炎に包まれた平清盛の長子・重盛の家来・難波次郎常俊の容貌とが、対象的だ。 稲妻の直硬線には瞬時の速度感が漲り、強烈な印象を受ける。逃げまどう武士たちが、いかにも驚き戸惑う姿が克明に描かれている。 清盛の姿は一瞬の風雨にやぶれた大傘(天蓋)の下に見える。 この浮世絵が出版されたのは安政三(1856年)。その前年には、世にいう「安政の大地震」(1855年)が起きたこともあって、この後、天変地異に材をとった浮世絵が流行した。
■『東名所墨田川梅若之古事』は、平安時代の中頃、吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御膳の間には梅若丸という男の子がありました。琵琶湖のほとり大津の浜(現・滋賀県)で人買いの信夫藤太と出合います。武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時です。12歳の梅若丸は幼い身での長旅の疲れから重い病気にかかりました。信夫藤太はそんな梅若丸を置き去りにしたのです。(墨田区堤通の 梅柳山 木母寺)

西郷隆盛切腹図/月岡芳年

東名所墨田川梅若之古事/月岡芳年

西郷隆盛切腹図/月岡芳年 東名所墨田川梅若之古事/月岡芳年

偐紫田舎源氏/月岡芳年

祐天不動の長剣を呑む図/月岡芳年

偐紫田舎源氏/月岡芳年

■『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)は、柳亭種彦の未完の長編合巻。挿絵は歌川国貞。文政12年(1829年) - 天保13年(1842年)刊。紫式部の『源氏物語』を下敷きにして、時代を平安時代から室町時代へ移している。語り手は、江戸日本橋・式部小路の女・お藤で、鉄砲洲の人丸神社に参詣し、石屋の二階に仮住まいして筆を取った、という設定で語りはじめる。水野忠邦の天保の改革が始まると、「将軍家の大奥の内情を書いた」「光氏は徳川家斉がモデル」などの噂から本書の絶版と種彦の断筆が命ぜられ、38編までで終わった。

英名二十八衆句 御所五郎蔵/月岡芳年

英名二十八衆句 福岡貢
/月岡芳年

英名二十八衆句 白井権八/月岡芳年

吉野山合戦/歌川国芳

英名二十八衆句 御所五郎蔵/月岡芳年 英名二十八衆句 福岡貢/月岡芳年   吉野山合戦/歌川国芳

英名二十八衆句 因果小僧六之助/月岡芳年

■英名二十八衆句(えいめいにじゅうはっしゅうく)は月岡芳年及び落合芳幾による浮世絵木版画の連作であり、それぞれが14図ずつ描いている。慶応2年(1866年)から慶応3年(1867年)にかけて刊行された。作品の大半は芝居から題材を得ており、いわゆる無惨絵の代表作である。外題は赤地の短冊枠に画題とともに記され、その左の白地の短冊枠に松尾芭蕉、大島蓼太、向井去来らの俳句が記されている。
あまりにグロテスクなもの・エグイものは割愛しました。

英名二十八衆句 団七九郎兵衛/月岡芳年

英名二十八衆句 因果小僧六之助/月岡芳年 英名二十八衆句 団七九郎兵衛/月岡芳年

英名二十八衆句 勝間源五兵衛/月岡芳年

英名二十八衆句 高倉屋助七/月岡芳年

英名二十八衆句 姐妃の於百/月岡芳年

英名二十八衆句 古手屋八郎兵衛/月岡芳年

英名二十八衆句 勝間源五兵衛/月岡芳年 英名二十八衆句 高倉屋助七/月岡芳年 英名二十八衆句 姐妃の於百/月岡芳年 英名二十八衆句 古手屋八郎兵衛/月岡芳年

■歌川 芳重(うたがわ よししげ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。歌川国芳の門人。歌川の画姓を称し一要斎と号す。作画期は天保から安政の頃にかけてで、美人画や合巻の挿絵などを描いている。
■歌川 芳虎(うたがわ よしとら、生没年不詳)とは、江戸時代末期から明治時代中期にかけての浮世絵師。幕末から開化期にかけて、歌川貞秀と並び活躍した絵師の一人である。11歳のときに国芳の門人となり、天保(1830年 - 1844年)の頃から作画を開始している。国芳が得意であった武者絵に秀で、役者絵にも錦昇堂版の役者大首絵などの力作がある。
■歌川 芳艶(うたがわ よしつや、文政5年閏1月1日(1822年2月22日) - 慶応2年6月22日(1866年8月2日))とは、江戸時代末期の浮世絵師。国芳の武者絵の才能を最もよく受け継いだ絵師である。
■歌川 芳盛(うたがわ よしもり、天保元年〈1830年〉 - 明治18年〈1885年〉10月5日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。幼少時より国芳の門に入り、国芳の画風によく倣った武者絵、時局絵、花鳥画などを描き、殊に時局を諷刺した合戦絵が得意であった。
■歌川 芳房(うたがわ よしふさ 、天保8年〈1837年〉 - 万延元年6月10日〈1860年7月27日〉)とは、江戸時代末期の浮世絵師。作画期は安政の頃から没年にかけてで、武者絵や横浜絵、人情本、合巻などの挿絵を描いた。享年24。
■歌川 芳員(うたがわ よしかず、生没年不詳)とは、江戸時代末期から明治時代初期にかけての浮世絵師。作画期は嘉永頃から明治3年(1870年)頃にかけてで、合戦絵、武者絵、花鳥画、草双紙の挿絵などを描いたが、横浜開港後は異人の生活風俗に興味を持ち、横浜絵(幕末から明治初年にかけて、横浜を画題として描かれたおよそ八百数十点の錦絵の総称)を手掛けた。
■歌川 芳藤(うたがわ よしふじ、文政11年〈1828年〉 - 明治20年〈1887年〉)とは、江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師。嘉永から文久年間に横浜絵のほか美人画、「武者両面合わせ」のような武者絵、はしか絵(疱瘡絵とも呼ばれる浮世絵の1種で、当時、治療不可能とされた天然痘を防ぐ護符としての役割をもつとともに、流行に混乱する人々の状況を描く世俗画でもあった。 今のコロナ禍中のアマビエ?)を描いた。また子供向きの組上絵、玩具絵、双六「東京築地ホテル館図」といったものや、開化絵も数多く描いている。
■落合 芳幾(おちあい よしいく、天保4年〈1833年〉 - 明治37年〈1904年〉2月6日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。歌川国芳の門下で、月岡芳年とは兄弟弟子(芳幾が兄格)である。芳幾は遊女屋風俗などを描いて幕末から明治初期にかけての浮世絵師の第一人者のひとりとなる。芳幾の関心は浮世絵にとどまらなかった。明治5年(1872年)、条野伝平、西田伝助とともに「東京日日新聞」の発起人となる。「英名二十八衆句」- 血みどろ絵、残酷絵、無残絵等と呼ばれる大判錦絵28枚による揃物を芳年と競作した。

■2011年3月3日、とある新聞に記事が掲載 浮世絵師・歌川国芳の浮世絵に、今東京で建設中のスカイツリーと東京タワーが描かれているとか。ニュースでは、やぐらを少し高く描いたものだと説明もありましたが、やぐらをこの様な描き方をすることは通常はないという別の意見も。
そして、浮世絵が描かれたであろう場所からは、ほぼ絵と同様にスカイツリーが見えるそうで、すでにいくつものニュースやブログで沢山の記事が出ています。浮世絵のミステリーや予言なんて言葉も飛び交っているようで、さて江戸時代の歌川国芳には現在の東京が見えていたのか?実際、どういうつもりでこの絵を描いたんでしょうね。 ご覧になった方も多数いると思いますが、下の通り確かに描かれています。

浮世絵師 歌川 国芳

2011年3月3日 中日新聞朝刊の記事から抜粋
『東都三ツ股の図』(1831年頃) 隅田川と小名木川が
交差する東岸の左奥に見えるスカイツリー(江東区)

浮世絵師 歌川 国芳

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Wikipedia、名古屋市立博物館を参考にさせていただいています。

写真|浮世絵・錦絵 国芳、芳年 他

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