写真|浮世絵・錦絵 歌川国芳、弟子の月岡芳年 他
日本が世界に誇る浮世絵(an ukiyoe)の写真です。 特に歌川国芳とその弟子達の作品を取り上げています。 他には海外の美術館にて撮ったものも入れています。 2019年に名古屋市立博物館で開催された『挑む浮世絵 国芳から芳年』特別展覧会。
特別展内ですべての展示品の撮影がOKでした。
歌川 国芳(寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師。 画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号した。 12歳の頃に描いた鍾馗図が初代歌川豊国の目に止まり、程なく豊国門に入る。 画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。 江戸日本橋本銀町一丁目で生まれる。
弟子の月岡 芳年(つきおか よしとし、1839年4月30日(天保10年3月17日) - 1892年(明治25年)6月9日)は、幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師。歌川国芳に師事した。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。
参考文献:『挑む浮世絵 国芳から芳年』 国芳のニュースはこちら。
■日本の美術家の氏名のINDEX |
|||
■浮世絵関連の頁索引 [ 浮世絵(1,2)|日本の絵画|印象派・ゴッホ|プラハ美術館収蔵|広重と北斎 |
|||
歌川 国芳 |
唐土廿四孝 閔子鶱 |
唐土廿四孝 菫永 |
和漢準源氏 乙女 天羅国斑足王 悪狐華陽夫人顕 |
■『東西海陸紀行(Gedenkwaerdige zee en lantreize door de voornaemste landschappen
van West en Oostindien. 1682)』は、1640年のブラジル赴任以降、バタヴィア、北京、インドと世界各地をめぐったオランダ東インド会社社員のヨハン・ニューホフ(1618-1672)のスケッチ入りの日記をまとめ、本人の没後に出版された旅行記。 舶載され日本にも到着、当時の蘭学者らにとって最も重要な世界地理情報源のひとつでした。 浮世絵師歌川国芳(1797−1861)の手に渡ったらしく、「忠臣蔵十一段目夜討之図」や「二十四孝童子鑑」など、国芳の洋風版画の原図としても利用されました。 |
|||
源頼光酒呑童子退治/勝川春亭 |
朝比奈三郎鰐退治/歌川国芳 |
||
■酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。・・・ |
|||
大江山酒呑童子/歌川国芳 |
源頼光土蜘蛛退治/歌川国芳 |
||
児雷也と大蝦蟇/歌川国芳 |
弁慶が勇力戯に三井寺の梵鐘を叡山に引揚げる図 |
||
龍宮玉取姫/歌川国芳 |
白井権八と亀菊 山中団九郎を討つ/歌川国芳 |
||
■自来也、児雷也(じらいや)は、江戸時代後期の読本に登場する架空の盗賊・忍者 |
|||
誠忠義士伝 吉田定右ェ門兼貞/歌川国芳 |
誠忠義臣名々鏡 ち 堀部弥兵衛金丸/歌川国芳 |
二十四考童子鑑 楊香/歌川国芳 |
|
■楊香は父と山に入った時虎に遭い、父の命を守るために追い払おう とした。しかし敵わなかったので天に自らを犠牲にし、父を守りたまえと祈った。すると虎が逃げていき、無事に父子で家に帰ることが出来たという。(中国二十四孝) |
|||
誠忠義士聞書之内 討入本望之図/歌川国芳 |
|||
忠臣蔵十一段目 両国橋勢揃図/歌川国芳 |
八犬伝之内芳流閣/歌川国芳 |
||
通俗水滸伝豪傑百八人之一人 花和尚魯知深初名魯達 |
相馬の古内裏/歌川国芳 国芳の代表作の一つ |
||
■魯 智深(ろ ちしん)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。天孤星の生まれ変わりで、序列は梁山泊(現在の山東省西部、EDEN(エデン)、「優れた人物たちが集まる場所」)第十三位の好漢。渾名は花和尚(かおしょう)で、「花」は刺青を指し全身に刺青があったことが由来。少々思慮は浅いが義侠心に厚く、困っている者を見ると助けずにはいられない性格。 |
|||
源三位頼政鵺退治/歌川国芳 |
源三位頼政鵺退治/歌川国芳 |
||
■源 頼政は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出して従三位に叙せられた。源三位(げんざんみ)。 古典『平家物語』には鵺(ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が記されている。それによると、近衛天皇の御世、帝が毎晩何かに怯えるようになった。 その昔、帝の病平癒祈願のため、源氏の棟梁・源義家が御所にあがり、「陸奥守、源義家!」と叫んで弓の弦を三度鳴らしたところ病魔が退散し、帝の容態はみるみる回復した。そのため此度も武士を警護につけるがよいということになり、同じ源氏の一門で武勇の誉れ高かった頼政が選ばれた。深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れた。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。 |
|||
列猛伝 源三位頼政 |
列猛伝 宮本武三四 |
清玄堕落之図/月岡芳年 |
真勇競 弁慶/歌川国芳 |
■宮本武三四とは歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた。宮本 武蔵は、江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名。 |
|||
宇治川合戦之図/歌川国芳 |
宇治川合戦之図/歌川国芳 |
||
■宇治川合戦は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。宇治市の瀬田の当たりの宇治川で行われた。結果は頼朝軍の勝利。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」が有名です。 |
甲越川中島大合戦/歌川国芳 |
||
身延山合戦之図/歌川芳宗 |
川中島合戦対陣図/歌川国芳 |
||
曽我政宗本意を達し右幕下の本陳へ切込捕ハるゝ図 曽我夜討之図/歌川国芳 大判六枚続 (左、真中) |
|||
曽我政宗本意を達し右幕下の本陳へ切込捕ハるゝ図 |
■曾我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。 |
||
敵ケ原大合戦之図/月岡芳年 (左、真中) |
|||
■敵ケ原大合戦 関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた。石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。 ★湯浅小介高貞 湯浅 五助(ゆあさ ごすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大谷吉継の家臣。諱は隆貞(たかさだ)とされる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた。(西軍) ★品 左近友之 島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。関ヶ原の戦いで黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去した。(西軍) |
|||
敵ケ原大合戦之図/月岡芳年 (右) |
信州川中嶌百勇将戦之内 真田喜兵衛昌幸/歌川国芳 |
■こま込のなす 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。 |
|
文月の七夕/歌川国芳 |
満月の月/歌川国芳 |
縞揃女弁慶 暦を見る美人 |
江戸じまん名物くらべ こま込のなす/歌川国芳 |
大願成就有ケ瀧縞 |
註文御誂染 あいねつミ |
当世夏景色/歌川国芳 |
睦月 中万字屋内錦木 |
|
|||
皇都会席別品競 久保町売茶亭 春本いく/月岡芳年 |
稲本屋内小稲/歌川国芳 |
古今比女鑑 秋色/月岡芳年 |
山海めでたいつゑ 十 天気にしたい 土佐鰹節/歌川国芳 |
新吉原角街稲本楼ヨリ仲之街 仁和賀一覧之図/落合芳幾 ■吉原俄(にわか) 江戸吉原の遊郭で行われた即興芝居。享保年間(1716~1736)に始まり、 |
はやく酔をさましたい 豊前小倉縞/歌川国芳 |
||
見立多以尽 おしゃくがしたい/月岡芳年 |
見立多行以尽 とりけしたい |
見立多以尽 洋行がしたい |
見立多以尽 てがあらいたい |
風俗参十二相 暗さう 明治年間妻君の風俗/月岡芳年 |
風俗参十二相 かゆさう 嘉永年間かこゐものの風ぞく |
四代目中村歌右衛門死絵 |
織越大領政知/歌川国芳 |
二代目沢村訥升の前田利家 市川左団次の佐久間盛政 |
見立橋弁慶/落合芳幾 |
||
日本駄右エ門猫之古事/歌川国芳 |
第二番目 三題咄高座新作 |
||
■日本駄右エ門は、歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」の登場人物。白浪五人男の首領。日本六十余州をあらしまわった大盗賊。 日本駄右エ門猫之古事は、弘化4年(1847)7月市村座上演の「尾上梅寿一代噺」に取材した役者絵。中央の老婆が三代目尾上菊五郎。破れた御簾の向こうから正面を見据える大きな猫の顔が大迫力です。 |
|||
蛍狩り/歌川芳虎 |
立美人図/歌川国芳 |
文殊菩薩図/月岡芳年 |
見立忠義むすめ/歌川芳艶 |
としよりのよふな若い人だ/歌川国芳 |
流行猫の戯 身の臭婬色時(みのくさささかりのいろどき)/ |
||
■『としよりのよふな若い人だ』については、浮世絵のジャンルのひとつに「寄せ絵(だまし絵)」というものがあります。名前の通り人物や動物を寄せて、字や人の顔を描いた作品のことをいいます。寄せ絵は歌川国芳の作品が非常に有名。 |
|||
里すゞめねぐらの仮宿/歌川国芳 |
亀喜妙々/歌川国芳 |
||
流行逢都絵希代稀物/歌川国芳 |
浮世又平名画奇特/歌川国芳 |
||
|
|||
源頼光公舘土蜘作妖怪図/歌川国芳 |
駒くらべ盤上太平棋/歌川国芳 |
||
きたいなめい医 難病療治/歌川国芳 |
二代目竹沢藤次曲独楽 九尾の狐三国渡/歌川国芳 |
||
|
|||
■『浅草奥山生人形』は、熊本出身の人形師・松本喜三郎が、安政2(1855)年から江戸・浅草奥山で生人形を用いて「外異国人物」の姿を展示した見世物は大変な評判になり、ここに示した歌川国芳の《浅草奥山生人形》をはじめ、そのさまを伝える錦絵が大量に制作された。 |
|||
浅草奥山生人形/歌川国芳 |
二代目竹沢藤次曲独楽 お岩稲荷/歌川国芳 |
||
駒くらべ将棋のたはむれ はだかの王将・まってくんねへまたねへ/歌川国芳 |
道外武者 御代の若餅 |
新撰東錦絵 生嶋新五郎之話/月岡芳年 |
|
■『道外武者 御代の若餅』は、天下統一を「餅つき」にたとえ、織田信長が杵で餅をつき、明智光秀が餅をひっくり返し、サル顔の羽柴秀吉が餅を丸めて、最後にそれを食べるのが徳川家康であるという錦絵です。 |
|||
当盛見立人形の内 二かい座敷の図/歌川国芳 |
流行菊花揃 巣鴨通 植木屋弥三郎/歌川国芳 |
||
浅茅ケ原一ツ家之古図 師匠の筆意に習らつて/歌川芳盛 |
当盛見立人形之内 一ツ家之図/歌川国芳 |
||
観世音霊験/歌川国芳 |
木曽街道六十九次之内 大久手 一ツ家老婆/歌川国芳 |
一魁随筆 一ツ家老婆 |
|
安達原一ツ家之図/歌川国芳 |
奥州安達がはらひとつ家の図/月岡芳年 |
月百姿 孤家月/月岡芳年 |
|
■「浅茅ヶ原の鬼婆」は、東京都台東区花川戸に伝わる伝説。一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称される。浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。江戸時代後期には江戸で広く知られたものになっており、浮世絵や芝居の題材としても数多く取り上げられている。 |
|||
外国写真鏡之図 |
端午の節句/歌川芳藤 |
一魁随筆 山姥 怪童丸 |
大日本名将鑑 道臣命 |
芳年略画 志渡の浦玉取蜑、雷公行水/月岡芳年 |
月百姿 四条納涼/月岡芳年 |
月百姿 高倉月 長谷部信連/月岡芳年 |
月百姿 信仰の三日月 幸盛/月岡芳年 |
月百姿 吼噦/月岡芳年 |
■怪童丸は、浄瑠璃・歌舞伎の山姥(やまんば)物に登場する子供の役名。坂田公時(金時)の幼名。金太郎。 |
月岡芳年 |
|
頼光山中ニ妖怪見る図/歌川芳員 |
矢島海底図/歌川芳艶 |
||
清盛布引滝遊覧義平霊難波討図/歌川芳房 |
清正朝鮮国ヨリ日本ノ富士ヲ見ル図/歌川芳藤 |
||
■『清盛布引滝遊覧義平霊難波討図』は、平清盛の病気全快の祝宴が、涼を誘う天下の名勝地・布引の滝で催された。 「平治の乱」(1159年)で敗北し逃亡し捕まり、難波次郎常俊が六条川原で打ち首の介錯をした源氏の棟梁・源義朝の嫡男で頼朝、義経の兄・源義平。 その義平の霊が雷となって復讐に燃えるそのすさまじい形相(中央上部)と雷光に当たり敢え無く雷にうたれ炎に包まれた平清盛の長子・重盛の家来・難波次郎常俊の容貌とが、対象的だ。 稲妻の直硬線には瞬時の速度感が漲り、強烈な印象を受ける。逃げまどう武士たちが、いかにも驚き戸惑う姿が克明に描かれている。 清盛の姿は一瞬の風雨にやぶれた大傘(天蓋)の下に見える。 この浮世絵が出版されたのは安政三(1856年)。その前年には、世にいう「安政の大地震」(1855年)が起きたこともあって、この後、天変地異に材をとった浮世絵が流行した。 |
|||
西郷隆盛切腹図/月岡芳年 |
東名所墨田川梅若之古事/月岡芳年 |
||
偐紫田舎源氏/月岡芳年 |
祐天不動の長剣を呑む図/月岡芳年 |
||
■『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)は、柳亭種彦の未完の長編合巻。挿絵は歌川国貞。文政12年(1829年) - 天保13年(1842年)刊。紫式部の『源氏物語』を下敷きにして、時代を平安時代から室町時代へ移している。語り手は、江戸日本橋・式部小路の女・お藤で、鉄砲洲の人丸神社に参詣し、石屋の二階に仮住まいして筆を取った、という設定で語りはじめる。水野忠邦の天保の改革が始まると、「将軍家の大奥の内情を書いた」「光氏は徳川家斉がモデル」などの噂から本書の絶版と種彦の断筆が命ぜられ、38編までで終わった。 |
|||
英名二十八衆句 御所五郎蔵/月岡芳年 |
英名二十八衆句 福岡貢 |
英名二十八衆句 白井権八/月岡芳年 |
吉野山合戦/歌川国芳 |
英名二十八衆句 因果小僧六之助/月岡芳年 |
■英名二十八衆句(えいめいにじゅうはっしゅうく)は月岡芳年及び落合芳幾による浮世絵木版画の連作であり、それぞれが14図ずつ描いている。慶応2年(1866年)から慶応3年(1867年)にかけて刊行された。作品の大半は芝居から題材を得ており、いわゆる無惨絵の代表作である。外題は赤地の短冊枠に画題とともに記され、その左の白地の短冊枠に松尾芭蕉、大島蓼太、向井去来らの俳句が記されている。 |
英名二十八衆句 団七九郎兵衛/月岡芳年 |
|
英名二十八衆句 勝間源五兵衛/月岡芳年 |
英名二十八衆句 高倉屋助七/月岡芳年 |
英名二十八衆句 姐妃の於百/月岡芳年 |
英名二十八衆句 古手屋八郎兵衛/月岡芳年 |
■歌川 芳重(うたがわ よししげ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。歌川国芳の門人。歌川の画姓を称し一要斎と号す。作画期は天保から安政の頃にかけてで、美人画や合巻の挿絵などを描いている。 |
|||
■2011年3月3日、とある新聞に記事が掲載 浮世絵師・歌川国芳の浮世絵に、今東京で建設中のスカイツリーと東京タワーが描かれているとか。ニュースでは、やぐらを少し高く描いたものだと説明もありましたが、やぐらをこの様な描き方をすることは通常はないという別の意見も。 |
|||
2011年3月3日 中日新聞朝刊の記事から抜粋 |
■巨匠の絵画切手 [ ボッティチェッリ|ダ・ヴィンチ|ラファエロ|ミケランジェロ|デューラー|ティツィアーノ(チチアン)|ルーベンス|ベラスケス|アングル|エル・グレコ|レンブラント|ドラクロア|ゴヤ|ゴッホ(no.1|no.2)|ルノアール|マネとモネ|セザンヌ|ゴーギャン|マチス|ピカソ|ダリ|葛飾北斎|安藤広重|クリムト|シャガール|モディリアーニ|ミュシャ ] |
|||
美術・工芸切手 [ トップ|先史代|中世
|ルネサンス ( ア行~タ行、ナ行~ワ行、その他 )
|バロック|ロココ|
ロマン派、新古典とアカデミック絵画|写実主義
|印象派|象徴主義、耽美主義、ラファエル前派
|近代絵画|日本(画家|作品)
|ポップ(モダン)|故宮(絵画
|文物)
|世界の美術工芸品|仏教美術
|デザイン|浮世絵(1,2)|アジアの美術|メトロポリタン美術館(切手)|プラハ美術館(切手) |キリスト教絵画の見方
|美術用語集(備忘録)| ギリシア神話とローマ神話の神々(切手&写真) |
|||
Wikipedia、名古屋市立博物館を参考にさせていただいています。 |
|||
写真|浮世絵・錦絵 国芳、芳年 他 |
|||