西洋美術切手 印象派|マネ(MANET)とモネ(MONET)、ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)の絵画
印象派|マネ(MANET)とモネ(MONET)の絵画。 マネ: Edouard Manet (1832-1883) フランス人、印象派の父と呼ばれる。 代表作、「草上の昼食」は、公共の場に裸婦を描き。「オリンビア」は娼婦をモチーフにしたことから当時問題視される.。 モネ: Claude
Monet(1840-1926) フランス人、後期印象派画家。 光の画家と呼ばれ、代表作:「睡蓮」、「ルーアン大聖堂」の連作 etc.。 モネは時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。 マネの弟子・『ゆりかご』のベルト・モリゾ(Berthe
Morisot)。
【 マネ|モネ|モリゾ 】
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このページ以外の印象派・フォービズムの画家 |
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■エドゥアール・マネ(Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)パリに生まれる。裁判官であった父の希望で法科大学を受けて失敗,16歳のとき商船学校の練習生として南米に行き,帰国後画家を志し歴史画家についたがまもなくやめ,クールベの写実主義や,目のあたりみた南米の明るい風光をモットーとして,ルーブル美術館の古典名画の模写に励んだ。やがて31歳のとき『草上の昼食』をサロンに出品したが落選。つづいて『オランピア』も嘲笑と悪評をかった。いずれも絵画上の革新性は理解されず通俗的な不道徳の問題として片付けられた。時代を超えて芸術の真実性を追求する天才の宿命であった。たちまちマネを中心にカフェ=ゲルボアに一群の青年画家たち,ピサロ・モネ・シスレー・ルノワール・セザンヌ・ドガらのほかに,ゾラ・ビュルティ・クラデルら小説家・評論家までが集まり壮観であった。まさに近代絵画史上稀にみる革命的状況であった。晩年彼は印象派から離れるが,彼の存在は印象派の誕生から発展までを導いた。 |
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マネ画 『笛を吹く少年』 |
『エミール・ゾラの肖像』 |
マネ画:『ベルト・モリゾ』 |
■『笛吹く少年』(マネ画)は、ボナパルト朝フランス帝国(フランス第二帝政)衛兵に所属する鼓笛隊の横笛奏者をモデルとして描かれた人物画。 |
『青いソファーのマネ夫人』 |
マネ『草上の昼食』(オルセー美術館、ソマリア、2002年) |
マネ画 『笛を吹く少年』 |
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印象派の先駆的画家エドゥアール・マネの名を一躍有名にした |
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マネ画『オランピア』(カメルーン) |
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■1860年代、エドゥアール・マネが一般の女性をそのまま裸婦として描いた作品を発表した。当時の裸婦像は神話や聖書のエピソードとして描くのが普通で、マネの裸婦の絵画は激しい反発を受ける。ところが、当時の主流派アカデミズムに反感を持つ若い芸術家が多く、彼らがマネに同調した。マネに同調する芸術家たちはパリのカフェに集まり、前衛的な芸術論を語り始めるようになった。印象派のはしり。 |
『オランピア』とマネの自画像(アルバニア)ティツィアーノ作 |
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■ヴィクトリーヌ・ムーラン(Victorine Meurent, 1844年2月18日 - 1927年3月17日)はフランスの著名なモデルであり、女流画家である。特に、「草上の昼食」と「オランピア」のモデルの仕事は、有名である。エドガー・ドガのモデルも勤める。 |
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『マネの自画像』1878年 |
『胸をはだけたブロンドの娘』 |
マネの絵画(マダガスカル、2001年) |
『船遊び(ボート遊び) |
メトロポリタン美術館(N.Y.) |
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■エドゥアール・マネ作『船遊び』。ボート遊びとも呼ばれ、制作年は1874年であるも、1879年のサロンに出品された本作に描かれるのは、印象主義の典型的な画題のひとつであった、余暇をセーヌ川で舟遊びを楽しむ人々の近代的な日常場面で、水平線を描かず場面と対象のみを切り取ったかのような日本の版画的な構図と構成が大きな特徴のひとつである。 |
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マネ画 『』、『』、『』、『』(2003年) |
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『』、『胸をはだけたブロンドの娘(オルセー美術館)』(マネ、2004年) |
マネ画 『オランピア』 |
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マネの描く裸婦 『』、『』(マネ、2004年) |
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■エドゥアール・マネの代表的な作例のひとつ『胸をはだけたブロンドの娘』。画家随一の問題作として名高い『オランピア』以降に制作された7点の裸婦作品の中の1点である本作は、胸部がはだけた女性の半身像を画題に手がけられた作品で、モデルに関しては現在も不明とされており今後の調査や研究が期待されている。画面中央に描かれる芥子の花飾りの付いた麦藁帽子を被る娘は、やや虚ろにすら感じさせる空虚な表情を浮かべながらぼんやりと画面左側を向いている。その顔には緊張の色はもとより、他のマネの作品に見られた女性の自意識の本質と生命感が全く感じられない。 |
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マネの『自画像』と背景はエドゥアール・マネ最晩年の傑作 |
マネの問題作『オランピア(オルセー美術館)』 拡大○ |
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マネ画 |
マネ画 |
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『ゆりかご』ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841年〜1895年) モナコ |
『ゆりかご』ベルト・モリゾ |
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■ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841年-1895年)は、マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀の印象派女性画家。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めた。マネとの恋仲を噂されることもあったが、実際は1874年に彼の弟ウージェーヌ・マネと結婚した。1879年に娘ジュリーを出産。 モリゾの画風は自然の緑を基調としたものが多く、穏やかで、母子の微笑ましい情景などが特徴的である。男性中心の19世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究でのアプローチが多い。 ルノワールやマラルメとの親交もあった。モリゾの死後、マラルメ、ルノワール、ドガは16歳で孤児となったジュリーの後見人となる。 |
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ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)の絵画 女性を描いたものが多い |
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右の切手 『モリゾ夫人とその娘ポンティヨン夫人(読書、National Gallery (Washington))』、『モリゾの自画像』、 |
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モリゾ 『ゆりかご (Le bercau、オルセー美術館) 』 |
モリゾ 『』 |
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■クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)パリの下町の食料品店の息子として生まれた。しかし、彼が5才の時、一家はノルマンディ地方の港町ル・アーヴルに移り住んだ。ここで、彼は海景画家ブーダンを知り、導かれる。1857年にはコレージュを退学。この頃から地元の美術教師でダヴィッドの弟子であったフランソワ=シャルル・オシャールに絵を学んでいる。18才の時、パリへ。画塾でルノワール、ピサロなどと「印象派」のグループを結成。晩年、パリ郊外のジヴェルニーの邸で、庭の睡蓮の池の中に、彼一人だけの豊麗な光の世界を求めつづけた。戸外風景を描いた作品が主要であるが、人物画や室内画、静物画なども残すほか、「積みわら」「ポプラ樹」「ルーアン大聖堂」「睡蓮」など画家の代表作となる連作的作品も多く残されている。 |
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『睡蓮』クロード・モネ(フランス) |
モネ画 |
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モネ 『睡蓮』(フランス、1999年) |
モネ 『庭の女たち』 |
モネ 『印象 -日の出- |
『サンタドレスのテラス(海辺のテラス)』メトロポリタン美術館 |
モネ 『ラ・ジャポネーズ』1875-76 ボストン美術館(モザンビーク) |
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代表的作例『ラ・ジャポネーズ』は背後や床面に様々な団扇を配し、手に扇を持ち鮮やかな朱色の日本の着物を着たモネの妻カミーユ・ドンシューの姿を描いた作品。 |
モネの絵画 |
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(1968年、ブータン、立体切手) |
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■『サンタドレスのテラス(海辺のテラス)』はマネが幼少期を過ごし、風景画家ウジェーヌ・ブーダンから絵画を学んだノルマンディ地方のル・アヴールより北に位置する郊外の港町サン・タドレスに住むモネの父親アドルフと伯母ソフィー・ルカドル一家の人々を描いた私的な作品である。1867年、結婚はしていなかったものの息子ジャンが誕生した画家は生活費の援助を求める為に父親と伯母が住むサン・タドレスへ赴き、その際、同地で本作が制作されたが、本作の明瞭で輝くような陽光に照らされるサン・タドレスのテラスで寛ぐモネ一族の姿は、画家の逼迫した経済状況を伺い知ることはできないほど幸福的情景に溢れている。 |
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モネの絵画(拡大図)アンティグア・バーブーダ,2001 |
モネの絵画 アンティグア・バーブーダ,2001 |
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『睡蓮』国立西洋美術館、 |
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背景はモネの『プールヴィルの断崖の上の散歩』 |
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■ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。 |
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『日傘を差す女(モネ夫人)』、『カピュシーヌ通り』、『Woman with a Parasol』,他(モネ、2001年) |
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■『散歩、日傘をさす女性』(モネ夫人)1875 ナショナル・ギャラリー(ワシントン)モネが当時滞在していたパリ北西ヴァル=ドワーズ県の街アルジャントゥイユの草原に立ち日傘をさす女性は、当時の妻であるカミーユ・ドンシュー(カミーユは1879年に死去し、モネはその後1892年に再婚する)を、傍らに添う幼児は長男ジャン(当時5歳)をモデルに制作されている。 |
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■1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、1つのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。ジヴェルニーの自宅近くの農園で制作した『積みわら』の連作は1888年から翌年にかけてのもの5点、1890年から翌年にかけてのもの25点が確認されている。 |
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『』、『ルーアン大聖堂、昼 (1892 - 93 オルセー美術館)』、『アルジャントゥイユの鉄道橋』(モネ、2001年) |
『舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)』、『』、『サロン出品用の草上の昼食』(モネ、2001年) |
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『』、『』、『』(モネ、2001年) |
モネ画 『ラ・ジャポネーズ』1875-76 ボストン美術館(モザンビーク) |
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『サロン出品用の草上の昼食』、 |
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『』、『舟遊び(国立西洋美術館)』、 |
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■『戸外の人物習作(右向きの日傘の女)』。本作はモネの友人であり、印象派の有力な庇護者でもあったオシュデ夫妻の三女で、当時18歳であったシュザンヌ・オシュデをモデルにジヴェルニー近郊のオルティエ島の土手に立つ人物を描いた習作的な作品で、『戸外の人物習作(左向きの日傘の女)』と共に対の作品として制作された。モネは11年前にも当時の妻カミーユ・ドンシューと長男ジャンをモデルに同様の作品『散歩、日傘をさす女性』を手がけているが、人物(カミーユ・ドンシュー)が主役であった『散歩、日傘をさす女性』と比べ、本作では人物と背後の風景が混ざり合い、一体となった表現が示されているのが大きな特徴である。品の良い白地の衣服に身を包み、日傘を差しながら土手の上に立つシュザンヌ・オシュデは陽光に照らされ、柔らかく輝いており、やや強い風が衣服や土手に生える草花を優しく靡かせている。 |
モネ:『睡蓮、日本の橋』 |
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モネ画 "La Pie" |
モネ画 『ラ・ジャポネーズ』1875-76 ボストン美術館(モザンビーク) |
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モネ画 |
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モネ画 『ルーアン大聖堂、昼 (1892 - 93 オルセー美術館)』 |
モネ画 |
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