Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 文学・物語・祭・占・諺の切手|百人一首 鎌倉時代の藤原定家撰による新古今期までの代表的な歌人百人について作られた私撰和歌集 『百人一首』は現在では歌集としてよりもかるたとしてのほうが知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。

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文学・物語・祭・占・諺の切手|百人一首 『万葉集』の歌人|六歌仙|女流歌人|隠者・武士

 文学・物語・祭・占・諺の切手|百人一首。 百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、古来の代表的な歌人百人について、一人一首を選んでつくった詞華集のことで、現在の日本においては通常、その中でも、小倉百人一首と通称されます、藤原定家撰による新古今期までの代表的な歌人百人について作られた私撰和歌集を指します。 いずれも『古今集』『新古今集』などの勅撰和歌集から選ばれ、歌道の入門書として読み継がれた。 2006年より「ふみの日」に百人一首が切手で発行されています。 それを題材にしています。「古今和歌集」が延喜5(905)年に成立してから1100年、「新古今和歌集」が元久2(1205)年に成立してから800年を迎えたのを記念して発行された切手。『百人一首』は現在では歌集としてよりもかるたとしてのほうが知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。
関連ページ 『百人一首』(Wikipedia)
 


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■百人一首 [ 『万葉集』の歌人|六歌仙|女流歌人|隠者・武士 ]

文学の切手|小倉百人一首 『万葉集』の歌人|六歌仙|女流歌人|隠者・武士

宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野に建築した別荘、小倉山荘の襖色紙の装飾の為に、蓮生より色紙の依頼を受けた鎌倉時代の歌人藤原定家が、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが小倉百人一首の原型と言われている。男性79人(僧侶15人)、女性21人(天皇1人、内親王1人、女房17人、母2人)の歌が入っている。成立当時まだ百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」や「嵯峨山荘色紙和歌」などと称された。なお、現在「小倉百人一首」と呼ばれるのは、定家がこれを編纂した地が小倉山であったと伝えられているためである。 下の切手2枚は、「古今和歌集奏覧1100年・新古今和歌集奏覧800年記念」(2005年)のもの。

歌集を代表する歌人「小野小町」

花の色は
 うつりにけりな いたづらに
 わが身世にふる 
 ながめせしまに  (小野小町)
「六歌仙図・小野小町(部分)」
小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。

古今和歌集奏覧1100年・新古今和歌集奏覧800年

歌集を代表する歌人「藤原定家」

見渡せば
 花も紅葉も なかりけり
 浦の苫屋の 秋の夕暮
  (藤原定家)
「新三十六歌仙図帖・藤原定家(部分)」 
藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) - 1241年9月26日(仁治2年8月20日))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。

歌集を代表する歌人「小野小町」 歌集を代表する歌人「藤原定家」

『万葉集』の歌人

山部赤人・富士

■山部 赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。赤人の墓と伝わる五輪塔が奈良県宇陀市に存在する。
万葉集には、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」とある。

山部赤人・富士

田子の浦に うち出でて見れば 白砂の 富士の高嶺に 雪は降りつつ  小倉百人一首  4番

■持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝。万葉歌人としても『万葉集』巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌として名を留めている。陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。夫天武天皇との夫婦合葬墓。

持統天皇・天の香具山

持統天皇・天の香具山

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 小倉百人一首  2番 
(『万葉集・一巻・28』『新古今集・夏・175』)

六歌仙

■六歌仙(ろっかせん)は『古今和歌集仮名序』において紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として挙げた、各々の歌風を批評した六人の歌人で、僧正遍昭 、在原業平 、文屋康秀 、喜撰法師 、小野小町 、大友黒主 がそう呼ばれる。

小野小町(おののこまち)

■小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。

小野小町(おののこまち)

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に  小倉百人一首

女流歌人

伊勢大輔(いせのたいふ)・八重桜

伊勢大輔(いせのたいふ)・八重桜

■伊勢大輔(いせのたいふ/いせのおおすけ、永祚元年(989年)頃? - 康平3年(1060年)頃?))は、平安時代中期の女流歌人。大中臣輔親の娘。高階成順に嫁し、康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を生んだ。中古三十六歌仙の一人。和泉式部・紫式部などと親交。

いにしえの 奈良のみやこの 八重桜 今日九重に においぬるかな   春29, 小倉百人一首 61番

■大弐三位(だいにのさんみ、長保元年(999年)頃? -永保2年(1082年)頃?)は、平安中期の女流歌人。藤原宣孝の女、母は紫式部。本名は藤原賢子(かたいこ/けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれ、天喜2年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに従三位(じゅさんみ)に昇叙、夫成章も大宰大弐に就任。大弐三位はこの官位と夫の官名に由来する女房名。

大弐三位(だいにのさんみ)

有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする  小倉百人一首 58番 

二条院讃岐・沖の石

■二条院讃岐(にじょういん の さぬき、永治元年(1141年)頃? - 建保5年(1217年)頃?)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての女流歌人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。内讃岐、中宮讃岐とも称される。初め二条天皇(二条院)に仕え、天皇が崩御した後に藤原重頼と結婚し重光・有頼らの母となった。この頃には歌人として評判を得ており「歌仙落書」にその詠歌が入集。『千載集』以下の勅撰和歌集に72首が入集。家集に『二条院讃岐集』がある。

二条院讃岐・沖の石

わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし    小倉百人一首

■周防内侍(すおう の ないし、長暦元年(1037年)頃? - 天仁2年(1109年)頃?)は、平安時代後期の女流歌人。本名は平仲子。父は周防守平棟仲。母は源正職娘の小馬内侍。正五位下・掌侍。女房三十六歌仙の一人。後冷泉天皇・後三条天皇・白河天皇・堀河天皇の4朝に女官として仕えた。

周防内侍(すおうのないし)・春の夜

周防内侍・春の夜

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かいなく立たむ 名こそ惜しけれ  小倉百人一首 67番

紫式部

■紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は平安時代中期、京都が生んだ女性作家、歌人である。『源氏物語』の作者だと考えられている。中古三十六歌仙の1人。藤原北家の出で、越後守・藤原為時の娘で母は摂津守・藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。寛弘2年12月29日(1005年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1006年1月26日)より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕えた。

紫式部

紫式部日記絵詞 (国宝) 藤田美術館

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな  小倉百人一首 57番

紫式部は同時期の有名だった女房たちの人物評をしている。中でも最も有名なのが枕草子作者の清少納言に対するもの。(以下、意訳)
「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか(いや、ない)」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)
しかし、清少納言と、同時代の『源氏物語』の作者・紫式部とのライバル関係は、後世盛んに喧伝された。しかし、紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、2人は一面識さえないはずである。

■清少納言(せいしょうなごん、康保3年頃(966年?) - 万寿2年頃(1025年?))は、平安時代の女流作家、歌人。「梨壺の五人」の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の晩年の娘。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首(異本による。流布本では31首)の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺』以下、勅撰集に14首入集。また漢学にも通じた。また全国各地に清女伝説(清少納言伝説)がある。

清少納言

清少納言

清少納言は作品『枕草子』を記した。『枕草子』には、「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の関はゆるさじ  小倉百人一首 62番

和泉式部

■和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙の1人。和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に下る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。

和泉式部

恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人。

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな  小倉百人一首 56番

■伊勢 (いせ、872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)は平安時代の日本の女性歌人。三十六歌仙の一人。藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘。伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。情熱的な恋歌で知られ、『古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に176首が入集し、『古今和歌集』・『後撰和歌集』(65首)・『拾遺和歌集』(25首)では女流歌人として最も多く採録されている。

伊勢 情熱的な恋歌

難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや  小倉百人一首 19番

祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけ の きい、生没年不詳)

祐子内親王家紀伊は、平安時代院政期の女流歌人で、後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる。従五位上民部大輔春宮亮平経方の娘とも、藤原師長の娘である堀河院御乳母典侍紀伊三位師子と同一人物ともいわれており父親は定かではない。母は「岩垣沼の中将」の作者祐子内親王家小弁(こべん)。紀伊守藤原重経(素意法師)は兄とも夫とも言われている。

音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ 小倉百人一首 72番

天皇・公家・武人

■徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ、保延5年(1139年) - 建久2年閏12月16日(1192年2月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣と号す。天養元年(1144年)に叙爵してから順調に昇進を重ねて、保元元年(1156年)11月に従三位に叙任して公卿に列した。長寛2年(1164年)には権大納言へ昇り、翌年、これを辞して正二位に叙任している。

後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)・有明の月

後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)・有明の月

心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどわせる 白菊の花  小倉百人一首  81番

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・・しら菊

■凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね、貞観元年(859年)? - 延長3年(925年)?)は、平安時代前期の歌人・官人。姓は宿禰。一説では淡路権掾凡河内ェ利の子。三十六歌仙の1人。官位は六位・和泉大掾。延喜5年(905年)に紀貫之・紀友則・壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者に任じられる。

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・・しら菊

心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどわせる 白菊の花  小倉百人一首  29番

■藤原 家隆(ふじわら の いえたか、保元3年(1158年) - 嘉禎3年4月9日(1237年5月5日))は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。歌人としては晩成型であったが、『六百番歌合』『正治百首』などに参加して、やがて藤原定家と並び称される歌人として、御子左家と双璧と評価されるに至った。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇と交流を続けた。

従二位家隆(じゅにいいえたか)

従二位家隆(じゅにいいえたか)

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける  小倉百人一首  98番

紀 貫之(きのつらゆき)・梅

■紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人で『古今和歌集』の選者のひとり。また三十六歌仙のひとりでもある。紀友則は従兄弟にあたる。延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による序文である仮名序を執筆した。

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける   小倉百人一首 35番

■藤原 実方(ふじわら の さねかた、生年不詳 - 長徳4年12月12日(999年1月2日))は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家小一条流。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。大納言・藤原済時の養子。官位は従四位上・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかった。風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。

藤原実方朝臣

藤原実方朝臣

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを  
『後拾遺和歌集』恋一612、小倉百人一首 51番

猿丸大夫・鳴く鹿

■猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう、生没年不明)は、三十六歌仙の一人。猿丸は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者や伊勢神宮の神職のうち五位の御禰宜、神社の御師、芸能をもって神事に奉仕する者の称。 花札の「もみじに鹿」の取り合わせは、この歌による。ただし『古今和歌集』ではこの歌は「よみ人しらず」となっている。猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、神戸市芦屋には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。

猿丸大夫・鳴く鹿

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の  声聞く時ぞ 秋は悲しき   古今和歌集215、小倉百人一首 5番

■藤原 公任(ふじわら の きんとう、康保3年(966年) - 長久2年1月1日(1041年2月4日))は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、関白太政大臣藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。四条大納言と号す。和歌の他、漢詩、管弦にもすぐれた才能を見せ、道長に対して自らの才能を誇示した「三舟の才」のエピソードは、小野宮流の関白の嫡男として芸術面での意地を見せたともいえる。

大納言公任

大納言公任

滝の音は たえて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ   小倉百人一首 55番

光孝天皇

■光孝天皇は仁明天皇の皇子。宇多天皇の父。幼少より聡明で読書や音楽を好んだという。皇位継承に無縁な立場で育ち、成人後は常陸太守・中務卿・大宰帥・式部卿など重職を歴任した。元慶元年(877)、辞職を請うたが許されず、同六年、一品に至る。同八年(884)、13陽成天皇の譲位を受けて践祚。文事を好み古風を復活し、宇多・醍醐朝の和歌復興の基をなしたとも言われている。

光孝天皇

君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ  小倉百人一首  15番

■崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、父には疎んぜられた。『古事談』には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。

崇徳院・崇徳天皇(すとくてんのう)

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院) 小倉百人一首  77番

隠者・武士

寂蓮法師(じゃくれんほうし)

■寂蓮(じゃくれん、1139年(保延5年)? - 1202年8月9日(建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長。御子左家の中心歌人として活躍し、「六百番歌合」での顕昭との「独鈷鎌首論争」は有名。1201年(建仁元年)和歌所寄人となり、『新古今和歌集』の撰者となるが、完成を待たず翌1202年(建仁2年)没した。

寂蓮法師(じゃくれんほうし)

村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮  小倉百人一首 87番

■源 兼昌(みなもと の かねまさ、生没年不詳)は、平安時代中期から後期にかけての歌人・官人。宇多源氏で、美濃介・源俊輔の子。子に昌快、前斎院尾張がいる。官位は従五位下・皇后宮少進。官位には恵まれず従五位下・皇后宮少進に至るが、その後出家。没年については不詳であるが大治3年(1128年)頃には生存していたようである。

源兼昌・千鳥

源兼昌・千鳥

淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守 (「金葉和歌集」冬288) 小倉百人一首

前大僧正行尊

■行尊(ぎょうそん、天喜3年(1055年)- 長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。 父は参議源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家、頼豪から密教を学び、覚円から灌頂を受けた。 歌人としても有名で、作品が小倉百人一首にも収録されている。また、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に48首入首。歌集に『行尊大僧正集』がある。

もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 小倉百人一首 66番

■坂上 是則(さかのうえ の これのり、生年不詳 - 延長8年(930年))は、平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。右馬頭・坂上好蔭の子。子に望城がいる。官位は従五位下・加賀介。三十六歌仙の一人。「寛平后宮歌合」や「大井川行幸和歌」など、宇多朝から醍醐朝にかけての和歌行事に度々進詠し、『古今和歌集』の撰者らに次ぐ歌人であった。また、蹴鞠にも秀でていたともいう。

坂上 是則(さかのうえ の これのり)

坂上 是則(さかのうえ の これのり)

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪  小倉百人一首 31番
 (『古今和歌集』冬332)


■『百人一首』の歌人達 : 
(1)『万葉集』の歌人 : まだしっかり身分の差がないためか天皇、貴族、武士、農民などあらゆる階層の人の歌が収められている。自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、大伴家持、山部赤人、柿本人麻呂など。
(2)六歌仙の時代 : 『万葉集』とは違い、比喩や縁語、掛詞などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。選者の紀貫之が六歌仙と呼んだ、在原業平や小野小町などが代表的な歌人である。
(3)女流歌人の全盛 : 平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いた。二人のほか百人一首には、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っている。
(4)隠者・武士の登場 : 貴族中心の平安時代から、武士が支配する鎌倉時代へうつる不安な世の中で、仏教を心の支えにする人が増えた。『百人一首』もこの時代を反映し、西行や寂蓮などの隠者や源実朝などの武士の歌も登場する。藤原定家自身も撰者となった『新古今和歌集』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。

1 天智天皇 - 2 持統天皇 - 3 柿本人麻呂 - 4 山部赤人 - 5 猿丸大夫 - 6 中納言家持 - 7 阿倍仲麻呂 - 8 喜撰法師 - 9 小野小町 - 10 蝉丸 - 11 参議篁 - 12 僧正遍昭 - 13 陽成院 - 14 河原左大臣 - 15 光孝天皇 - 16 中納言行平 - 17 在原業平朝臣 - 18 藤原敏行朝臣 - 19 伊勢 - 20 元良親王 - 21 素性法師 - 22 文屋康秀 - 23 大江千里 - 24 菅家 - 25 三条右大臣 - 26 貞信公 - 27 中納言兼輔 - 28 源宗于朝臣 - 29 凡河内躬恒 - 30 壬生忠岑 - 31 坂上是則 - 32 春道列樹 - 33 紀友則 - 34 藤原興風 - 35 紀貫之 - 36 清原深養父 - 37 文屋朝康 - 38 右近 - 39 参議等 - 40 平兼盛 - 41 壬生忠見 - 42 清原元輔 - 43 権中納言敦忠 - 44 中納言朝忠 - 45 謙徳公 - 46 曽禰好忠 - 47 恵慶法師 - 48 源重之 - 49 大中臣能宣朝臣 - 50 藤原義孝 - 51 藤原実方朝臣 - 52 藤原道信 - 53 右大将道綱母 - 54 儀同三司母 - 55 大納言公任 - 56 和泉式部 - 57 紫式部 - 58 大弐三位 - 59 赤染衛門 - 60 小式部内侍 - 61 伊勢大輔 - 62 清少納言 - 63 左京大夫道雅 - 64 権中納言定頼 - 65 相模 - 66 大僧正行尊 - 67 周防内侍 - 68 三条院 - 69 能因法師 - 70 良暹法師 - 71 大納言経信 - 72 祐子内親王家紀伊 - 73 権中納言匡房 - 74 源俊頼朝臣 - 75 藤原基俊 - 76 法性寺入道前関白太政大臣 - 77 崇徳院 - 78 源兼昌 - 79 左京大夫顕輔 - 80 待賢門院堀河 - 81 後徳大寺左大臣 - 82 道因法師 - 83 皇太后宮大夫俊成 - 84 藤原清輔朝臣 - 85 俊恵法師 - 86 西行法師 - 87 寂蓮法師 - 88 皇嘉門院別当 - 89 式子内親王 - 90 殷富門院大輔 - 91 後京極摂政前太政大臣 - 92 二条院讃岐 - 93 鎌倉右大臣 - 94 参議雅経 - 95 前大僧正慈円 - 96 入道前太政大臣 - 97 藤原定家 - 98 従二位家隆 - 99 後鳥羽院 - 100 順徳院

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