日本の風景|名張・万葉の会 滋賀・大津&琵琶湖 大津宮と松尾芭蕉、義仲寺、建部大社 |
大津市と琵琶湖
大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する都市で、同県の県庁所在地。 天智天皇が近江大津宮に遷都して以来の歴史を持つ古都であり、世界文化遺産の比叡山延暦寺や園城寺(三井寺)、日吉大社などの神社仏閣をはじめ史跡が多く点在する。琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を誇る。 琵琶湖は滋賀県の面積の6分の1を占め、流れ出る水は瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。 琵琶湖は古代湖であり、魚類や底生動物など50種以上の固有種を含む生物相に富む。明治から昭和の初期までは、琵琶湖の周囲に大小40数個の内湖が広がり、多くの生物を育んでいた。 以外や大津は松尾芭蕉のゆかりの地でした。
[ 近江大津宮|瀬田川洗堰|瀬田の唐橋|幻住庵|義仲寺|近江国府跡|建部大社|古琵琶湖 ]
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琵琶湖が形成された時期は、約400万年〜600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった(大山田湖)。このため伊賀地方は土質が農業に不適で、生計を立てるための特殊技能集団がやがて忍者を発生させた。湖は次第に北へ移動し、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。
近江大津宮
近江宮(おうみのみや)は、7世紀後半の天智天皇が営んだ宮。近江大津宮(おうみのおおつのみや)、大津宮(おおつのみや)とも呼称される。滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。663年の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。667年旧暦3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(668年)1月、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。称制実に7年にわたった。
JR大津京駅前 |
JR大津京駅前・万葉歌 |
錦織遺跡・説明1 |
錦織遺跡・説明2 |
錦織遺跡・柿野本人麻呂 |
錦織遺跡・説明3 |
■近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこおりいせき)は、天智天皇(626-671)が1,300年以上も昔に、奈良の飛鳥(あすか)から遷都したという大津宮跡といわれています。国指定の史跡。現在、巨大な柱を埋め込むための1辺2m近い穴と、直径40mから50cmほどの柱跡が7つ、門跡、中心建物を囲んだと思われる柵列とその北側の倉庫群が発掘されています。
大津宮跡の推定地は市内にいくつかあり、これまでは穴太(あのう)、滋賀里(しがさと)、南志賀(みなみしが)、粟津(あわず)などが有力な候補地でしたが、昭和49年(1974)に発掘されて以来、錦織遺跡が確実視されています。
天武天皇の元年(672年)6月、天智天皇の崩御からおおよそ半年後、壬申の乱が勃発します。
大津宮も大来皇女にとっては安住の地ではなくなりました。大津皇子は、大海人皇子が吉野宮を出立してから2日後に京を脱出して、鈴鹿関で合流しています。 しかし、大来皇女の様子を伝える記事は全くありません。皇女は、大津宮に残されたのでしょうか、あるいは残ったのでしょうか。大来皇女12歳、大津皇子10歳の時のことです。
瀬田川洗堰(せたがわあらいぜき)
瀬田川洗堰(せたがわあらいぜき)は、滋賀県大津市南郷地先に建設された堰(可動堰)である。通称として南郷洗堰とも呼ばれる。琵琶湖から流れ出る唯一の天然河川である瀬田川の水を堰き止め、利水および治水に供する目的で運用されている。
瀬田川洗堰(せたがわあらいぜき) |
瀬田川洗堰本体は1902年(明治35年)に着工し1905年(明治38年)3月、煉瓦と石で造られた疎通能力は毎秒400m3の堰が工費625,000円で完成した。 |
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瀬田の唐橋(せたのからはし)
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。
宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。 また、日本の道100選にも選ばれている。「急がば回れ」という諺は、現在の草津と大津の間を結んでいた「矢橋の渡し」を詠んだ和歌が語源となっている。
【瀬田の唐橋にまつわる話 「急がば回れ」の語源・由来】
【急がば回れ 意味】 急がば回れとは、急ぐときには危険な近道より、遠くても安全な本道を通るほうが結局早い。安全で着実な方法を取れという戒め。
急がば回れの語源は、宗長(室町時代の連歌師)の歌「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」です。 「もののふ」とは武士、「やばせの舟」とは矢橋の渡しを意味し、「矢橋の渡し」とは、東海道五十三次草津宿(滋賀県草津市矢橋港)〜大津宿(大津市石場港)を結んだ湖上水運で、「瀬田の長橋」とは、日本三大名橋のひとつ「瀬田の唐橋」である。 当時、京都へ向かうには、矢橋から琵琶湖を横断する海路の方が瀬田の唐橋経由の陸路よりも近くて速いのだが、比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により危険な航路だったため、このような歌が歌われた。
幻住庵
1690年、松尾芭蕉47歳、「おくのほそ道」の旅を終えた翌年、4月〜7月までの4か月を国分山の幻住庵に暮らし「幻住庵記(げんじゅうあんき)」を書く。芭蕉俳文中の秀作とされる。松尾芭蕉「野ざらし紀行」の、『とくとくの清水』の話は有名です。
義仲寺(ぎちゅうじ)
義仲寺(ぎちゅうじ)は、滋賀県大津市馬場にある単立(天台宗系)の寺院。山号は朝日山。本尊は聖観音菩薩。この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。戦国時代に荒廃したが、天文22年(1553年)頃、近江守・佐々木氏によって再興された。当初は石山寺の配下であったが、江戸時代には園城寺に属した。昭和42年11月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑など、たくさんの見所があります。
義仲寺案内史料、その他より
義仲寺の入口 |
木曽義仲公の側室巴御前の塚 |
木曽義仲の墓 |
義仲公の側女山吹御前の塚 |
芭蕉の実 |
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門を入ってすぐのところに芭蕉が植えられていた。さすが芭蕉ゆかりの寺。芭蕉はバナナと同じ科だとか。 |
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翁堂・天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図 |
芭蕉翁堂と義仲寺境内の風景 |
朝日堂は義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩 |
巴御前(ともえごぜん/ともゑごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の武将とされる女性。軍記物語である『平家物語』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦で戦う大刀と強弓の女武者として描かれている。
俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在した。無名庵で句会も盛んに行われた。大坂で亡くなった芭蕉だが、遺志により義仲墓の横に葬られた。又玄の句「木曽殿と背中合わせの寒かな」が有名。
俳人松尾芭蕉の墓 |
義仲寺の境内の「初雪や日枝より南さり気なし」の句碑 |
義仲寺の境内の「行く春を近江の人とおしみける」の句碑 |
義仲寺の境内の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句碑 |
義仲寺の境内の句碑 |
義仲寺の境内の「古池や蛙飛こむ水の音」句碑 |
翁堂は、正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には36俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図(翁堂の天井には、伊藤若冲筆「花卉(かき)図天井画」(15面))である。翁堂は蝶夢法師が明和6年(1796)10月に再興。翌7年に画像完成。安政3年(1856)類焼、同5年再建。現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
近江国府跡
近江国府跡の最初の発掘は1963年三大寺山の地で、住宅団地の建設工事の現場から大量の瓦が出土したのがきっかけであった。滋賀県教育委員会による本格的発掘調査が始まり、基壇の上に建った瓦葺きの礎石建物が次々に発掘された、それまでその地名から寺跡であると思われていたのが、建物配置や細長い脇殿のような建物の発掘により、近江国庁の跡であることがわかった。発掘された正殿は、東西27.9m、南北19.3mの基壇の上に、東西23m、南北15mの四面庇の瓦葺き礎石建物であった。
近江国衙域の遺構 |
近江国衙域の築地塀 |
近江国衙跡の碑 |
建部大社(たけべたいしゃ)
建部大社(たけべたいしゃ)は、滋賀県大津市に鎮座する神社。近江国一宮。 式内社(名神大)で社格は旧官幣大社。現在は神社本庁の別表神社に指定されている。
伝えによると、景行天皇46年に神崎郡建部郷(現在の東近江市五個荘付近)に、景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりとされ、天武天皇4年(675年)に現在地へ遷座した。 源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。
建部大社の碑 |
建部大社の神木と拝殿 |
建部大社の本殿 |
建部大社の境内 |
建部大社の境内・石灯籠 |
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古琵琶湖
古琵琶湖 琵琶湖は世界有数の古代湖である。現在の琵琶湖は約400万年前に上野盆地(三重県)より地殻変動を繰り返し、現在の近江盆地に至りました。
最初の琵琶湖は三重県の大山田村(伊賀地方)にあった。今そこを流れる服部川の河床からは古琵琶湖層群のひとつ・上野層群が見られ、ゾウやワニの化石が見つかっている。湖の名を「大山田湖」という。約400万年前の断層運動の結果できたもので、次第に流送土砂により埋まっていった。この頃の日本列島の気候は亜熱帯。
いったんなくなっていた湖は約300万年前に再び現れる。これが阿山湖で、大山田湖からは北へ移動している。これも次第に埋まり、また北側に別の湖ができる。甲賀湖といい、深い湖だったという。これは土地の隆起によりなくなった。
またこの頃、湖水は古瀬田川を通って古桂川を入れたあと奈良盆地に流れ込み古奈良湖を形成した時期もあったという。水は大和川を通して大阪湾に注いでいた。
約260万年前には滋賀県蒲生町付近に沼沢地ができる。このあたりにはメタセコイアの林が広がっていたという。愛知川や野洲川の河床には化石林が残されている。当時の地層からはゾウの化石なども見つかっている。この湖は干上がって消滅したらしい。賀町で見られる古琵琶湖層はそのなかでも蒲生累層と呼ばれる地層で,今から約200万年ほど前のものです。アケボノゾウやシカだけでなく,カメや貝,植物など,いろいろな化石が出てきます。
※滋賀県彦根市の近郊,多賀町にある総合博物館・多賀町立博物館の公式ページ