名張・万葉の会|三重県四日市市 壬申の乱の足跡を訪ねて 久留倍官衙遺跡・・ |
三重県四日市市
今回は三重県四日市市を探る。 四日市市(よっかいちし)は、三重県北部に位置する県北部の中心都市で、国から特例市と保健所政令市の指定を受けている。
三重県の県庁所在地津市を上回る、三重県下最大の人口を擁す。古くはヤマトタケルノミコトが東征の帰途に通過したという伝説が残る。古墳時代から栄え、市内には土器窯や土器片出土地が分布する。また、飛鳥時代には壬申の乱で大海人皇子が兵を集めたと言われる。
四日市の重要文化財などを見学。 久留倍官衙遺跡、聖武天皇社、日永の追分、潮吹き防波堤、末広橋梁、赤レンガの建物・・。
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四日市港ポートビル |
オーストラリア記念館 |
四日市らしい化学工場 |
★四日市港ポートビル - 四日市港の開港100周年を記念して1999年(平成11年)に完成した、高さ100mの超高層ビル。
★オーストラリア記念館(大阪万博オーストラリア館)-競輪場の傍に
国指定史跡 久留倍官衙遺跡
■国指定史跡 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)。大矢知町の伊勢湾を望む丘陵の東先端部には、久留倍(くるべ)遺跡という弥生時代か ら室町時代にかけての遺跡があります。久留倍官衙遺跡は、この久留倍遺跡に含まれる遺跡です。
一般国道1号北勢バイパスの建設にともない、その事前調査によって確認 された奈良時代の役所跡の範囲が国指定史跡久留倍官衙遺跡となりました。
四日市市のくるべHPによれば、久留倍官衙遺跡=朝明郡役所跡は、T期・U期・V期と時代によって性格の異なる建物が建てられていました。
T期(飛鳥時代:7世紀第3四半期=650〜675年の新しいころ、つまり670年ころ?か〜奈良時代:8世紀前半頃)に、正殿・脇殿・東門(八脚門)とそれを囲む塀からなる郡衙政庁が、東向きに建てられていました。郡の政治を行う中心的な建物群です。
U期(奈良時代:8世紀中頃から後半)では、全国的にもまれな長くて大きい建物を中心とした建物群が建てられていました。
V期(奈良時代末〜平安時代前期)では、税で集められた稲をおさめる床を持つ構造の正倉が複数建てられ正倉院が形成されていました。
昔、壬申の乱(日本古代最大の内乱戦争)の頃、大海人皇子(後の天武天皇)は、吉野宮(奈良県吉野)に下った。近江宮において兄である天智天皇が46歳で崩御する。大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月27日)に吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。・・・妻である鵜野讃良(うのささら)皇女(後に持統天皇)らを連れ立ち、名張や伊賀を経て四日市へと入る。そして、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし勝利した。その経過など足跡を見てきました。
聖武天皇社
■聖武天皇社(しょうむ てんのうしゃ)は三重県四日市市の所在地が松原町の神社。松原地区の氏子大社であり、氏神として聖武天皇を祀っている。松原の石取祭が行われていて、鎌倉時代に創建された神社である。 聖武天皇社の神紋は16弁八重菊。
万葉集の史跡である聖武天皇社は松原村の旧家の田村家が明治時代まで氏子として神社を守ってきた。聖武天皇を祀る神社であり、聖武天皇ゆかりの史跡で、天皇関係の宗教施設として価値がある珍しい神社である。毎年7月に正式名が聖武天皇社大祭である松原の石取祭が開催されている。
★松原の石取祭(まつばらのいしとりまつり)は、三重県四日市市北部の富洲原地区の3地区(富田一色地区・天ヶ須賀地区・松原地区)の1つの松原地区に行われる祭り。富田一色地区の祭礼は<富田一色けんか祭>であり、天ヶ須賀地区の祭礼は<天ヶ須賀の石取祭>であり、松原地区の祭礼である松原の石取祭の正式名称は<聖武天皇社大祭>である。
鉦と太鼓の石取祭車の祭りである。松原石取祭(まつばらいしどりまつり)とも云う。奈良時代に聖武天皇が伊勢国に行幸した際に朝明郡の松原村に立ち寄り、聖武天皇の逸話から鎌倉時代に聖武天皇社が鎮座した。明治時代までは大木と大木の間に太鼓を吊り下げていて、木の枝には鉦をつるした祭りであった。
★旧家田村家の民話では、聖武天皇が伊勢行幸の際に松原村の旧東海道を通ると一陣の風が吹き、聖武天皇の笠が池に落ちたところに、タイミング良く西富田村付近の小川で洗濯をしていた田村家の娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって聖武天皇は娘の実家の田村家に宿をとられたという。続日本書紀の記述で松原の文献が記述されている。聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740年)に伊勢国に行幸をした。
★聖武天皇 (しょうむてんのう、 大宝元〜天平勝宝八(701-756))は、文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。光明皇后との間に孝謙天皇・基親王(夭折)をもうけ、夫人県犬養広刀自との間に井上内親王・安積親王・不破内親王をもうけた(男子はいずれも夭折した)。佐保山陵に葬られる。古代律令制の成熟期に君臨した天皇として絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人・僧侶・民衆の崇敬を集めた。
天武天皇迹太川御遥拝所跡
■史跡・天武天皇迹太川御遥拝所跡(てんむてんのうとおがわごようはいしょあと)。 『日本書紀』によると、天武天皇の元年(672)に勃発した壬申の乱の際、大海人皇子は、奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡家(ぐうけ)(三重郡の役所)に進み、さらに朝明郡(あさけぐん)の迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神(あまてらすおおみかみ)に戦勝祈願したといいます。
史跡・日永の追分
■四日市は東海道五十三次の四十三番目の宿場として栄えました。日永の追分は、東海道と伊勢街道の分岐点で、往時の繁栄ぶりを今に伝える史跡です。 古くは、東海道の宿駅(→四日市宿)で、伊勢神宮への分岐点が日永地区に追分という地名として残っている。
日永追分 には伊勢神宮遙拝用の鳥居が建つ。
★「常夜燈」は1774年の建立といわれ、奉献時から存在したと推定される。もう一つある「道標(1849年建立)」には「左いせ参宮道」「右京大坂道」「すぐ江戸道」と刻まれていた。
伊勢街道は、東海道・四日市宿の日永追分から東海道と別れて、伊勢湾沿いに津、松阪と南下し、伊勢へと至る街道。
道標は、明暦二年(1656)に建てられたものが、現在日永神社に移されています。それには「京」「山田」「南無阿弥陀仏 専心」「明暦二丙申三月吉日」とあり、現存する東海道の道標としてはもっとも古いもので、川原町の仏性院の開基専心によって建てられたことが知られています。
日永は、四日市宿と石薬師宿の間に立つことから間の宿とよばれ、周辺には多くの旅籠や茶店などが並んでいましたが、追分は日永の飛地で東海道中膝栗毛に登場する鍵屋をはじめとして浅草屋や野口屋等の旅籠や茶屋、綿屋という両替商もありました。
重要文化財・潮吹き防波堤
■潮吹き防波堤は、。明治時代に作られた独特の仕組みを持つ防波堤で、国の重要文化財にも指定されています。 四日市港は幕末以降、伊勢湾の商業港として発展していく。1870年(明治3年)には東京港までの定期貨客船が就航。 江戸時代末期、世にいう「安政の大地震」で四日市港は壊滅的な被害を受ける。 1873年から廻船問屋の稲葉三右衛門が私財を投げ打って11年に及ぶ大規模な改修工事を行う。 その後、ヨハニス・デ・レーケの設計による「潮吹き堤防」(重要文化財)が整備された(伊勢湾台風襲来時、港湾被害を軽減させた)。
★稲葉翁記念公園は、四日市港の祖、稲葉三右衛門の名を冠した潮の香りがする公園で、重要文化財指定をうけた稲葉翁記念碑や、オランダ人土木技術者デ・レーケによる潮吹き防波堤が湾内に眺められる、港に接した親水公園です。 公園内には、潮吹き防波堤レプリカが設置され、波消しの仕組みが解説されています。
重要文化財・末広橋梁
■末広橋梁。 昭和6年(1931年12月竣工)に製作された現役最古の蹴上式の鉄道可動橋で、1998年(平成10年)12月に近代化遺産建造物として国の重要文化財に指定されている。 また、2009年(平成21年)2月に経済産業省が認定する近代化産業遺産となる。 橋が動いてる姿をみられたらラッキー!
橋梁上には、構外側線(関西本線 四日市駅-四日市港)が通っている。通過する列車は、三岐鉄道 三岐線 東藤原から関西本線 富田、四日市を経由して四日市港の太平洋セメントへセメントや土砂を運ぶ貨物列車で、2008年(平成20年)現在1日に5往復運転されている。 千歳運河。
構外側線(関西本線 |
重要文化財 末広橋梁 |
重要文化財 末広橋梁 |
直ぐ傍には臨港橋があります。 千歳運河に架けられた跳ね上げ橋です。船舶が通る時は、油圧ジャッキで橋梁を70度程押し上げて開きます。 |
★末広橋梁 - 国内で現役唯一の跳開式可動鉄道橋梁。
臨港橋 - 国内で現役3つしかない、跳開式可動道路橋梁。
登録文化財・赤レンガの建物
■旧東洋紡績の富田工場は大きく変貌し、イオン四日市北ショッピングセンターとなりました。
しかし、唯一現存している建物があります。 大正6年に作られた赤レンガと、三角にとがった屋根が印象的な原綿倉庫です。 加工前のまだ精錬されていない綿を保管していた倉庫で、現在はレストラン棟として再利用されています。 平成19年、経済産業省が選ぶ「近代化産業遺産群」の一つとしても認定されました。
旧東洋紡績の富田工場の赤レンガ 「近代化産業遺産群」 |
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『三重県史(別編 建築)』の記載通り、四日市近代化の先駆けとなったのは紡績産業でした。その中で実業家・伊藤伝七が創業した三重紡績は、大正3年(1914)に大阪紡績と合併。国内最大級の紡績会社・東洋紡績がここに誕生しました。
大正7年(1918)、東洋紡績は、市内富洲原地区に新鋭の紡績工場を創設。工場以外にも大食堂・寄宿舎・病院などの施設が揃い、敷地面積は約200,000平方メートルを誇りました。工場正門前には従業員を対象とした商店街が形成されるなど、地域社会にも顕著な影響を与えたといいます。
海山道稲荷神社 - 節分祭「狐の嫁入り」で有名。
名張・万葉の会|三重県四日市市 壬申の乱の足跡を訪ねて |