大和の風景|奈良・明日香村(飛鳥)は「日本の心の故郷」の写真と切手 No.1 |
ページ内索引 [ 亀石と猿石、鬼の爼・鬼の雪隠|飛鳥坐神社|甘樫丘と雷丘(豊浦)|飛鳥水落遺跡と石神遺跡|飛鳥寺 |気都倭既神社|談山神社から明日香 |都塚古墳|石舞台|橘寺 川原寺跡 |高松塚古墳と中尾山古墳|キトラ古墳|犬養万葉記念館|ニュース ]
明日香村
歴史の宝庫の明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部に位置する村で奈良県高市郡明日香村が正式。中央集権律令国家の誕生の地である事から飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されている事で知られ、「日本の心の故郷」と呼ばれています。 明日香村には、高松塚古墳
、飛鳥寺 、石舞台古墳 、キトラ古墳 、鬼の爼・鬼の雪隠 、橘寺 、岡寺(龍蓋寺、西国三十三箇所7番札所) 、飛鳥坐神社 、見瀬丸山古墳 、伝飛鳥板蓋宮跡
、欽明天皇陵 、酒船石 、亀石 、奈良県立万葉文化館 、猿石 、甘樫丘 、国営飛鳥歴史公園 等の有名な史跡や遺跡が残っています。 飛鳥は、6世紀の終わりに推古天皇が即位し、平城京に都が移るまでの100年間、政治・文化の中心であった地です。
切手以外の写真はクリックで拡大。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。 |
||
安田靫彦・飛鳥の春 |
奈良・明日香(飛鳥)の遠望 |
|
明日香村周辺の地図 |
||
明日香村大きな地図で見る |
||
明日香村役場 |
役場の傍のお地蔵さん |
近鉄飛鳥駅前 |
奈良県立万葉文化館 |
隣の酒船石の森 |
|
■万葉文化館は、万葉のふるさと・奈良にふさわしい『万葉集』を中心とした古代文化に関する総合文化拠点として、国内外から多くの人たちが訪れ、楽しみ、学ぶことのできる機能と魅力を備えた「万葉文化館」が平成13年9月15日(土)、明日香村に開館しました。
■飛鳥(あすか)は現在の奈良県高市郡明日香村あたりと大阪府羽曳野市・太子町あたりを指す地域の名。 2つの飛鳥を区別するために、河内国(大阪府)の飛鳥は「近つ飛鳥」「河内飛鳥」とよばれ、大和国(奈良県)の飛鳥は「遠つ飛鳥」・「大和飛鳥」とよばれる。この場合の「近つ」「遠つ」は都があった難波宮(大阪市中央区)からみてちかいかとおいかによる。
■『万葉集』に「飛ぶ鳥の」歌(明日香を明示した歌)がいくつかみえる。
『飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を置きて去(い)なば君が辺は見えずかもあらむ』(1-78)
『飛鳥の 明日香の河の上ッ瀬に生(お)ふる玉藻は下ッ瀬に流れ触らふ玉藻なす(略)』(2-194)
『飛鳥の 明日香の川の上ッ瀬に石橋渡し下ッ瀬に打橋渡す石橋に生ひ靡(なび)ける(略)』(2-194)
「飛鳥」を「飛ぶ鳥」とよませ、「明日香」の枕詞となっていることがわかる。
このページのトップへ |
亀石と猿石、鬼の爼・鬼の雪隠
■亀石(かめいし)は、伊勢神宮外宮境内にある石。高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられてる。 奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られてることからこの名前で呼ばれてる。ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなってる。
■猿石の裏話、南東5kmにある高取城跡にはもう一体の猿石があるようなのですが、それは元禄年間にここから発掘されたものが運ばれたようです。
■鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠 奈良県明日香村にある巨石をくりぬいて造った石槨。墳丘の土が失われて露出し、ドーム状の天井石が床石から分離して斜面の下に転落している。鬼が旅人を捕らえて床石(俎)で料理して食べ、天井石(雪隠)で用を足した伝説がある。宮内庁が陵墓の一部として管理している。
鬼の雪隠(せっちん) |
鬼の雪隠(せっちん) |
鬼の俎(まないた) |
■猿石から田んぼのあぜ道をいくとすぐに鬼の雪隠(せっちん)呼ばれる石に到着します。元々は古墳の石室の蓋の部分で、封土がなくなり石がむき出しの状態との事、下の部分が鬼のまな板と呼ばれ石室の底板にあたりちょうど鬼の雪隠をひっくり返してで蓋をするように石室があったようです。小高い丘の下と上にあります。この雪隠とはトイレのことで、昔この近くに住む鬼が、霧を降らせて旅人を迷わせ迷った所を捕らえこのまな板の上で料理し、お腹がいっぱいになった所で、
雪隠で用をたしたという伝説があるようです。このあたりは霧ヶ峯と呼ばれ霧がよく発生したころから、こういう風説が人々の間で語られたのでしょう。2つの石は、大化の改新の翌年にあたる646年に作られているようです。残念ながら誰のお墓であったかはわかっていませんが、近年天智天皇の第一皇子で持統天皇の実弟・建王(たけるのみこ)と、建王の祖母・斉明天皇が合葬された可能性が高いと報告されています。
このページのトップへ |
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)
■飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ、あすかにますじんじゃ)は、奈良県高市郡明日香村にある神社。式内社(名神大)で、旧社格は村社。 延喜式神名帳には「飛鳥坐神社四座」とある。現在の祭神は事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、大物主神の四座であるが、多くの異説がある。また、当社地が天照大神を初めて宮中の外で祀った地「倭笠縫邑」であるとする伝承もあり(有力な説は大神神社摂社の檜原神社である)、近世には元伊勢とも称していた。
創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、雷丘から現在の鳥形山へ遷座した。奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708
▽飛鳥坐神社のお田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には夫婦和合の所作があり、奇祭として知られている。境内には、男性器を模した石(陰陽石)が多く安置されている。
▽奥の社は、元伊勢とされ天照大神・豊受大神をお祀りしている。
▽鳥居前の飛鳥井は、古来より湧き出る井戸水。 平安時代の歌集『催馬楽』にも詠まれている。
▽境内の万葉歌碑(巻19−4260 雑歌 作者: 大伴御行)
『大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田井を 都と成しつ』 壬申の年の乱が平定した後の歌
・大君は神であるので栗毛の馬が腹を水につけて歩く田んぼを都に変えた。 ・赤駒の 腹這う田井は 京となり
このページのトップへ |
甘樫丘と雷丘(豊浦)
■甘樫丘(あまかしのおか)は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵で、雷丘(いかづちのおか)は、奈良県高市郡明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)から明日香川(飛鳥川)をへだてて北にある小さな丘です。
甘樫丘は、丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の北側に展望台があり、大和三山、藤原京などの風景を望むことができる。標高148m。大化の改新以前に、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。古くから誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座した。允恭天皇のとき、盟神探湯(くかたち)が行われた。山腹には明日香村の保全に尽力した犬養孝氏揮毫の万葉歌碑(志貴皇子(巻1-51))がある。
■雷丘(いかづちのおか)の雷神降臨伝承では、平安時代初期に編集された説話集・「日本霊異記」(にほんりょういき)に、雄略天皇(5世紀後半ごろ)の侍者、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)に呼びつけられた雷神が雷丘に落ち、地上の雷を捕らえたとあるほか、栖軽の死後に墓を建てたとの記述もあって、古墳が存在していた可能性があるとのことです。西斜面から雷神降臨伝承と同時期の5世紀後半の円筒埴輪(はにわ)片が多数出土したと奈良文化財研究所が2005年11月21日発表しました。
このページのトップへ |
飛鳥水落遺跡と石神遺跡
■『飛鳥水落遺跡』は、「日本書紀」に記述がある、日本初の水時計「漏刻」があった場所です。今は、石の基壇部分が復元されて、25本の柱が立っているだけですが、当時(660年)は、しっかりとした建物があり、その内部で少しずつ水を流して時を計測していたのだとか。 当時の日本は、律令制に基づく支配体制が築かれつつあった時期で、中国の先進的な技術を取り入れることに熱心でした。様々な中国の文化が流入してきたのですが、明確な時刻を示すことで秩序づけようとしたのだそうです。そこで、日本の科学技術を結集して、国家規模の大プロジェクトとしての水時計「漏刻」が建設されたのです!
■石神遺跡(いしがみいせき) 日本最古の暦」が見つかったと奈良文化財研究所が発表した石神遺跡(奈良県明日香村)からは、他にも通行許可証や当時の税目「贄(にえ)」と記された最古の木簡などが確認された。木簡群は削り屑を含め1000点を超え、7世紀としては飛鳥池遺跡に次ぐ規模。当時の交通や税制などを探るうえで、貴重な資料の発見が相次いでいる。
天武天皇(673〜686)期の穴から出土した木簡(長さ12・2p、幅3p)には、「勢岐官(せきのつかさ)」と表記。「関司」の意味で、関の通行許可証にあたる過所(かしょ)木簡とみられ、飛鳥に到着後に廃棄されたらしい。石神遺跡(いしがみいせき)で、万葉集や日本霊異記に登場するものの、未だその所在が明らかでなかった古代の幹線道路「山田道」が発見された。山田道の道幅は、現代なら4車線道路にあたる約18メートル、藤原宮のメインストリート朱雀大路に匹敵する広さという。
このページのトップへ |
明日香村埋蔵文化財展示室
近くにある明日香村埋蔵文化財展示室は、明日香村が発掘した文化財の展示スペースです。 甘樫丘北東100m 「あすか夢の楽市」すぐ隣にあります。
主な展示内容は、明日香村内出土遺物展示、キトラ古墳石室模型展示、牽牛子塚古墳出土凝灰岩貼石、川原寺裏山遺跡出土品、飛鳥時代衣装 (参考:高松塚古墳壁画)、キトラ古墳木棺模型、村内出土石造物模型、日本書紀写本、甘樫丘からの展望パノラマ写真 です。
■川原寺(かわらでら)は、飛鳥(奈良県高市郡明日香村)にあった仏教寺院。跡地は国の史跡に指定されている。東西の長さは150m以上(今までの発掘調査でわかっている限り)南北に330mというとてつもなく広い敷地の中に、東塔ひとつとふたつの金堂、境内側に扉を持たずに解放された僧房が北東西の三方から囲むという、一塔二金堂式(川原寺式とも称される非常に珍しい)伽藍を持つお寺。 天武天皇の時代は国の行事に重宝されたのに、なぜかその後歴史の舞台から姿を消してしまう。この地は斉明天皇の仮宮「川原宮」のあった場所。
■708年(和銅元年)から平安時代中期の958年(天徳2年)にかけての250年間に12種類の銅貨が発行され、朝廷が発行したことから皇朝十二銭と呼ばれた。
このページのトップへ |
飛鳥寺
■飛鳥寺(あすかでら)は奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興った寺の意)の後身。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来(銅造釈迦如来坐像(重要文化財))、開基(創立者)は蘇我馬子です。7世紀初頭、鞍作鳥の作とされる。作成者の鞍作鳥(くらつくりのとり)は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の作者である「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と同一人物とみるのが一般的理解。 『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てることにしたという。
飛鳥寺は、大化の改新を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で最初出会ったと伝えられています。 蘇我氏のお寺ということもあってお寺のすぐ横に、入鹿の首塚があります。
※蘇我 入鹿(そが の いるか)は、飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変(皇極天皇4年6月12日、645年7月10日)により、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。 日本書紀には、青少年期は僧・旻に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われると記されている。飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に、「入鹿の首塚」が存在する。また、2005年(平成17年)11月13日に奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘された。
このページのトップへ |
談山神社から明日香への道のり
■談山神社から明日香(飛鳥、あすか)への道のり:談山神社から明日香(飛鳥)への道すがら、のどかな田舎の風景、森林の中、段々畑の道、千差万別。 相当の昔、中大兄皇子や藤原鎌足が通った道とは言え大変さが伺える。凡そ2時間程度で到着。 山道は登りもシンドイが下りは余計にシンドイ。
談山神社下り直ぐの綺麗な花と大和葛城・金剛山 |
明日香への道すがらの |
明日香・石舞台への道中。遠くに金剛山(左)、大和葛城山(右) |
犬養万葉記念館と展示物
■南都明日香ふれあいセンター犬養万葉記念館は、万葉故地を歩き、万葉風土記を提唱した犬養孝氏の記念館。再現された犬養先生の部屋や、展示室、図書館が設けてあり、万葉の世界に触れることができる。入館料金が無料で良心的でした。
犬養 孝(1907年4月1日 - 1998年10月3日)は日本文学者(万葉学者)。大阪大学、甲南女子大学名誉教授。文学博士。文化功労者。2000年には奈良県明日香村に犬養を顕彰し関係資料を展示する「犬養万葉記念館」が完成した。犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶ。
■岡寺は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺院。山号は東光山、院号は真珠院。寺号は龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称し、詳しくは東光山真珠院龍蓋寺という。本尊は日本最大の塑像である如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。西国三十三所第7番札所。『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。 江戸時代までは興福寺の末寺であったが、江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。
明日香村のニュース
■日本書紀の記述通り」 専門家、調査の意義強調 越塚御門古墳など被葬者確定的
新たに見つかった石室などについて説明する西光技師(左)ら(明日香村で)
「まさに日本書紀の記述通りだ」。 明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)に接して新たに見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳。 9日の村教委の発表を受け、被葬者は、牽牛子塚古墳が斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)、越塚御門古墳が孫の大田皇女(おおたのひめみこ)と確定したとする声が専門家から相次いだ。飛鳥時代の歴史に新たな光を当てる成果に、注目が集まりそうだ。 村文化財顧問の木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「日本書紀の記述通りで、疑いようがない。牽牛子塚古墳にとどまらず、他の飛鳥時代の古墳の被葬者像や、飛鳥の歴史全体を考える定点となる」と調査成果の意義を強調する。 越塚御門古墳の石室は、同村にある「飛鳥の謎の石造物」の一つとされる鬼ノ俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同型だった。猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(同)は、斉明天皇が同古墳から牽牛子塚古墳に改葬されたとする考えを示したうえで、「日本書紀が歴史を忠実に記していたことを目の当たりにする大きな発見だ」と評価する。 昨年9月から続く長丁場の発掘現場。調査を担当した村教委文化財課の西光慎治技師(40)と、調査補助員の関西大考古学研究室3年、辰巳俊輔さん(20)は、牽牛子塚古墳の範囲を調べるうちに、墳丘の痕跡が全くない想定外の場所から、新たな古墳を発見することになった。 西光技師は2002年、鬼ノ俎・雪隠古墳が二つの石室を備えた長方形墳(双室墳)で、斉明天皇と孫の建王(たけるのみこ)の合葬陵との新説を唱えている。今回の発見に、「事実関係をきちんと調査するのが現場担当者の務めだが、個人的には、牽牛子塚古墳と鬼ノ俎・雪隠古墳とのつながりが出てきたのが意義深い。『飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群』の世界文化遺産登録に向けた弾みになれば」と笑顔を見せた。 (2010年12月10日 読売新聞)
■飛鳥寺の「風鐸」国内最古か 2020年10月07日 NHK
奈良県明日香村の飛鳥寺の旧境内でおととし見つかった青銅製の鈴、「風鐸」を奈良文化財研究所が詳しく調べたところ、国内最古のものである可能性が高まったことが分かりました。 「風鐸」は寺などの建物の軒先に装飾としてつり下げられる鈴で、飛鳥時代に建立された日本最古の本格的な寺とされる飛鳥寺の旧境内から、おととし、その破片が見つかっていました。
ページ内索引 [ 亀石と猿石、鬼の爼・鬼の雪隠|飛鳥坐神社|甘樫丘と雷丘(豊浦)|飛鳥水落遺跡と石神遺跡|飛鳥寺 |気都倭既神社|談山神社から明日香 |都塚古墳|石舞台|橘寺 川原寺跡 |高松塚古墳と中尾山古墳|キトラ古墳|ニュース ] |
||
大和の風景|奈良・明日香村(飛鳥)は「日本の心の故郷」 |