歴史の風景|壬申の乱 吉野、宇陀、名張、伊賀、関、四日市、大津 |
壬申の乱での大海人皇子と名張と伊賀
天智10年(671年)10月17日、病に倒れた天智天皇(中大兄皇子)は,蘇我安麻呂に命じて皇弟・大海人皇子に宮に来るように伝えた。これに対して大海人皇子は,皇位を自分に譲る気はないと天智天皇の本心を悟ってた。 そのため,大海人皇子は自分の体調が悪いことを理由に断り,皇位は皇后(倭姫王:やまとひめのおおきみ)に,大友皇子を皇太子にと願った。 そして,自分は出家したいと申し出た。天皇はこれを許したので,大海人皇子はすぐに退室し,宮中の仏殿の南で髪を切り,僧の姿となった。 2日後の19日,大海人皇子は天皇の前で吉野に行って仏道の修行をしたいと願い出た。壬申の乱の幕開け。
◎671年12月3日,以前より病気がちであった天智天皇は大津京で没する。46歳であった。亡くなるときの様子について詳細は不明。
◎672年5月,大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに,宇治橋で吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきた。大友皇子の后となっていた十市皇女(とおちのひめみこ、天武天皇の第一皇女(母は額田王))からも朝廷の動きを伝えてきた。いよいよ大海人皇子は、自分の身に危険が迫っており,決断の時と考え,吉野を出て戦うことを決意した。
◎6月24日 大海人皇子 吉野脱出 大海人皇子は草壁皇子(くさかべのみこ11歳),忍壁皇子(おさかべのみこ年齢不明だが幼少),鵜野讃良皇女(持統天皇)や20人ほどの舎人,そして侍女たち10数人を連れ吉野宮を歩いて出た。
◎6月24日 夕方近く 菟田郡家(うだのこおりのみやけ)は現在の宇陀市榛原。歩いていた者を馬に乗せた。ここでさらに人数が増え,およそ100人の集団と化した。
◎672年6月24日夜半 隠郡(なばりのこおり)、隠駅家(なばりのうまや) 大海人皇子は、夜中に隠郡(なばりのこおり−三重県名張市)に着く。隠駅家(うまや−早馬がおかれた所・中継点)があり,これを焼き払った。村に向かって,「天皇が東国に入って行くから出てきなさい」と声をかけるがだれも出てきて従う者はいなかった。 ・・・・・
日本書紀はここで大海人皇子を「天皇」としてる。「天皇」は大海人皇子をさし,ここで初めて「天皇」という称号を用いた。このことは,皇位は大海人皇子にあることを主張してるともいえる。
平城遷都1300年の切手と写真 壬申の乱と西三重(名張市・伊賀市・津市) 切手以外の写真はクリックで拡大。 (参考&転載:"Team ASUKA-TOBIRA ")
写真はクリックで拡大します |
■大海人皇子を中心とした壬申の乱の行程
<大倭>吉野→菟田(榛原)・大野→
<伊賀>隠駅家→伊賀駅家→蕀萩野(たらの、上野市荒木)→積殖山口(伊賀町柘植の山口を経て加太越え)→柘植地区では高市皇子と合流→
<伊勢>鈴鹿関、鈴鹿駅家→川曲(山辺)→三重駅家(四日市)→遼太→桑名駅家→<美濃>野上行宮→不破関、玉倉部(たまくらべ−不破郡関ヶ原町玉)→
<近江>息長横河(おきながのよこかわ、米原市梓河内)→鳥籠山→安河→粟太→瀬田→
<山背>大津(大津宮)・・・<摂津>山前(大山崎、大友皇子自殺)
ページ内索引 〔 吉野(吉野宮)|宇陀|名張(隠駅家、大来皇女)|伊賀(伊賀采女宅子)|亀山(鈴鹿の関)|四日市(久留倍官衙遺跡)|滋賀(大津宮) 〕
吉野 吉野宮跡(吉野歴史資料館)
■宮滝遺跡は吉野宮(斉明・天武・持統朝)や吉野離宮(聖武朝)が営まれたところです。
梅谷醤油店と国道169号線を挟んだ北側一帯に吉野宮の中心がありました。
宮滝遺跡(みやたきいせき)は、奈良県吉野郡吉野町宮滝に所在する、いくつかの異なった年代の遺構の存在するいわゆる複合遺跡。別称には、吉野宮・吉野離宮推定地などがあり、吉野宮(大和国・吉野川の側に置かれた古代日本の離宮。)の所在については、吉野郡吉野町宮滝の宮滝遺跡であることはほぼ確定しています。
吉野町宮滝 |
かって吉野宮があった所 |
宮滝遺跡地図 |
■吉野歴史資料館の展示物(吉野歴史資料館ホームページ)
吉野歴史資料館では宮滝遺跡の展示を行っています。宮滝はかつて吉野の中心ともいえる場所でした。それを物語るように遺跡からは縄文時代から奈良時代までの遺物や遺構が出土しています。
吉野歴史資料館 |
「かはづ鳴く、吉野の川の、滝の上の、馬酔木の花ぞ、はしに置くなゆめ」 万葉集 10-1868 作者不詳 |
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●吉野宮の成り立ちと移り変わり : 飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました。この宮には持統天皇が30回以上も訪れていることが記録に残されています。ここでは吉野をよんだ代表的な万葉歌や、壬申の乱の経路図も展示。 |
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吉野宮の成り立ちと移り変わり |
吉野離宮の瓦 |
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吉野宮模型 |
吉野宮模型 |
◎671年12月 天智天皇が46歳で没すると,子の大友皇子(乱当時25歳)の政治が始まります。 |
壬申の乱(紙人形) |
壬申の乱(紙人形) |
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◎吉野を出て伊賀へ・・・大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行します。6月24日 舎人たちに作戦開始を告げます。そして,子の高市皇子(たけちのみこ),大津皇子(おおつのみこ)の都からの脱出と東国(美濃,尾張,三河から甲斐,信濃)の兵を集めることを部下たちに指示します。 |
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■柴橋のたもとに建つ万葉歌碑 ・・ 持統天皇が吉野宮に行幸した際に同行した柿本人麻呂が作った歌で「やすみししわご大君の聞し食す 天の下に国はしも多にあれども 山川の清き河内と御心を吉野の 国の花散らふ秋津の野辺に宮柱 太敷きませば百磯城の大宮人は 舟並めて朝川渡り船競ひ夕川渡る この川の絶ゆることなくこの山の いや高知らす水激つ瀧の都は 見れど飽かぬかも」 万葉集巻1-36 柿本人麻呂 |
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石碑 史跡宮滝遺跡 |
万葉集巻1-36 柿本人麻呂 |
史跡宮滝遺跡 説明 |
この碑の辺りから出土した縄文時代後期の土器にわざわざ「宮滝式」の名称が付けられ、また遺跡の北側から飛鳥時代以後から平安時代初期の建物跡も発見されました。 |
■斉明天皇が水の祭祀を行い、持統天皇が幾度も行幸に訪れた吉野宮は、縄文時代から人が住んでいた宮滝にあったとされる。吉野離宮が造営されたのはその西。同じ場に宮がくり返し建てられた事実は、この地の魅力を雄弁に語っている。
宇陀 深野・笠間
名張 安部田 兵頭瀬(ひよどせ)
■壬申の乱の時,大海人皇子は奈良の吉野を出て、鹿高神社を左に見て宇陀川に出ると,白鹿の伝説がある名張市安部田に到達する。 大海人皇子(後の天武天皇)が宇陀川の水かさが増して渡れないので困っていると,白鹿が現れて大海人皇子を背に乗せて渡ったという伝説がある。 その地を兵頭瀬(ひよどせ)といい,三重県名張市安部田を流れる宇陀川にある。 鹿高神社の前あたり。
宇陀川 |
兵頭瀬(ひよどせ) |
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◎夜中に隠郡(なばりのこおり−三重県名張市)に着く。 隠駅家(うまや−早馬がおかれた所・中継点)があり,これを焼き払った。村に向かって,「天皇が東国に入っていくから出てきなさい」と声をかけるがだれも出てきて従う者はいなかった。 日本書紀はここで大海人皇子を「天皇」としている。「天皇」は大海人皇子をさし,ここで初めて「天皇」という称号を用いた。このことは,皇位は大海人皇子にあることを主張しているともいえる。
名張 横河
■大化の詔によると、この名張を流れる川(横河)が畿内と畿外を分ける川であると定められています。 『大化2年(646年) およそ畿内(うちつくに)は、東は名墾(なばり)横河まで、・・』 夏見がそのちょうど境目に位置することも、なにか意味のあることなのかと思ったりもしました。この名張の地は、伊勢神宮あるいは斎宮との関連が深く、大来皇女の次に斎王となる当耆皇女(=託基 たきのひめみこ=父・天武 母・宍人臣カジ媛娘)も夏見郷に墾田を持っていたことが伝えられています。また、奈良時代に入りますが、やはり斎王となる酒人内親王が名張郷に栗林持っていたとされています。斎王になる皇女達の御料地としての存在も考えさせられます。また、名張の夏見に含まれる地には、伊勢神宮領(多良牟六箇山=たらむむこやま)が広大な面積を持って存在していたことが知られています。
名張 観音寺遺跡 (隠駅家?)
■観音寺遺跡 中村字観音寺 弥生〜中世 範囲30m×40m、竪穴住居、方形周溝 墓、掘立柱建物、中世城館 土師器、須恵器、瓦、昭和59年度県発掘調査
名張市中村の観音寺遺跡では、古代の大型掘立柱建物跡が発掘されていて、壬申の乱当時にあったかどうかはともかくとして、ある時期ここに名張の郡衙が置かれていた可能性は高いようです。
しかし、掘立柱建物が建ち並び官衙的性格を持つとされる観音寺遺跡や鴻之巣遺跡があるが、日本書紀に残る壬申の乱(673年)で大海人皇子が東国に向かった道、隠駅家(なばりのうまや)、戦勝後飛鳥への帰途宿泊した施設など現在のところこれらを比定する遺跡は明らかでない。
◎県や市、歴史研究者の最近の研究ではスーパービバホームの駐車場がある所が名張の駅家と想定されている。
観音寺遺跡(竹藪) |
観音寺遺跡 |
観音寺遺跡 |
★駅家とは、古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。厩牧令によれば、原則として30里(現在の約16キロメートル)ごとに駅家が設置された。駅使が往来に必要とする駅馬とその乗具及び駅子が準備され、駅馬を飼育するための厩舎や水飲場、駅長や駅子が業務を行ったり詰めたりするための部屋、駅使が宿泊・休憩を取るための施設および彼らに食事を提供するための給湯室や調理場、それらの施設を運営するために必要な物資(秣・馬具・駅稲・酒・塩など)を収納した倉庫などが設置され、中には楼(駅楼)を備えた施設もあった。
名張 夏見廃寺(なつみはいじ)
夏見廃寺(名張)(なつみはいじ)
■夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されてます。 674年10月9日には、「大来皇女は、泊瀬斎宮から伊勢神宮にご出発になった。」と書紀に書かれています。 醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女(おおくのひめみこ、天武天皇(大海人皇子)の皇女)、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇(天武天皇)のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。 もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられてます。 天智天皇の子、大友皇子と天皇の弟、大海人皇子(天武天皇)の間に、
皇位継承をめぐって壬申の乱(672年6月)が起こり、大海人皇子が吉野で秘かに挙兵し、美濃国不破関に向かう途中、夜半に名張に着きます。 駅家に立ち寄り「天皇、東国に入ります」と告げますが、これが、これまでの「大王」が「天皇」と呼ばれた最初であるという説があります。 戦いに勝った大海人皇子は、3か月後に飛鳥に帰りますが、その前夜名張に
一泊してます。往復とも夏見のあたりを通り、名張川を渡ったと思われます。 天武天皇(大海人皇子)にとって出陣と凱旋の地、名張を終生忘れられなかったと思われます。
三重県名張市の夏見廃寺(国の史跡)は、『薬師寺縁起』に見える大来皇女の発願により神亀2年(725年)に完成した昌福寺とされている。
浄(御)原天皇(天武天皇)のおんために昌福寺を建立した 夏見廃寺 |
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夏見廃寺の遠景(金堂・三重塔・講堂跡) |
■大来皇女(おおくのひめみこ、斉明天皇7年1月8日(661年2月12日) - 大宝元年12月27日(702年1月29日))は、天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)で、同母弟に大津皇子がいる。伊勢斎宮。 制度としての最初の斎王となった大来皇女(大伯皇女)は、父・天武天皇、母・大田皇女の間に生まれ、同母弟に大津皇子がいます。斎王となったのは、大来皇女13歳の時であったとされています。時を経て朱鳥元年(686年)9月9日、父である天武天皇の崩御。 そして同年10月3日、謀反の罪を負った弟・大津皇子の刑死。 時を置かず、大来皇女は斎宮の職を解任されます。11月16日、「伊勢神祠に奉仕していた皇女大来が、京師に帰りついた。」書紀は、淡々とその事実を記しています。大田皇女の父は、天智天皇(中大兄皇子)。
名張 その他古墳
■ 伊賀地内で発掘調査された七世紀後半以降の古代の遺跡について、いくつか紹介しておきます。
旧名張郡域では、七世紀末頃の法起寺式の伽藍配置をもつ夏見廃寺跡、飛鳥から奈良時代の倉庫群を伴った掘立柱建物群をもつ鴻之巣遺跡などが知られています。
また、旧伊賀郡域では、延暦銘の墨書木簡が出土し、平安時代の郡衙が置かれていたようである下郡遺跡、奈良から平安時代を中心とする一大掘立柱建物群をもつ森脇遺跡などが発掘されています。
古代名張郡夏見郷を治めていた夏身氏の館跡 |
倭国大乱の跡か?丘陵上集落の堀跡(弥生時代後期・塚原遺跡・蔵持町里) |
伊賀 八王子塚
■※伊賀市は、2004年(平成16年)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町、阿山町、大山田村、島ヶ原村、名賀郡青山町の6市町村が合併(新設合併)して誕生した市です。
さらに、旧阿拝郡域では、奈良時代の駅家と考えられ、大規模な建物をもつ官舎遺跡、東西約五十m、南北約五十mというほぼ半町四方の規模をもつ伊賀国庁跡などがあります。
伊賀 鳳凰寺跡(鳳凰寺廃寺)
■鳳凰寺(ぼうじ)廃寺は伊賀国・山田郡・竹原郷にあった古代寺院で、寺遺跡があるのは薬師寺のみですが、現在の鳳凰寺集落一帯が寺域と見られています。
鳳凰寺廃寺は三田廃寺(伊賀市三田)、才良廃寺(伊賀市才良)、夏見廃寺(名張市夏見)と共に伊賀地方に造られた白鳳期の官寺です。寺域一帯から白鳳様式を持つ古瓦が出土していて、礎石が残る現薬師寺本堂がある場所に鳳凰寺があったとされています。 伊賀街道と三重県道2号が交差する北側に鳳凰寺集落への里道があり薬師寺、鳴塚古墳の標識があります。
飛鳥時代の寺院跡で、現在、真言宗豊山派に属する薬師寺が同地に所在する。 壬申の乱後、大友皇子の生母、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)が郷里であるこの地に帰住して、我が子大友皇子の冥福を祈って鳳凰寺を創建したという伝説が伝わる。 礎石が、現薬師寺本堂庫裏の床下に二十数個、庭前に七個残っている。 また、八葉単弁蓮華文の鐙瓦、三重弧文の字瓦が出土している。
伊賀市鳳凰寺(薬師寺境内) 県の史跡
鳳凰寺地域のこいのぼり |
「轟山 薬師寺」本堂 |
「鳳凰寺址」の石柱 |
天正の伊賀の乱に際し兵火に炎上。その後建立された堂宇を「轟山 薬師寺」と改号。「鳳凰寺」は地名のみ残された |
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薬師寺境内 |
薬師寺境内 |
薬師寺境内 |
薬師寺境内 |
「轟山 薬師寺」本堂 |
「鳳凰寺址」顕彰碑 |
「轟山 薬師寺」の前庭にある「鳳凰寺址」の礎石 鳳凰寺廃寺礎石 |
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※この鳳凰廃寺を建立したのは,伊賀宅子娘という山田郡司(竹原連)の娘です。 伊賀宅子娘は天皇の世話をする采女として天智天皇の後宮に入り,大化4年(648)に大友皇子を産みました。
大友皇子は天智天皇の跡を継ぎ、次期天皇を期待される皇子で、伊賀宅子娘も、その一族たちの権力も大幅に増大していたと思います。 しかし大友皇子は弘文天皇として即位して間もなく壬申の乱(672)で叔父の大海人皇子に敗れ首を吊って自害します。
伊賀宅子娘は郷里の大山田へ帰り、わが子の冥福を祈って鳳凰寺廃寺を建立したといわれます。
薬師寺は鳳凰寺廃寺の跡に建てられた寺で境内には七世紀後半・鳳凰寺廃寺の礎石跡が20余りが残ています。 鳳凰寺廃寺の規模は現在の鳳凰寺集落一帯に及び出土した白鳳期、奈良期の古瓦から、鳳凰寺が七堂伽藍の大寺であったことがわかりました。
※薬師寺境内(鳳凰寺廃寺)の境内東に住吉社の刻銘の燈籠が1基あり、ここが植木神社が合祀した住吉神社の元地と思われます。 この住吉神社には山田郡司、その娘の伊賀宅子娘が氏神としていたとの伝承があるようです。
※伊賀宅子娘 (いがの-やかこのいらつめ)は、 飛鳥時代の女官。 伊賀の山田郡司(竹原連)の娘。 采女(うねめ)として天智天皇の後宮にはいり,大化4年(648)大友皇子を生んだ。
※采女となるには、『日本書紀』や『養老律令』によりますと、「郡の少領以上の姉妹及び子女の形容端正(かほきらきら)しき者を貢(たてまつ)れ」とあり、『古事記』や『日本書紀』に伊勢の国の采女の話がしばしば出てくるところを見ますと、古代の三重県は美女の多い土地柄であったと言えるかもしれません。
伊賀 鳴塚古墳
■鳴塚古墳がある鳳凰寺地区には76基の古墳があります。 その多くは集落の東方に入りこむ山林の傾斜地や丘陵地に築造されました。鳴塚古墳は、唯一、平地に盛土をして築かれた前方部を東北東に向けた前方後円墳です。規模は全長37m、後円部径12m、前方部長16m、墳丘高2,85m、後円部高4,8mを測ります。 石室の構造は、片袖式の横穴式石室で、南側に開口部があります。石室全長8,85m、玄室長4,45m、幅1,6mです。
鳴塚古墳 形状:前方後円墳 築造:6世紀前半 出土品:乳文鏡、須恵器(子持台付、提瓶)、玉類(硬玉製勾玉、メノウ製勾玉、碧玉製管玉) 被葬者:伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこ)、竹原郷の首長(山田郡司(竹原連))
※「天皇のご譲位があるたびに塚が鳴る」という伝説から、「鳴塚」と言い伝えられてきたそうです。 以前この塚に伊賀宅子娘を祭神とする鳴塚社が鎮座していました。 6世紀前半ごろ、横穴式石室としては導入期の石室が完存しています。 伊賀市鳳凰寺、大山田支所の東の山腹に、優美な前方後円墳がその姿を横たえています。
鳴塚古墳 全体 |
鳴塚古墳 休憩所 |
鳴塚古墳 説明版 |
鳴塚古墳 前方後円墳 |
鳴塚古墳 石室 |
鳴塚古墳 石室内部 |
『鳴塚
この塚は、昔から「天皇の御譲位がある度に塚が鳴る」ということから「鳴塚」と言い伝えられてきた。 全長三十七米の前方後円墳である。 鳴塚は、この地方を開拓し、教化・統治に力を尽くした豪族で、伊賀采女宅子を生んだ山田郡司の墓であるとか、天智天皇崩御の後、故郷に帰り住んだ宅子の陵墓であるとかいわれている。
又一説には、壬申の乱になくなられた大友皇子の陵墓であるとも語り伝えられている。
以前、この地に「鳴塚社」が鎮座していた。 毎年三月二十八日、采女宅子をしのんで祭礼が行われた。 宅子は、美貌の上に才媛の姫で、年中緑色の御召物だったことから、里人は宅子をしのび宅子にあやかりたいと、お宮で作った椿餅(椿の葉で包んだ餅)をこぞって頂いて帰った。 更に、弘文天皇(大友皇子)の命日にあたる七月二十三日にも、にぎやかな夏祭りが行われた。
明治中期に社が合祀されるまで続いたこれらの祭りは、鳴塚と里人の、史実を越えた深い心のきずなを物語るものとして、忘れてはならないことでもあろう。
また、鳳凰寺には、弘文天皇、伊賀采女宅子にまつわる地名等が多く残されている。
今後の古代を探る手掛りとなるものであろう。 昭和六十一年十二月吉日建立 大山田観光協会』
大山田村にある古墳の中でもこの鳴塚は全長37mの前方後円墳で,この位置から大山田村全体が見える。大友皇子の墓ともその母の伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこいらつめ)の墓ともいわれている。
・6月25日夜半、伊賀を北上し,中山を過ぎる。ここに伊賀国の郡司たちが大海人皇子と合流するため,数百の兵を率いて集結していた。事前に連絡が取れていて,これに従ったとみていい。吉野を出る前に大海人皇子は3名の舎人たちに指示をしているが,その活躍によるものか。
この地も特定されていないが佐那具付近であろうと言われている。東に山を越えて大友皇子の母の出身地に至る。
伊賀国庁跡
■木津川の支流、柘植(つげ)川右岸の段丘上に位置する古代伊賀国府の国庁跡。国府の所在地については、柘植川対岸の沖積地が推定されていたが、三重県埋蔵文化財センターと上野市教育委員会による発掘調査で判明した。
伊賀市坂之下
遺構についてはT期からW期の変遷があり、東西約41m、南北も同程度の掘立柱塀で区画された政庁域の中に、正殿・前殿・脇殿等が配される。主要建物は当初は掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)であるが、V期にあたる10世紀前半から後半にかけて礎石立(そせきだて)建物に建て替えられる。出土した墨書土器(ぼくしょどき)の中に「国厨」と書かれたものがあり、遺跡の所在地に「こくっちょ(国町)」と称する地名が残ることから、検出された建物群は伊賀国府の中枢部分である伊賀国庁を構成するものと考えられる。
このように、伊賀国庁は主要な施設の配置関係がほぼ判明し、遺構の残存状況も良好である。存続時期は8世紀末から11世紀中頃であり、下国(げこく)「伊賀国」の国府中枢である国庁の造営と変遷の実態を良く示すとともに、古代伊賀の政治情勢を示す上でも貴重である。(文化庁 文化遺産オンライン より転載)
伊賀国庁跡 |
伊賀国庁跡 |
佐那具駅 |
伊賀 城之越遺跡
伊賀 御墓山古墳・辻堂古墳
・伊賀市佐那具町、佐那具病院の南、国道25号線 沿いに巨大な森が見えます。 これが、伊賀最大、ひいては三重県最大の古墳、史跡名勝天然記念物 御墓山古墳(みはかやまこふん).です。
文化庁の資料からは、「S45-5-142 御墓山古墳. 本古墳は大正10年3月3日に国の史跡に指定された全長190メートルの前方後円墳である。 丘尾切断の代表例とされる古墳であるが、既指定地には、丘陵切断部、堀の一部、造り出し等がはいっておらず、周辺に存在する陪塚をも含め追加指定する。」となっています。 墳形と出土した円筒埴輪・形象埴輪・家形埴輪などから5世紀頃(古墳時代中期)の築造と推定される。 仁徳天皇陵(大山古墳)、応神天皇陵(誉田山古墳)と同時期の築造。 伊賀市佐那具町天王下。
また辻堂古墳(伊賀、旧大山田村)は6世紀後半の古墳で、ほぼ原型を残している。村指定文化財。
元々は、径20mほどの円墳あるいは前方後円墳だったと思われるが、今は、土盛りが取り払われ、さらに天井板も持ち去られて横穴式の石室が剥き出しになっている。玄室の奥には、2つの石棺が残っている。
御墓山古墳の案内図・説明文 |
国道25号線から見た |
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御墓山古墳の案内・石碑 |
史蹟御墓山古墳の石碑 |
御墓山古墳のすそ野を行く |
丘陵切断部・堀の一部・造出・陪塚の範囲も国の史跡指定 |
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御墓山古墳の前方部 |
御墓山古墳の後円部 |
御墓山古墳の |
辻堂古墳(伊賀、大山田) |
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■大彦命(伊賀市一之宮の敢國神社祭神)の墓と地元では伝えられる御墓山古墳:
大彦命(おおびこのみこと、生薨年不詳)は古代日本の皇族。大毘古命とも言う(『古事記』)。孝元天皇の第1皇子で、生母は皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと)。
記紀によれば、崇神天皇10年9月甲午(9日)、勅命により四道将軍の1人として北陸地方に派遣されるが、出陣の道中で不吉な歌を詠う不思議な少女に会ったので、引き返してこのことを報告、倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女。 大彦命のおばに当たる)に占わせたところ、武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反を告げるものと判明し、果たして実際に謀反が起こると、彦国葺と共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛は吉備津彦命が討ってこれを鎮圧したという。 その後、北陸へ赴き、越国の土着の豪族たちを平定して同天皇11年4月己卯(28日)に帰命した。 大和朝廷の基礎を築いたといわれる。その子孫は伊賀国中に広がり、特に伊賀国阿拝郡(あへのこおり)を本拠としたことから「阿拝氏」を称するようになった。 後に阿閉・阿倍・安倍などとも書かれるようになった。よって大彦命は伊賀国の祖神であり、「あべ」姓の氏神であるとされる。
■他の伝承 『日本書紀』雄略天皇18年条には、天皇に命じられた物部菟代宿禰・物部目連が伊賀青墓で守る伊勢朝日郎を討ったと見えるが、この「青墓」を御墓山古墳に比定する説がある。 地理的には、御墓山古墳付近は上野盆地と伊勢・近江との交通を扼する要衝になる。 また朝日郎の矢の威力を物語る内容や、地名の「さなぐ(佐那具)」が「さなぎ(鐸
= 鉄鐸)」を指すと見られることから、古代には一帯で鉄製武器の生産が盛んであった可能性が指摘される。
亀山 鈴鹿の関
■西の追分と鈴鹿関西城壁築地痕跡
関宿の西の追分と呼ばれるところは、東海道と大和街道の分岐点です。東海道は京都、大和街道は奈良へ辿ります。 全国各地に追分(おいわけ)という地名があるのですが、その地には街道の分岐点があるはずです。その分岐点で牛車を追い分けたことからその名がついたのです。
News 2020年11月21日 朝日新聞 20日にあった国の文化審議会の答申で、三重県亀山市の鈴鹿関跡(すずかのせきあと)が国史跡に指定される見通しになった。不破関(ふわのせき)(岐阜県)、愛発関(あらちのせき)(福井県)とともに律令三関(さんげん)と呼ばれた重要な交通管理施設の一つで、三つの中では初めての指定となる。 発掘調査を進めてきた亀山市によると、鈴鹿関は日本書紀の壬申の乱の記述に登場し、飛鳥時代には存在したと推定されている。
2005年、観音山の裾付近で古代瓦のかけらなどが見つかり、06年から発掘調査が始まった。第1次調査では、奈良時代の特徴を持つ重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)が出土。さらに19年の調査では、瓦屋根のある築地塀(ついじべい)の痕跡が見つかった。
築地塀は、崖の上に高さ約3メートル、南北約650メートルにわたって築かれていたと推定され、都から逃れようとする反乱者らを食い止めるなどの役割を果たしていたとみられる。これら発掘現場を含む計約5400平方メートルの範囲が、史跡の対象になっている。
四日市 久留倍官衙遺跡
■国指定史跡 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)。大矢知町の伊勢湾を望む丘陵の東先端部には、久留倍(くるべ)遺跡という弥生時代か ら室町時代にかけての遺跡があります。久留倍官衙遺跡は、この久留倍遺跡に含まれる遺跡です。
一般国道1号北勢バイパスの建設にともない、その事前調査によって確認 された奈良時代の役所跡の範囲が国指定史跡久留倍官衙遺跡となりました。
四日市市のくるべHPによれば、久留倍官衙遺跡=朝明郡役所跡は、T期・U期・V期と時代によって性格の異なる建物が建てられていました。
T期(飛鳥時代:7世紀第3四半期=650〜675年の新しいころ、つまり670年ころ?か〜奈良時代:8世紀前半頃)に、正殿・脇殿・東門(八脚門)とそれを囲む塀からなる郡衙政庁が、東向きに建てられていました。郡の政治を行う中心的な建物群です。
U期(奈良時代:8世紀中頃から後半)では、全国的にもまれな長くて大きい建物を中心とした建物群が建てられていました。
V期(奈良時代末〜平安時代前期)では、税で集められた稲をおさめる床を持つ構造の正倉が複数建てられ正倉院が形成されていました。
昔、壬申の乱(日本古代最大の内乱戦争)の頃、大海人皇子(後の天武天皇)は、吉野宮(奈良県吉野)に下った。近江宮において兄である天智天皇が46歳で崩御する。大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月27日)に吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。・・・妻である鵜野讃良(うのささら)皇女(後に持統天皇)らを連れ立ち、名張や伊賀を経て四日市へと入る。そして、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし勝利した。その経過など足跡を見てきました。
滋賀 瀬田の唐橋
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。
宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。 また、日本の道100選にも選ばれている。 「急がば回れ」という諺は、現在の草津と大津の間を結んでいた「矢橋の渡し」を詠んだ和歌が語源となっている。
滋賀 近江大津宮
近江宮(おうみのみや)は、7世紀後半の天智天皇が営んだ宮。近江大津宮(おうみのおおつのみや)、大津宮(おおつのみや)とも呼称される。 滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。 663年の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。667年旧暦3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(668年)1月、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。 称制、実に7年にわたった。
天武天皇の元年(672年)6月、天智天皇の崩御からおおよそ半年後、壬申の乱が勃発します。
大津宮も大来皇女にとっては安住の地ではなくなりました。大津皇子は、大海人皇子が吉野宮を出立してから2日後に京を脱出して、鈴鹿関で合流しています。 しかし、大来皇女の様子を伝える記事は全くありません。皇女は、大津宮に残されたのでしょうか、あるいは残ったのでしょうか。大来皇女12歳、大津皇子10歳の時のことです。
JR大津京駅前 |
JR大津京駅前・万葉歌 |
錦織遺跡・説明1 |
錦織遺跡・説明2 |
錦織遺跡・柿野本人麻呂 |
錦織遺跡・説明3 |
■近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこおりいせき)は、天智天皇(626-671)が1,300年以上も昔に、奈良の飛鳥(あすか)から遷都したという大津宮跡といわれています。 国指定の史跡。現在、巨大な柱を埋め込むための1辺2m近い穴と、直径40mから50cmほどの柱跡が7つ、門跡、中心建物を囲んだと思われる柵列とその北側の倉庫群が発掘されています。
大津宮跡の推定地は市内にいくつかあり、これまでは穴太(あのう)、滋賀里(しがさと)、南志賀(みなみしが)、粟津(あわず)などが有力な候補地でしたが、昭和49年(1974)に発掘されて以来、錦織遺跡が確実視されています。
■「日本書紀の記述通り」 専門家、調査の意義強調 越塚御門古墳など被葬者確定的 |
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