名張・万葉の会|橿原市(飛鳥の道) 見瀬丸山古墳、益田岩船・・ |
飛鳥の道
高松塚古墳から鬼の雪隠,石舞台,岡寺,酒船石,入鹿の首塚, 飛鳥寺等があります。
今回は近鉄岡寺駅周辺の歴史的な遺物を探る。牟佐坐神社、沼山古墳、菖蒲池古墳、植山古墳、軽寺跡。
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岡寺駅 |
岡寺駅前の石碑 |
岡寺駅前の交差点 |
■岡寺駅(おかでらえき)は、奈良県橿原市見瀬町にある、近畿日本鉄道(近鉄)吉野線の駅。駅名の由来の岡寺は当駅から約3.5km(徒歩約40分)離れています。橿原神宮前駅
と 飛鳥駅の中間駅。
牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
■牟佐坐神社(むさにますじんじゃ) は岡寺駅の西。高取川を渡つて境内に入る丘の上の神社。
この地は孝元天皇の軽境原宮趾伝説地となつている。
創始は安康天皇の時代に、渡来人の身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりとされている。 身狭(=牟佐)は大和国高市郡の地名で、阿知使主が率いて帰化した東漢氏の本拠地とされている。身狭村主青は倭の五王の一人とされている雄略天皇の寵臣で、『日本書紀』は雄略天皇8年(464年)と雄略天皇12年(468年)に呉の国(宋)に派遣されたと記す。
日本書記天武紀に、高市県主許梅への神がかりの中で「吾は高市社にいる、名は事代主神なり、また、身狭社にいる、名は生霊神なり。」とある。
(注1)万葉歌碑 柿本人麻呂 巻2‐207
天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の道は 我妹子(わがもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど やまず行かば 人目(ひとめ)を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後(のち)も逢はむと 大船(おほぶね)の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに渡る日に 暮れ行くがごと 照る月の 雲隠るごと 沖の藻の 靡(なび)きし妹は 黄葉(もみじば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の言へば 梓弓(あずさゆみ) 音に聞きて 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて袖ぞ振りつる。
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沼山古墳
■沼山古墳(ぬまやまこふん)は、岩船の東に位置する独立した丘陵の頂部に築かれた、6世紀後半頃の円墳です。墳丘規模は直径約18m、高さ約5.5mを測り、埋葬施設は横穴式石室です。
横穴式石室は右片袖式で、全長約9.5m、玄室長約5m、幅約3m、高さ約5.3m、羨道長約4.5m、幅約1.8mを測ります。玄室高が5.3mと非常に背が高いことが特徴です。
白橿近隣公園の中央にあります。
沼山古墳へと向かう 白橿町 |
万葉歌碑 中大兄皇子(/天智天皇) 巻1‐13、14(注2) |
沼山古墳 埋葬施設 |
沼山古墳 案内 |
沼山古墳 説明会 |
沼山古墳 |
玄室は5.3mと背が高いことが特徴で、ドーム状になっているようです。
(注2)万葉歌碑 中大兄皇子(/天智天皇) 巻1‐13、14
中大兄(なかのおほえ)〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕の三山(みつやま)の歌一首
【第13巻】
香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも嬬(つま)を あらそうらしき
反 歌 【第14首】
香具山と 耳梨山(みみなしやま)と あひし時 立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)
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益田岩船
■益田岩船(ますだのいわふね)は奈良県橿原市白橿町にある花崗岩の巨大な石造物。 造られた時期や目的などは不明で、亀石・酒船石などと並ぶ飛鳥の謎の石造物の一つで、その中でも最大のものである。 東西約11メートル、南北約8メートル、高さ約4.7メートル(北側)の台形状で、東西の側面はほぼ垂直に切り立っている。 上部から側面にかけて幅1.6メートルの溝が東西に掘られている。この溝に1辺1.6メートル深さ1.3メートルの方形の穴が、1.4メートルの間隔を開けて二つくり抜かれている。 岩の重さは約160トンと推測され、かつては他から運ばれて来たという説もあったが、現在では最初から今の場所にあったと考えられている。
益田岩船の案内 |
竹薮に佇む益田岩船 |
益田岩船の側面 |
益田岩船の側面 |
益田岩船の側面 |
益田岩船 |
益田岩船の案内 |
益田岩船の側面 |
益田岩船 |
※益田岩船(ますだのいわふね)は、ほぼ山の頂上にあります。 非常に不可思議な石造物です。製造目的も製造年も不明。山の頂に存在してる。
奈良県橿原市の橿原ニュータウン内、白橿南小学校の西の丘陵(岩船山)の頂上付近にある。岩船山麓から益田岩船に行く際、ロープが張られた箇所がいくつか有り、たどり着くには危険が伴う。かつては岩船から東へ約200メートルの白橿近隣公園内の沼山古墳などからも山の上にある岩船を目視できたが、現在は竹林におおわれ困難である。
Stonework is very strange. Unknown year and unknown manufacturing purposes.
That exists at the top of the mountain.
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菖蒲池古墳
■菖蒲池古墳は、藤原京の朱雀大路の南延長線上に築かれた古墳で、五条野古墳群の東端に造られています。 2011年の発掘調査で、墳丘東辺の基底石とその外壕が出土、一辺30.6mの二段築製の方墳と確認されました。 国の史跡に指定されている。類例のない精巧な造りの家形石棺2基で知られる。
菖蒲池古墳 案内 |
菖蒲池古墳 石碑 |
菖蒲池古墳から葛城山を |
菖蒲池古墳 |
菖蒲池古墳 |
菖蒲池古墳 |
※石室は両袖式の横穴式石室で、羨道部の大半が埋った状態のため全長は不明です。現状では、玄室7.3m・幅2.6m・高さ2.6mあります。
被葬者は不明ですが、蘇我倉山田石川麻呂の墳墓とする説が有ります。
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植山古墳
■植山古墳(うえやまこふん)は、奈良県橿原市に所在する終末期の古墳(長方墳)。 2000年(平成12年)に橿原市教育委員会により発掘調査されている。 磯長谷古墳群中の山田高塚古墳(伝推古天皇陵)へ改葬される前の、推古天皇とその子息竹田皇子の合葬墓であった古墳ではないかと言われている。 2002年に国の史跡に指定されている。
春日神社の裏が植山古墳 |
道すがらの二上山 |
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植山古墳と二上山 |
植山古墳と畝傍山 |
植山古墳 |
★植山古墳は東西40m、南北27mの長方墳(長方形の墳丘の古墳)である。丘陵の南斜面を利用し、墳丘部分を削りだすようにして築かれている。墳丘の東・西・北はコの字状に周濠が廻っている。墳丘には、東西に並ぶ2つの横穴式石室があることから、双室墳と呼ばれることもある。
両石室の被葬者としては、日本書紀に推古天皇は628年に子息の竹田皇子の墓に合葬されたとあり、古事記には「大野岡の上にありしを、後に科長の大陵に遷す也」とある。河内の磯長谷にある伝推古天皇陵(山田高塚古墳)に改葬される前の、大野岡にあった2人の合葬墓であった可能性が考えられている。
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見瀬丸山古墳
■見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん)は、奈良県橿原市見瀬町、五条野町、大軽町にまたがった地区に存在する前方後円墳。6世紀後半に築造されたと推定されており、研究者の間においては欽明天皇(539年
- 571年、この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した)と堅塩媛(きたしひめ。蘇我稲目宿禰の女、用明天皇、推古天皇の母) の陵墓であるとの説が有力視されている。
古墳は丘陵上の傾斜地に設けられている。極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318メートル、前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートルにおよぶ。また、横穴式石室の全長は28.4メートルで、全国第1位の規模である。
見瀬丸山古墳の被葬者が欽明天皇と堅塩媛でない場合、古墳の築造時期から考えて、被葬者候補としては蘇我稲目の名も挙げられている。
★蘇我稲目(そが の いなめ、武烈天皇8年(506年)頃 - 欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))は、古墳時代の豪族。蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。娘3人を天皇に嫁がせた。
蘇我堅塩媛 (そが の きたしひめ、生没年不詳)は飛鳥時代の皇妃。欽明天皇の妃。用明天皇、推古天皇の母。父は蘇我稲目。姉妹に同じく欽明天皇の妃になった蘇我小姉君、弟に蘇我馬子がいる。
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軽寺跡
■軽寺は、軽(かる)氏の氏寺といわれる。 出土した瓦の文様からみて、7世紀後半の建立である。飛鳥・藤原に都のあった時代に市としてにぎわった軽市(かるのいち)は、この寺の付近にあったという。 国道169号線の東、史跡丸山古墳が築かれた丘陵頂部の北側で大軽町の集落の中に位置しています。
現橿原市大軽町「法輪寺」本堂下にある土壇が金堂跡と推定されています。 想定される寺域からは、飛鳥時代から白鳳時代にかけての古瓦が出土しています。 また、飛鳥時代中頃の柱跡が東西に伸びているのが確認されており、寺域の北限の塀と考えられています。丘陵状の地形から伽藍配置は、塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ山田寺式が無理のない配置だと思われます。
案内板によると創建者は、賀留大臣玄理で、推古天皇の時、唐より持ち帰った薬師如来像を本尊として、軽寺を建てたと説明しています。賀留大臣玄理が誰を指すのかは不明です。高向玄理とする説があるようです。
名張・万葉の会|橿原市(飛鳥の道) 見瀬丸山古墳、益田岩船、牟佐坐神社、沼山古墳、菖蒲池古墳、植山古墳、軽寺跡 |