大和の風景|曽爾村 屏風岩と曽爾隼別神社・言霊の郷、お亀の湯の写真
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曽爾村・屏風岩
■曽爾村(そにむら)は奈良県の中央部より、やや北よりの東北端に位し、北は三重県名張市、東は、三重県津市、南は御杖村、西は宇陀市に接しています。村のほぼ中央を東北に県道が通じており、村における唯一の交通動脈になっていますが、その西側約1km〜2kmにわたり屏風岩、兜岳、鎧岳など、一連の大岩壁によって西北部は隔絶されています。2011年8月末。
■屏風岩(高さ868m)は兜岳の西側にあり、奇鋒がその名の示すように南面にあたかも屏風を立てたように屹立しています。その幅2km、鋸の刃のように鋭くそびえ、垂直に柱状節理の岩壁が約200mの断崖をなしています。岩盤には、ミツバツツジなどが咲き誇り、麓に広がる公苑は、春には大木の山桜が咲き乱れ、秋には紅葉で彩られる岩壁とのコントラストは圧巻、国の天然記念物(てんねんきねんぶつ、英:Natural
monument、独:Naturdenkmal)に指定されています。 屏風岩公苑。
写真はクリックで拡大します ご注意)画像の無断転用はお断りします。
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柱状節理 屏風岩
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屏風岩公苑 ヒガンバナ
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柱状節理 屏風岩
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屏風岩公苑
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曽爾村の山々
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屏風岩
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屏風岩の説明
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国の天然記念物 屏風岩
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屏風岩から和歌山方面を
大雨洪水警報が出てました
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屏風岩から
奈良・吉野方面を
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屏風岩から
一番手前の小さな山には昔お城がありました
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屏風岩から曽爾高原
(ススキで有名です)
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屏風岩公苑
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柱状節理の屏風岩
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■節理(せつり、英: joint )とは、岩体に発達した規則性のある割れ目のうち、両側にずれの見られないものをいう。マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じる。
■柱状節理(ちゅうじょうせつり、英: columnar joint)は、岩体が柱状になった節理。六角柱状のものが多いが、五角柱状や四角柱状のものもある。玄武岩質の岩石によく見られ、マグマの冷却面と垂直に発達する。
曽爾隼別神社・言霊の郷
■曽爾隼別神社・言霊の郷です。最後に休憩を取った若宮峠より三の峰に向かう中腹に祭られている小祠は、地元の人達が昔から「若宮さん」と呼んで御祭りをされてきたようです。沢山の男女和合碑(道祖神?)と歌碑があります。
「言霊の郷」:地域内に歌碑26基が建立されていて、その内の三基が万葉集関係の歌碑で、その他は、日本歴史上著名な人物の歌碑となっている。地域内には、男女和合の碑群が数基据えられている。
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男女和合碑(道祖神)
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男女和合碑(道祖神)
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男女和合碑(道祖神)
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男女和合碑
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男女和合碑
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男女和合碑
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道祖神は、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰され、古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。
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男女和合碑(道祖神)
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男女和合碑(道祖神)
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男女和合碑(道祖神)
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隼別神社
(ハヤブサワケ)の鳥居
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この隼別神社(ハヤブサワケ神社)は昔から御祭りされていたのではなくて、十数年前の平成初期この地を訪れたシャーマンが、「隼別皇子」と「雌鳥姫」二人の霊に遭遇し、ここに「隼別神社」を創建されたそうです。
※隼別皇子(はやぶさわけ の みこ、生年不詳 - 仁徳天皇40年2月)は『記紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。5世紀頃の応神天皇の皇子。仁徳天皇の異母弟。母親は『古事記』では桜井田部連垂根(さくらい
の たべ の むらじ たりね)の娘、糸井比売(いといひめ) で、『日本書紀』では桜井田部連男組(さくらい の たべ の むらじ おさい)の妹、糸媛(いとひめ)。「隼総別皇子」とも表記する。『古事記』では速総別命。
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※雌鳥皇女(めとりのひめみこ、生年不詳 - 仁徳天皇40年2月)は、『記紀』に伝えられる古墳時代(5世紀頃)の皇族(王族)。応神天皇の皇女。母は和珥臣(わにのおみ)の祖先の日触使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(『古事記』では宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえ
の ひめ)。菟道稚郎子皇子(うじ の わき の いらつこ の みこ)・八田皇女(矢田皇女、やた の ひめみこ)の同母妹。『古事記』では女鳥王と記される。
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隼分王子 日本書紀巻11
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額田王(ぬかたのおほきみ) 万葉集 巻1‐18
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■「梯立(はしたて)の 嶮(さが)しき山も 我妹子(わぎもこ)と 二人越ゆれば 安筵(やすむしろ)かも」 隼分王子 日本書紀巻11
■「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや」 額田王(ぬかたのおほきみ) 万葉集 巻1‐18
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■「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 兄弟と わが見む」 大来皇女(おおくのひめみこ) 万葉集2-165
■昭和天皇歌 『ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ』 (昭和天皇御製集おほうなばら 昭和二十一年歌会始)
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大来皇女(おおくのひめみこ) 万葉集2-165
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昭和天皇御製集おほうなばら 昭和二十一年歌会始
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静御前 義経記巻6
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乙姫 藤田妃見子
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■「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 静御前 義経記巻6
■「コスモスの花咲きみてり乙姫の七色の虹世界をつつむ」 乙姫 藤田妃見子
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■「さしのぼる 朝日の如く さわやかに もた まほしきは 心なりけり」 さしのぼる <明治天皇御製>
黎明(れいめい)の横雲を破って東の空に、赤々と一直線に昇ってくる朝日のように、さわやかな気分を常に持ちたいものである。
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■「この神酒みきは 吾わが神酒みきならず 神酒くしの司かみ 常世とこよに坐います いはたたす 少御神すくなみかみの豊寿とよほき 寿ほき廻もとはし 神寿かむほぎ 寿ほき狂くるほし 奉まつり来こし神酒みきそ あさず飲をせ ささ」 神功皇后
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さしのぼる
<明治天皇御製>
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神功皇后
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※神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
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昭憲皇太后御集上
明治九年
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吉田松陰歌碑
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■「高山のかげをうつしてゆく水のひききにつくを心ともがな」 昭憲皇太后歌
■吉田松陰歌碑 『親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん』 (在萩父叔兄宛書簡 安政六年十月二十日在江戸獄 岩波 吉田松陰全集)
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※昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 1914年(大正3年)4月9日)は、明治天皇の皇后。
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■「 東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅(むめ)の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな 」 贈太政大臣菅原道真 拾遺和歌集巻16雑春1006
■保田與重郎歌碑 『山かげを立ちのぼりゆくゆふ烟わが日の本のくらしなりけり』 (保田與重郎歌集木丹木母集雑ノ歌(1)天杖記遊び歌 昭和十八年)
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贈太政大臣菅原道真 拾遺和歌集巻16雑春1006
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保田與重郎歌碑
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保田典子歌碑
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雌鳥皇女命(めとりひめのみこと) 日本書紀巻第・11
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■保田典子歌碑 「見返れば茫とかすみぬ影ながき人とあゆみしわれの歳月」 (保田典子)
■「ひさかたの 天金機雌鳥(あめかなばためとり)が織る 金機(かなばた)隼別の 御襲料(みおすひがね)」 雌鳥皇女命(めとりひめのみこと) 日本書紀巻第・11
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隼別神社
(ハヤブサワケ)の本殿
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■古事記での内容は、兄の仁徳天皇の命令で「雌鳥姫」を后に迎えに行った弟の「隼別皇子」は、「雌鳥姫」が実姉である「八田の皇女(ヤタノヒメミコ)」が先に仁徳帝の后となりさんざん苦しんでいるのを見て、仁徳帝をあまりこころよく思っていなく、むしろ自分に好意を寄せていることを知り、二人は倉橋山(現在の桜井市音羽山852m)に駆落ちこもり兄の仁徳帝を討つための同士を募っていた。が、事の次第を聞いた仁徳帝は早速兵を指し向ける。不意を衝かれた二人は、味方の多い伊勢の地に逃れようと宇陀の山伝いに逃避行をする途中、この辺り(屏風岩三ノ峰中腹の若宮祠?)で刺客の手にかかり殺されたのです。
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日本書紀では、ストーリーは似ていますが、終焉の地が異なっているようです。 ※注 昔は、兄妹であっても片方の親が違っていたら婚姻が許された。
■「七夕には鵲(カササギ)が列を作って橋となり、織姫に天の川を渡らせる・・。」という伝説があります。七夕の夜、かささぎは翼を連ねて、天の川に橋を架け、二人を逢わせる助けをしてくれるのです。・・かささぎ橋
かささぎ橋
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■福川於良(書家)歌碑 『早苗とる翁と媼に入り日さす棚田の干上がる日のくるなかれ』
伴林光平(ともばやしみつひら、ばんばやしみつひら、文化10年9月9日(1813年10月2日) - 文久4年2月16日(1864年3月23日))とは、幕末の国学者、歌人、勤王志士。
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福川於良(書家)歌碑
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■伴林光平歌 『誰が宿の春のいそぎか炭うりの重荷にそへし梅の一枝』(保田與重郎 近世第一の歌人)
■「 ねがはくは 花の下(した)にて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ」 西行法師 山家心中集 (俊成 「長秋詠藻」)
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伴林光平 歌碑
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西行法師 山家心中集
(俊成 ■「長秋詠藻」)
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明恵上人 「明恵上人和歌集」高信撰・白洲正子「明恵上人」)
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平忠度
千載和歌集巻1春歌上66
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■「 あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月 」 明恵上人 「明恵上人和歌集」高信撰・白洲正子「明恵上人」)
■「さざ浪や 志賀のみやこは あれにしを むかしながらの 山ざくらかな 」 平忠度 千載和歌集巻1春歌上66
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平 忠度(たいら の ただのり)は、平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。平清盛の異母弟。歌人としても優れており藤原俊成に師事した。
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■「 淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 情(こころ)もしのに 古(いにしへ)思ほゆ 」 柿本朝臣人麻呂 万葉集巻第3・266
■「 敷しまの 倭こころを 人とはば 朝日ににほふ 山さくら花 」 本居宣長 詠稿16寛政2年庚戌詠
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柿本朝臣人麻呂
万葉集巻第3・266
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本居宣長
詠稿16寛政2年庚戌詠
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松尾芭蕉 奥の細道
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神武天皇 古事記中巻
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■「あらたふと 青葉若葉の 日の光 」 松尾芭蕉 奥の細道
■「葦原(あしはら)の 密(しけ)しき小屋(をや)に 菅疊(すがたたみ) いやさや敷(し)きて 我(わ)が二人寝(ふたりね)し」 神武天皇 古事記中巻
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■「 是の神風(かむかぜ)の 伊勢國は 常世(とこよ)の浪(なみ)の 重浪(しきなみ)よする國なり 」 天照大神 日本書紀巻第・6
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天照大神 日本書紀巻第・6
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隼別神社の拝殿
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倭建命(日本武尊、やまとたけるのみこと) 古事記中巻
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弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと) 古事記中巻
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■「 倭(やまと)は國の まほろばたたなづく 青垣山隠(やまごも)れる 倭しうるはし」 倭建命(やまとたけるのみこと) 古事記中巻
■『古事記』では弟橘姫は海に身を投じる際、
「 さねさし相武(さがむ)の 小野(をの)に 燃ゆる火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも」 弟橘比賣命 古事記中巻
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弟橘姫を忘れられない日本武尊は、『日本書紀』によれば碓日嶺(うすひのみね。現在の碓氷峠)、『古事記』によれば神奈川県の足柄の坂本(足柄山)において、「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる地名起源説話である。
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隼別神社
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隼別神社の七福神
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隼別神社由緒 隼別皇子(はやぶさわけのおうじ)は応神天皇の皇子で、母は糸媛。 仁徳天皇が雌鳥皇女(めとりのすめらめ)を妃に迎えようと隼別皇子を使わしたが、皇子は密かに皇女を妻としたので、天皇の怒りに触れて、皇女とともに伊勢神宮へ逃れようとしたが、天皇の追っ手に殺された、という(日本書紀)。古事記には速総別王と記され、女鳥王に謀反をそそのかされたという。
曽爾村・お亀の湯
曽爾高原温泉「お亀の湯」の名前の由来は曽爾高原の「亀山」と、美人伝説にあるひょうたん型の「お亀池」から名づけられました。泉質はナトリウムー炭酸水素塩温泉で、お肌にもしっとりの美人の湯はお客様から評判です。
大字太良路は、もと太郎路(たろうじ)とも書き、伊勢の太郎生(タロウ)という村に通ずる路であるからここを太良路という。ここからお亀池を越すのを太郎越えとも亀山越えともいう。
● お亀池の人魚
むかし一人の浪人が乗馬姿で、このお亀池のほとりを通りかかった。すると一人の若い女が子供を抱いて待っていた。浪人が、若い女に「何をしているのか」と問うと、この女は、「お願いです。この子を抱いてくれませんか、その間、あまりにも、この池が美しいので、水あびををしたいのです。」と頼みこんだ。浪人は馬から下りて子供をあずかった。そして待っていた。大分時間がたっても女は池からあがって来なかった。池の中をみると、先きの女は半身人魚で化けておよいでいた。裸体をのそかれた人魚は、びっくりして、そのまま池の中へ姿を消してしまった。浪人が抱いている子をよくみると、それは子供ではなく石のお地蔵さんであったという。(奈良県市町村の史料及び、大和叢書の内『大和の傳説』(昭和8年発行、高田十郎先生編纂)から引用)
曽爾高原
お亀の湯 売店
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曽爾高原
お亀の湯 門
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曽爾高原
お亀の湯 入口
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お亀の湯 古時計
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曽爾高原 お亀の湯
バニラのソフトクリーム
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曽爾高原
お亀の湯 温泉入口
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お亀の湯 ひょうたん
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お亀の湯 曽爾高原ビール
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ツーリング・バイク
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● お亀池の大蛇
大字太良路という村の北に亀山がある。亀の形に似ているので亀山という。ここに池がある。これをお亀が池という。
むかしお亀という女が、伊勢の国の太良村から太良路村へお嫁に来た。十八才のみずみずしい美人であった。お亀は毎朝、家の裏にある井戸で水鏡をみて化粧した。この井戸は深く水は亀山の池から出て来ていた。しばらくすると、毎晩どこかへ出て行って朝になってから帰る。そして裏口に泥のついた草履がぬいであった。縁先にほしてあるぬれた草履をみて夫があやしむと、お亀が池へ子供が生まれるように水ごりをとりに行っているという。
夫婦の間に子供が生まれた。お亀は「私の用事は、すんだのでおひまを下さい」と実家へ帰った。ところが子供が夜泣きをするので、そのムコさんが子供をつれて乳をのましてもらいに出かけた。
「お亀よ、お亀よ」とよびながら池のあたりまで来ると、お亀はむかえに来てくれた。「もう明日から来て下さるな」とお亀は言った。そして実家の方へもどって行った。ところが翌晩も子供が泣いて仕方がないので、また子供をつれて池のあたりまで行った。すると、お亀が池の水がゆれて、池の中から嫁のお亀が姿をあらわした。「もう来るな、といったのに、何故来るか」と忽ち大蛇の姿に化けて大口をあいておそいかかって来た。ムコさんは子供をかかえて一目散に逃げた。今もその場所を字大口という。それから大蛇は真直ぐの姿勢で追うて来たので、そこを「タテホリ」と今もいっている。真直ぐになることを「タテ」とか「タツ」という方言がある。大蛇は疲れたのか休んだ。そこを字ビヨウソク(弊足)という。そこで大蛇は水を飲んだ。そこを字水ノミという。
命からがら逃げ帰ったムコさんは、それから重い病気にかかって死んだ。お亀池の主といわれる大蛇も野火から山火事になった時、焼けて死んだという。もとこの池は太良路池といっていたが、このお亀の事件があってからお亀池というようになった。このお亀池からスリヌカをほりこむと太良路のところへそのスリヌカが流れて来るという。この池底は沼で深さはいくらあるか判らない。しかし水深は僅か一メートル前後のものである。
この村ではお亀という名は、それからつけないようになった。また最近になって若い男がこの池の鯉を釣って帰ったところ、病気になったので、池の主のたたりだといって返えしに来たことがあった。(奈良県市町村の史料及び、大和叢書の内『大和の傳説』(昭和8年発行、高田十郎先生編纂)から引用)
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大和の風景|曽爾村
屏風岩と曽爾隼別神社・言霊の郷、お亀の湯の写真
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