奈良の歴史風景|奈良市(旧山辺郡月ヶ瀬村、都祁村) 名勝・月ヶ瀬梅渓 他 |
奈良市(旧月ヶ瀬村、山辺郡都祁村)
平城遷都1300年(the 1300th Anniversary of Nara Heijo-kyo Capital)の切手(Stamp)と写真(Picture)の奈良市(旧山辺郡月ヶ瀬村、山辺郡都祁(つげ)村) 編です。 どちらかと言えば奈良県の東部にある地域を中心に整理してます。 月ヶ瀬村や都祁村(都祁王国)は2005年に奈良市へ編入。月ヶ瀬は大和茶の産地としても知られ、初夏になれば新緑が斜面を鮮やかに彩る。
月ヶ瀬温泉もあります。都祁村には、小治田安萬侶の墓 、都祁水分神社 、三陵墓古墳 、吐山-氷室跡 が名所・旧跡とし有名な所です。都祁は、かっては歴史の裏舞台でも名を馳せた場所。
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●「青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」(あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり) 小野老 萬葉集三-328 あをによし は、奈良の「枕詞」。あをに、は緑青(ろくしょう)で顔料につかってた。 「よし」はその産地をほめた言葉。
奈良市(旧月ヶ瀬村) 月ヶ瀬梅林
■名張からは車で25-30分の距離の月ヶ瀬梅林に、2010年3月8日行ってきました。朝から天気もよく、名張川沿いに山道をガタゴト走り奈良県の月ヶ瀬梅林に到着しました。梅の花は7−8分咲きの状態でしたが、白梅と紅梅が鮮やかなコントラストを見せて、写真で見る以上に非常に綺麗でしたよ。三重県伊賀市に隣接する梅の名勝・月ヶ瀬梅渓(奈良県奈良市月ヶ瀬尾山とその周辺(旧添上郡月ヶ瀬村)に位置する梅林)は、白梅や紅梅などの花が鮮やかさを増し、観光客らを楽しませます。名張川(五月川)を挟んで両岸に梅林が広がり、数は約1万3千本にのぼる。
奈良市(旧山辺郡都祁村)
■都祁(つげ)には大和朝廷とは異なる流れの文化・文明が栄えてたと、まことしやかにささやかれてます。 都祁 (つげ)の語源は、古代朝鮮語で日の出を意味するトキノ(都祈野)から由来しており、日本書紀では「闘鶏」(案内板にも表示)と記されてました。 氷室神社 の主祭神「闘鶏稲置大山主命(つげのいなきおおやまぬしのみこと)」は、氷室の起源とされてます。春日山の神とされてますが、都祁(闘鶏)の一族という見解もあります。付近でで発掘された遺物には、関東、東海地方から、前漢のものが含まれており、そこから推察するに、巨大な力をもった王国が存在したのではないかと思われます。都祁王国を象徴する遺跡が、三陵墓古墳です。(参考&引用:奈良歴史ミステリーハンター) 古墳は三つあります。 場所は、針I.Cと榛原の中間でI.Cより。
都祁・三陵墓古墳群史跡公園
■三陵墓古墳群(さんりょうぼこふんぐん)は、奈良県奈良市都祁南之庄町にある古墳群。 大和高原・宇陀郡の中では最大級の前方後円墳「三陵墓東古墳」を有しています。 三陵墓古墳群は前方後円墳1基(東古墳)・円墳2基(西古墳・南古墳)の計3基から構成される。 3基のうち東古墳は墳丘長約110m、後円部径約72m、前方部長約39m、前方部幅約50mあります。 墳丘斜面に葺石が施され、後円部は3段に形づくられていて、各段と墳頂部に埴輪が立て並べられてます。 また、前方部と後円部の高さの差が7.5mとかなり大きく、5世紀の後半でも古い頃に造られた古墳です。
被葬者は明らかでないが、西古墳・東古墳は都祁盆地(都介野)の首長墓と想定され、『古事記』・『日本書紀』に見える都祁直・闘鶏国造との関連性が指摘される。
都祁・涅槃山蓮城院来迎寺
■都祁・西山浄土宗涅槃山蓮城院来迎寺は、行基の開基と伝えられ、後に1114年(永久2年)摂津の豪族多田(源)満仲の一族、顕鏡(けんきょう)阿闍梨が郷墓となってた荒野に寺境を定め、1223年(貞応2年)相河(そうご)荘の蓮阿が本堂を建立した。 そして、本尊の「阿弥陀如来坐像」(鎌倉時代初期・快慶作と推定)を安置した。 1336年(建武3年)蓮阿の孫了尊が堂宇を再建して、今の本堂は、1629年(寛永6年)の再建で、重文で玉眼の本堂内にある寺宝の「木造善導大師坐像」は檜の寄木造による写実的な肖像彫刻として有名です。(左膝を立てて座る極めて稀な形相をしてる・重要文化財)
都祁・都祁水分神社と「山辺の御井」
■都祁水分神社(つげみくまりじんじゃ)は、奈良市都祁友田町にあり、大和国水分四社(都祁・宇陀・吉野・葛城)の一つで、古来から水の神として崇拝されてきました。 歴史は、古来大和国の水分四社の一つで、飛鳥時代の創祀と伝えられてます。 祭神は速秋津彦神、天水分神、国水分神の三柱の神で、古く本地垂跡説によると阿弥陀三尊と呼ばれてます。 朱塗りの梁があざやかな本殿は、一間社春日造桧皮葺で国の重要文化財に指定されてます。本殿前の石造の狛犬は、鎌倉時代後期の作で、早期狛犬の秀作とされる、たいへん貴重なものです。
都祁水分神社山門 |
都祁水分神社拝殿、能舞台 |
都祁水分神社拝殿 |
本殿左奥の万葉集で詠われた「山辺の御井」と |
都祁水分神社 室町時代中期に造られた桧皮葺の本殿 |
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■「山辺の御井」とは、712年(和銅5年)4月に長田王が伊勢斎宮へ行く途中立寄って、万葉集で詠った御井(みい)があります。 都祁水分神社の本殿に向かって左80m奧に、万葉集で詠った御井(みい)があります。
和銅五年壬子(みづのえね)夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺(やまのへ)の御井(みゐ)にして作る歌
「山辺の御井を見がてり神風の伊勢処女(おとめ)ども相見つるかも」 万葉集 第1巻−81
鈴鹿や毛原廃寺にも同じ話あり。
【通釈】山辺の御井を見に来たついでに、伊勢の少女たちに出逢うことができた。
「山辺の御井」 |
「山辺の御井」 |
和銅五年壬子・・ |
■斎宮(さいぐう、さいくうまたはいつきのみや、いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所。平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指すようになった。伊勢斎王、伊勢斎宮とも称する。
『日本書紀』崇神紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を倭の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行した後に伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記しており、これが斎王の忌みこもる宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べており、以後斎王は天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として、長く伊勢神宮に奉仕することとなった。万葉歌人として名高い大来皇女がその初代斎王。
■都祁水分神社の祭礼は古くより春日「おん祭」を模倣して盛大に行われ、神輿は9月25日、小山戸山口神社に渡御せられ、翌26日遷御され、田楽、佃男、流鏑馬があり、能狂言も催されていました。
都祁水分神社に伝承の祭礼絵巻は、県指定文化財となっています。
室町時代中期に造られた桧皮葺の本殿は総丹塗りで、瑞垣(みずがき)が巡らされています。一間舎春日造の社殿は、貴重な中世の遺構として、国の重要文化財に指定されています。
都祁・小治田安萬侶の墓
■奈良県都祁村甲岡(現在は奈良市都祁甲岡町)で発見された奈良時代の官僚である小治田朝臣安萬侶の火葬墓で、1969年に国の史跡になっています。
小治田安萬侶(おはりだのやすまろ、生年不詳 - 729年3月13日(神亀6年2月9日)没)は蘇我稲目の後裔にあたる奈良時代の役人で、文武から聖武まで四代の天皇に仕えた高官でありました。
1912年(明治45年)、茶畑の開墾中に偶然木櫃が発見され墓誌3枚が出土し、1951年(昭和26年)に改めて発掘調査が行われて火葬墓であることが確認されました。 墓誌は金銅製で、国の重要文化財に指定されている。
都祁・小治田安萬侶の墓 |
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都祁・小治田安萬侶の墓 |
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墓地は都祁水分神社がある丘陵の南斜面につくられており、墓誌の他に木櫃と副葬品の三彩の壷、銀製の和同開珎、須恵器、土師器が出土したほかに、双獣双鳳文鏡1面も同墓の出土品として伝わっています。