大和の風景の切手と写真|橿原 おふさ観音、今井町、八木札の辻交流館 他 |
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橿原市
橿原市(かしはらし)は、奈良県中部の市。橿原市・桜井市・明日香村にある史跡を「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストに掲載している。橿原市にある史跡では、藤原京跡・本薬師寺・見瀬丸山古墳・大和三山などがリストに含まれている。大和三山
- 畝傍山・耳成山・天香久山の三山を指す。2005年(平成17年)7月14日、国の名勝に指定された。 今井町は検断権を許されて自治都市として発展し、『海の堺・陸の今井』と称された。 切手以外の写真はクリックで拡大。
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近鉄百貨店 |
橿原文化会館 |
下ツ道(中街道) |
中街道 (下ツ道)は、奈良市から橿原市を経て五條市に至る街道。 古代では「下ツ道」(しもつみち)と呼ばれた古代官道のひとつであった。 下ツ道は、7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る大道・下ツ道として整備された。見瀬丸山古墳の前面を起点とし、藤原京の西四坊大路(現在の橿原市八木あたり)から、奈良盆地の中央をまっすぐ北へ進み、平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)に至る。
※平成25年6月6日万葉の会は奈良・橿原の藤原京とおふさ観音(下ツ道)に行きました。「大和の風景の切手と写真|橿原 古都・藤原京と橿原神宮」、「大和の風景の切手と写真|橿原 おふさ観音、今井町、八木札の辻交流館 他」に統合しました。
おふさ観音(おふさかんのん)
■おふさ観音(おふさかんのん)は、奈良県橿原市小房(おうさ)町にある寺院の通称名。
山号は十無量山。正式名称は高野山真言宗別格本山 十無量山 観音寺。
イングリッシュローズが境内に所狭しとあふれる寺院として知られてる。大和三山の耳成山と畝傍山のほぼ中央に位置する寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。
1650年(慶安3年)、この辺りにあった鯉ヶ淵という池の中から白いカメに乗った観音が現れ、それを発見した付近に住む娘おふさが小さな堂を建立して観音を祀ったことが起源とされる。
参詣者をもてなす目的で境内いっぱいに所せましと咲き誇る、イングリッシュローズを中心に約1800種およそ約3000種類のバラとクレマチス・ハーブ他の植物が境内のバラ園で栽培・展示されてます。
以下は代表的なバラの花です。
春のバラは花数も多く、境内いっぱいにバラの香りが満ちています。
関連ブログ:「日本の風景・大和路|風鈴とバラで有名な橿原の「おふさ観音」」
八木札の辻交流館
橿原市指定文化財「東の平田家(旧旅籠)」は、平成24年7月14日より、八木札の辻交流館として開館しました。
平田家は古代大和の主要道路「下ツ道(しもつみち)」と「横大路(伊勢街道)」との交差点である「八木札の辻」を挟んで西側の平田家、東側の「平田家」が向かい合って立地し、いずれも江戸時代の旅籠(はたご)の風情を残している建物です。 江戸時代中期以降「八木の札の辻」界隈は、伊勢参りや大峯への参詣巡礼などで、特に賑わっていたと推測されています。
今のところ棟札などの直接的な根拠は確認できていませんが、古文書、構造手法、鬼瓦の箆書(へらがき)などから、18世紀後半〜19世紀前半を降らないと考えられます。東の平田家の主屋は「下ツ道」と「横大路」の交差する東北角に建ち、東南側の「横大路」に面して角屋が付属し、その北側に坪庭があります。1階の庇はかつて出桁(でげた)に柱を建てていましたが、後に柱を抜き取り、現在は持送りにて軒を支えています。また2階の大屋根も軒の出が大きく、腕木(うでぎ)を出し、出桁によって支えられています。
小屋梁は、平均径で25.0〜30.0cmの杉丸太で、東・西入側筋より東・西に架けています。中央部分でやや弓状にむくり上がる材を使用し、すべての各客間間仕切り部分に取付きますが、長さ約8.0mの長尺の梁です。中央部分は部屋境の柱天端で受けて小屋束を建て、母屋を受けています。
小屋梁 |
家屋内の井戸 |
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主屋1階 |
幕末の儒者 谷三山の書/ |
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谷三山について(橿原市HP) |
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■谷三山は、江戸時代の後期の儒者。 谷三山の卓越した学識を認めた頼山陽(らいさんよう)や吉田松陰など幕末の知識人とも親交があったということです。 大和国(奈良県)高市郡八木で商業を営む父重之と母ちやの3男。家は豊かであったが幼少より多病で,15,6歳ごろ聴力を失う。正史経伝の勉学に励み,文政12(1829)年京に出て猪飼敬所に就いた。天保6(1835)年ごろ家塾興譲館をおこし門人多数におよんだ。15年1月高取藩(奈良県)藩主植村家教により儒臣に抜擢され士籍に列した。その学問は経世に志あり,また藩政や尊王攘夷,あるいは山陵修復についてなど,たびたび上書した。 |
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中庭 |
主屋1階 |
主屋1階 |
主屋1階 箪笥 |
主屋1階 衝立 |
主屋1階は南側に土間 |
主屋1階 箪笥 |
■所在地 北八木町 |
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主屋2階 幅の広い階段 |
2階部分が客室 |
横大路(伊勢街道) |
2階部分の客室 |
2階部分の客室 しつらえ |
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2階部分の客室 |
庭 |
2階部分の客室 |
真束は小屋梁中央上端に架る桁行梁に建て、棟木を受けています。主屋2階西側、南側は軒の出が大きいため、出桁から桔木(はねぎ)を用いて11箇所吊り上げています。
屋根も再三葺替えられており、現在背面部分、庇部分が桟瓦葺となっていますが、古くは本瓦葺と考えられます。なお、大棟南側の鬼瓦の東肩に「天保七申六月作」の箆書(へらがき)も発見されているので、葺替えの一時期が知られ、これに類する瓦も多く残存しています。
松尾芭蕉 笈の小文 収録歌 句碑 |
■貞亭5年(1688)松尾芭蕉が45歳 4月上旬 奈良で唐招提寺などを見物。11日 奈良を出立。八木、耳成山の東の八木宿に泊まる。 |
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句意 - 松尾芭蕉が一日の旅に疲れて旅籠を求める黄昏。 晩春の暮色の中に淡い紫の藤の花がおぼつかなく咲き垂れて、そこはかとない旅愁と春愁を誘う。(笈の小文) |
■八木町は古くから奈良盆地を南北に結ぶ幹線道の中街道(下ッ道)と奈良盆地の南部を東西に走る伊勢街道(横大路)の交差する辺りを中心に発達した。この辺りを「札の辻」と呼ばれ、中世から「八木市」が開かれ、南大和の物資の集散地として繁栄し、江戸時代には高札場になっていた。
一般社団法人 橿原市観光協会のFBページ
今井町
■今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市にある町。中世戦国時代の町並みが残ることで知られ、世界的にも注目されている。飛鳥時代には、「八木村付曽武橋当世八木村に俗にそむぼう乃橋というあり。聖徳太子斑鳩宮より筋違道(太子道)を経て、曽武々の橋をわたり、八木の里を過ぎて、橘宮に通い給いしなり」(玉林抄)とあるように今井の名は無かったが、1474年(文明6年)頃初めてこの里が生まれ、里の南に清き井があり今井と号したとある。また、聖徳太子は舎人調使麻呂(つきのおみまろ)と秦河勝から献上された愛馬甲斐の黒駒を伴って曽武(蘇武)井で休憩したと伝えられている。
■今西家(慶安3年(1650)の城郭を思わせる八棟造) ・・ 今井町
今西家住宅は、永禄9年(1566)今井町に入町した十市兵衛遠忠の一族で、もと川井氏を名のっていたが、三代目から今西姓になった。惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権をゆだねられていた。八つ棟造りは、その役柄に相応した建物で、棟札には慶安3年3月22日(1650)の年代が記され民家というよりも城郭を思わせる構造で、今井町の西口にありその西側は環濠となっている。外壁を白漆喰塗籠めとし、大棟の両端に段違いに小棟を付け、入母屋造の破風を前後喰違いに見せ、本瓦葺の堂々とした外観を持っており、わが国の民家建築史上貴重な建物である。
■天岩戸神社(香具山の南麓にある岩戸隠れ伝説の舞台)
日の神、天照大神が隠れた天岩窟といわれている4つの巨石がご神体です。そのために神殿はなく、拝殿のみという古代の原始的な祭祀形態を残しています。境内には毎年新しい竹が7本育つ代わりに、別の7本が枯れるという『7本竹の不思議』という伝説が伝わっています。