日本の風景|名張・万葉の会 奈良県高市郡高取町(高取の道) |
奈良県高市郡高取町(高取の道)
奈良県高市郡高取町(たかとりちょう)、有名な明日香村の隣。 8世紀初頭 「いにしえの渡来人」が活躍した古代の国際都市高取町でした。 高取町では、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃「壺阪観音霊験記」の舞台の壺阪寺(南法華寺)と、土佐街道(お城への道)沿いの「町家の雛めぐり」でお雛様を一般の民家でも観光客に飾り見せる事で有名です。 他には日本一の山城・高取城、高取は漢方薬の本場で、色んな家が何かしら薬作り・薬業に関わっている地域です。 「薬」と高取のつながりは古くは万葉の昔にさかのぼります。 もともと薬となる動植物が生息していたことに起因し飛鳥の宮廷行事の一環として雅やかに薬狩りが行われていました。 以来千数百年の歴史を経て今日の製薬 卸業売薬の繁栄がもたらされました。 江戸や明治の街並みが残る高取町の土佐街道や町中を歩いていても、何故か薬のにおいが漂っています。 民家の軒先には、造花ではなく本物の綺麗な花々がお客様を出迎えてくれます。 道は狭いですが、凄く居心地の良い場所です。有名なキトラ古墳も直ぐ近くにあります。 2010年4月 写真はクリックで拡大。
高取の町の玄関口 |
高取の町の |
町家の軒先の花 |
高取町の風景や土佐街道などの町家の風景です。
高取の町の |
高取・土佐街道 |
高取・道すがらの満開の桜 |
高取・清水谷 |
土佐街なみ集会所・夢創舘 |
松の門(札の辻)・ |
土佐街なみ集会所・ |
土佐街なみ集会所・夢創舘 薬をすりつぶす道具 |
土佐街なみ集会所・夢創舘 昔の薬の広告 |
■オロナイン軟膏、コリフ、ニューセメネン、西川トンプク風薬・・・・ なんだか凄く懐かしい薬です。 製薬機械?道具?は時代劇のお医者さんと言えば出てくる道具です。
■高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城で明治6年に廃城、連郭式山城。別名を芙蓉城、鷹取城、高取山城と言う。築城主は、南北朝時代に南朝方の越智邦澄で、築城年は元弘2年(1332年)、その後の主な改修者は
筒井順慶、本多利久 です。標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
高取の雛祭り
この町は、8世紀初頭 「いにしえの渡来人」が活躍した古代の国際都市高取町でした。 万葉集にも詠われ、高取町出身の東漢氏の一族である最初の「征夷大将軍・坂上田村麻呂」(758年(天平宝字2年)、現在の奈良県高取町に生まれ、
811年(弘仁2年)に没した平安時代初期の武官)が活躍します。 因みに京都の清水寺は西法華寺と呼ばれ、何か壺阪寺と因縁めいたものを感じます。 ※日本へ渡来してきた人達は総称して漢(あや)族と呼ばれるが、信貴山を真ん中にして東が「東漢(倭漢)」で西側が「河内漢(かわちのあや)」である。ほぼ5世紀頃に渡来してきた人々は、飛鳥地方の主に高取、桧前に住んだ。蘇我氏と結びついて権力を手にした。東漢氏の特色は、・軍事的技術・宮建築の技術・今来漢人(技人)たちによるさまざまな先進技術等々である。
壺阪寺(つぼさかでら)
壺阪寺(つぼさかでら)は、別名・南法華寺(みなみほっけじ、西国三十三ヶ所めぐり六番札所)は、奈良県高市郡高取町にある真言宗の寺院。山号は壺阪山。一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られる。 高取城跡から西へ下ったところにある壺阪寺です。 駅からですとユックリ歩き山道を登って2時間、帰りは1時間30分。 ここは、大宝三年(七○三年)に元興寺の僧、弁基上人が建立の、古くから観音信仰が盛んに行われた霊場です。平安時代を代表する随筆のひとつ『枕草子』の中で清少納言によって「寺は壺阪、笠置、法輪」と賞賛されるこのお寺は、真言宗の寺。西国三十三ヶ所めぐりでも六番札所として、本尊十一面千手観世音菩薩(室町時代の樫材の寄せ木造)は眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として全国各地から毎日多くの参拝者が訪れる。境内にあるのは国の文化財に指定されている礼堂や三十塔、そして天竺渡来の大観音石像。これはインドで壺阪寺が行った社会活動に対し、インド政府より感謝の意を表して贈られた石仏で、延べ八万人の日本とインドの石工によって、四年七ヶ月の歳月をかけて彫りあげられました。この壮大なスケールの観音様は、石像としては世界最大の大きさを誇っています。 壺阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路を拡張した線上の高取山に位置する。【藤原京の聖なるライン】の延長上にある壺阪寺・持統天皇の火葬が大宝3年、壺阪寺の創建が大宝3年。文武・持統天皇と壺阪寺の関係を考える必要がある。
弁基上人と万葉集
弁基上人(春日蔵老 (かすがのくらのおゆ)生没年未詳 法名:弁基)。
壺阪寺を作った弁基上人は、大宝元年(701)三月、朝廷の命により還俗させされ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓、老の名を賜わり、追大壱の位を受ける。この時の法名は弁紀とある。和銅七年(714)正月、従五位下に昇叙される。(『続日本紀』) 万葉集に八首。 |
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◎ 河の辺のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢(こせ)の春野は(万1-56) |
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大宝元年辛丑(かのとうし)秋九月、太上天皇、紀伊の国に幸(いでま)す時の歌で、川のほとりに連なり咲く椿の花よ、つらつら見ても飽きはしない。巨勢(こせ)の春野は。「巨勢(こせ)」は奈良県御所市古瀬あたり。吉野の手前で、紀伊国への通り路。 |
浄瑠璃「壺阪観音霊験記」
浄瑠璃「壺阪観音霊験記」は、今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。 そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。 「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壺阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。 疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。
不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。 しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼した。本堂横手には、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がある。 壺阪寺の八角円堂には二人が使ったという杖が飾ってあり、それに触れる夫婦はさらに仲が良くなる、といわれています。 |
お里澤市像 |
キトラ古墳
キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村にある古墳。東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれている。四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など6体の発見に留まっている。 同時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されている。このような共通性から、キトラ古墳は高句麗や新羅などの文化的影響を受けていたと考えられている。なお、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同様に塗り分けられていることを推測させる。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。直径約14mの二段築成の円形の古墳で、7世紀末〜8世紀初頭に造られたと考えられています。
キトラ古墳の石室内西面壁画(白虎、朱雀) |
天井には本格的な天文図があり、太陽、月、星座、赤道などが描かれていた。中国や朝鮮などに残っている最古の天文図は11世紀や12世紀のものであるから、現存する天文図のなかでは世界最古ではないかと注目されている。 発掘後、湿気のため石室内にカビが発生し、壁画の変質が進行していることが判明し、修復が行われている。 拡大はしません。 |
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2003年10月15日に発行の寄附金付切手 |
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News キトラ壁画 新施設で保管…16年度完成、展示へ |
右はキトラ古墳の地図 |
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高取城
高取城は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられていた。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。
本丸と二の丸の間には2基の櫓が建っていた。一つは「太鼓御櫓」は南側で2重2階、もう一つは「新御櫓」は北側で同じく2重2階、その間を土塀でつなぎ、また太鼓御櫓から「十五間多門」があった。「新御櫓」、「太鼓御櫓」、「十五間多門」とちょうど「L字」型をなしている。
二ノ門から本丸へ行く途中には国見櫓があった。櫓は失われているが石垣上から文字通り奈良盆地を一望する事が出来、天候が良ければ大阪市街・六甲山・比叡山までも見通すことが出来る。
日本の風景|名張・万葉の会 奈良県高市郡高取町(高取の道) |