名張・万葉の会|奈良県磯城郡田原本町 鏡作神社と唐古・鍵考古学ミュージアム他 |
奈良県磯城郡田原本町
今回は奈良県磯城郡田原本町を探る。 田原本町(たわらもとちょう)は、奈良県磯城郡の南端に位置する町(中和地区)。奈良盆地のほぼ中央、東に初瀬川、西に飛鳥川が流れる平坦地に位置する。古代の大和国城下郡鏡作郷・室原郷・黒田郷・賀美郷、十市郡飯富郷の地で、鏡作神社(八尾)・多神社など著名な延喜式内社が鎮座する。また弥生時代の代表的遺跡である唐古・鍵遺跡(国の史跡)を有する。賤ヶ岳の七本槍のひとり平野長泰が田原本に領地を拝領(のちの田原本藩)。
日本最初の歴史書「古事記」を編纂した太安万侶。その生誕の地は田原本町であることは、一般にあまり知られていない。
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田原本の古い家 平野家 |
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田原本町の一寸レトロな文房具屋さんとショーウインドウ |
★田原本藩(たわらもとはん)は、大和国十市郡田原本(現在の奈良県磯城郡田原本町田原本)の田原本陣屋に藩庁を置いた藩。ただし、正式に藩(大名の所領)であったのは明治維新期のごく短期間であり、江戸時代を通じては交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)平野家の知行地であった。平野氏は鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫という。平野氏の祖である長泰は豊臣秀吉に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げて「賤ヶ岳の七本槍」の一人となり、大和国内に5000石の知行を与えられた。 真田幸村の上司だった。
鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
■鏡作坐天照御魂神社は、田原本町八尾に鎮座する延喜式内大社で、「和名抄」鏡作郷(平安時代編纂)に鎮座する。祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命で、古来から鏡鋳造の神として信仰された。このうち石凝姥命は、天照大神の御魂の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、社伝ではその試鋳の鏡が鏡作神社のご神体であると伝える。
■中街道(なかかいどう)は、奈良市から橿原市を経て五條市に至る街道。古代では「下ツ道」(しもつみち)と呼ばれた古代官道のひとつであった。7世紀中頃に、大道・下ツ道として整備された。見瀬丸山古墳の前面を起点とし、藤原京の西四坊大路(現在の橿原市八木あたり)から、奈良盆地の中央をまっすぐ北へ進み、平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)に至る。
■和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。 承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
首切り地蔵と鍵・今里の蛇巻き
■八尾の薬師堂の入り口、中(なか)街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられています。むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに地蔵をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。 (郷土の歴史教室より)
首切り地蔵で有名なのは、柳生(やぎゅう)街道にある「首切り地蔵」ですが、これは宮本武蔵が宝蔵院試合のあと、柳生の里に但馬守を訪れる途中、石地蔵を一刀のもとに切り捨てたで、この名が付いたという話です。 (『奈良の旅』松本清張・樋口清之=光文社)
★安養寺の木造阿弥陀如来立像(重要文化財)は、鎌倉時代の名匠快慶の作。
案内板によると、材質はヒノキで、像高は81.4cm。快慶の壮年期の作品で、全体に成熟した感じにあふれ、ほほのふくらみは表情にふくよかさを漂わせているとのことだ。衣紋線(いもんせん)の特徴や粉溜(ふんだみ)技法など、随所に快慶の特徴がみられ、足ぼそに「安阿弥陀佛」の墨書銘があるという。安阿弥陀佛は快慶の別称である。昭和60年(1985)に重要文化財の指定を受けている
この今里の杵築神社と鍵の八坂神社で、蛇巻きの行事がおこなわれる。 蛇巻きは、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午の節句にちなんだ行事である。また、やがてくる田植え時に雨が降るようにという祈りを含んでいる。
今里の蛇巻きの説明 |
今里の蛇巻きの碑 |
今里の蛇巻き |
田原本地方では、蛇を「くつな」とか「ながもん」と呼び、古くから水神の化身と信じられていました。稲作にとっての水の神は穀物の豊作をもたらす神であり、田の神としても信仰されてきた。 |
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今里の蛇巻き |
下水の蓋・唐古・鍵遺跡 |
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今里は、古来より船着き場が有った所とされ、寺川沿いの運送拠点。今里の浜のすぐ横に、今里杵築神社がある。鍵遺跡まで、直線で2-300m程しかない。
★昇り龍下り龍伝説:むかしこの辺りに、龍がいて村人に悪さばかりして困らせていた。通りかかりのお坊さんが、龍が嫌うしょうぶの葉を軒先に吊るすように教えるとキツイ匂いと、尖った葉が剣に見えたらしく、とうとう天に昇って逃げていった… このことから、今里では頭を上に向けた形の祭り方をして「昇り龍」と呼ばれる。天に昇っていった龍は改心したらしく、隣の「鍵の村」では妖怪が村で暴れ村人を困らせていたのを天から降りてきた龍がやっつけてくれた…ということで、鍵では頭を下に向けた形の祭り方で「くだり龍」とよばれます。
唐古・鍵考古学ミュージアム
■唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、大和川と寺川に挟まれた標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する日本最大級の弥生時代の環濠集落遺跡。 紀元前3~4世紀から紀元後3世紀の終わりまで約600年以上も継続して存在したという。
弥生時代の環濠集落遺跡の唐古・鍵遺跡の環濠外部をイメージし、ムラ周辺の環境と生業活動、周辺地域との交流や戦い、死やカミへのいのりをテーマとしています。
唐古・鍵ムラの遠景が映し出されます。映像は、ゆっくりとムラの中に降りていき、環濠の内部へといざなわれます。 ムラの中をイメージした第2室では、土器・木器・青銅器・石器や機織りなど、弥生時代の手工業生産をテーマとしています。展示された製作途中の遺物からは、弥生時代の高い技術水準を知ることができます。大阪府西部・滋賀県南部・三重県から愛知県西部・岡山県南部など各地の搬入土器が出土。
各地の搬入土器が出土 |
銅鐸片・銅塊・銅滓・鋳型の外枠・送風管・被熱土器片 |
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木製農耕具 |
復元銅鐸 |
銅鐸 |
多数の鍬や鋤の農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢などの容器類の各種未製品の木製品が多数検出。南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡、北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土する所などがあり、各種工人の居住の場所と推定される。 |
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最盛期の唐古・鍵遺跡は単なる農村ではなかったと思われる。巨大な環濠に囲まれていたため、災害や争乱による被害を未然に防ぐことに成功して、安定した発展を遂げた。この遺跡では青銅器の生産が行われていたことが知られている。青銅器の生産には専門知識が必要となり、そのため、ある程度専門的な工人がいたと推測されている。
唐古・鍵遺跡は全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。
田原本の約1万年にわたる歴史を、考古資料を通じて概観します。
流水文の弥生土器 |
馬形埴輪 古墳時代 |
和鏡(洲浜双草双雀文鏡) |
唐子・鍵遺跡は、近畿の「弥生の首都」であり、幅5~10mの環濠が500x600mの範囲に巡らされていた。中国の都城は南面する門の左右に闕(けつ)と呼ばれる重層建築を建てていた。その都市計画の思想がすでに近畿に入っていた可能性が指摘されており、そうであれば、この楼閣は闕の片割れということになる。
唐古・鍵遺跡では、直径約60cmのケヤキ柱を持つ高床式建物跡(弥生時代中期初め)も、1999年に発見されている。なお、邪馬台国畿内説では、この遺跡は、中国の『漢書』地理志が伝える邪馬台国以前の「百余国」の有力候補の一つとされている。
田原本八坂神社と石見
■田原本町阪手北に鎮座する八坂神社の祭神は須佐男命(すさのおのみこと)。由緒は明らかではありませんが、江戸時代には牛王(頭)天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれていたのが明治になって現在の八坂神社に改められたと伝わります(田原本町観光協会)。ちなみに牛頭天王はスサノオノミコトの本地仏とする説があります。 牛頭天王の名残が見られるのは2月に斎行される華鎮(ケイチン)祭。明神講の各家に配られる「牛王さん」(牛王の印を押した紙を柳の小枝に挟んだもの)と、祭礼で奏上される華鎮(結鎮)祭文(寛政5年・1793年)がこれを偲ばせます。
★華鎮祭(けいちんさい)は、弓矢で悪霊をうちすくめ、無病息災と五穀豊穣を願う古典味豊かな祭礼。 華鎮は「はなしずめ」であり、天候が荒れることなく村民の安泰と豊年を祈る正月行事ですが、村のしきたりに寺僧が加わって伝えられてきた祭礼行事とみられるようです(境内の説明板による)。牛王さんの「牛の玉
西坊法印」の版が今でも阪手北明神講の各戸に配られる。
神主(村屋神社の権宮司)が祝詞と華鎮祭文を奏上した後、梅の枝を弓に見立て女竹の矢を射て悪霊を祓う所作を行います。その後、裃・袴を着用の「五人組」と呼ばれる講の当番が本物の弓矢で的打ちを行い、重ねて邪気を払う古風な行事が続きます。
弓の華鎮の説明文 |
田原本八坂神社の縁起 |
田原本町・阪手北 |
田原本八坂神社 |
万葉集 巻13 3230 |
田原本八坂神社 |
唐古南 |
石見駅 |
石見地区の説明 |
唐古南氏の居館があった所 |
石見駅(いわみえき)は、奈良県磯城郡三宅町石見 |
万葉集 巻13 3230 帛叨 楢従出而 水蓼 穂積至 鳥網張 坂手乎過 石走 甘南備山丹 朝宮 仕奉而 吉野部登 入座見者 古所念 作者不明
訓読 帛(きぬ)みだる 奈良より出でて 水(みず)蓼(たで)の 穂積(ほづみ)に至り 鳥網(となみ)張る 坂手を過ぎ 石走(いははし)る 神南備山に
朝宮に 仕(つか)へ奉(まつ)りて 吉野へと 入り坐(ま)す見れば 古(いにしへ)思ほゆ
意味: 奈良を出て、穂積(ほづみ)に至って、坂手(さかて)を過ぎて、神なび山の朝宮(あさみや)をお奉りし、吉野に入っていらっしゃるのを見ると、昔の事を思い起こします。 保津・阪手道は、西北西-東南東を向いた古代の道路で田原本町の富本から阪手にかけて、地割が良好に遺存。太子道と下ツ道を結ぶバイパスな役割が考えられますが、それぞれ交差点で終結せずに延長があり、西は広陵町を経て河合町の方面、東は今回の目的地である三輪山麓を結んでいたと考えられる。
名張・万葉の会|奈良県磯城郡田原本町 |