名張・万葉の会|三重・津 日本三大観音の津観音、大門、藤堂高虎の津城址、高山神社 他 |
三重県・津市
■津市(つし)は、古くは、安濃津として文献にも記される良港であり、平安京にとって重要な港だったことから単に「津」とも呼ばれていた。 しかし、1498年(明応7年)の明応地震(東海地震)に伴う津波のため港は崩壊した。 津藩藤堂氏の城下町で、江戸時代の外交文化使節「朝鮮通信使」をまねた「唐人おどり」として伝承され(現在、三重県の無形民俗文化財である)、 毎年秋に行われる津まつりの際には華々しく披露されている。 江戸時代には伊勢参りの宿場町として栄えた。
ページ内の索引 [ 三重県護国神社|四天王寺|観音寺と大門|お城公園(津城址)|高山神社|谷川士清(旧宅、反古塚・・)|津の街中風景 ] 西三重(西三重(津市・旧美杉村) 伊勢本街道)
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安濃川を塔世橋で渡って国道23号 観音寺方面を |
安濃川で遊ぶ水鳥達 |
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塔世橋(とうせいばし) |
塔世橋・ |
塔世橋南詰めの蔵 |
塔世橋・弾痕のある被爆の欄干 |
千客万来 注連縄 |
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■塔世橋(とうせいばし)は、三重県津市の安濃川に架かる国道23号(伊勢街道)の橋。 現在の橋は1992年に架け替えられたが、架け替え前の旧橋の高欄は戦災の傷跡を残す津市内では数少ない文化財であり、架け替えに際し一部が移設保存された。
■津空襲(つくうしゅう)は、アメリカ軍によって太平洋戦争中の1945年(昭和20年)に行われた三重県津市への無差別爆撃。被害は少なくとも死傷者2400人以上、全損家屋1万戸以上、罹災者1万6千人以上にのぼる。 昭和20年7月28日、最大規模の空襲があり、市街地のほとんどが焼失した。
観音寺(津観音)と大門(だいもん)
■観音寺(津観音)と大門(だいもん)。津観音(つかんのん)は三重県津市大門にある寺院。正式には「恵日山観音寺」。本尊は聖観音菩薩。 浅草観音、大須観音と並んで日本三大観音の一つとされる。付近は県を代表する古くからの繁華街、歓楽街を形成している。 かって津観音は、その境内に観音堂を中心として塔頭寺院7ヶ寺をかまえた本山でした。
その本坊とも言うべき大宝院(蓬莱山大宝院)は、以前は六大院と称し、後花園天皇以来、歴代天皇の勅願寺でした。 また、その第9世長尭上人は、尾張出身で豊臣秀吉の手習学問の師をつとめた人です。
■『勢陽雑記』(近世の地誌)等が伝える伝承によれば、創建は奈良時代の初め、和銅2年(709年、参考:710年 平城京に都を開く)に伊勢阿漕ヶ浦の漁夫の網に聖観音立像がかかり、これを本尊として開山したのが始まりであるという。しかし度重なる災害に遭ったためか、以後中世までの記録が一切残っていない。津観音に関する現存最古の明確な文献は、室町時代の永享2年(1430年)、将軍足利義教が朝命を奉じて観音寺の境内に三重塔及び恵音院を建立し、若干の地領を付けたことに関するものである。観音寺はもとは現在の津市柳山にあり、永享2年の時点で観音寺の境内には堂宇が立ち並んでいたのは確かである。
■文安元年(1444年)、後に観音寺の塔頭(境内にある子院)となる六大院(後の大宝院)が創建される。六大院は元々津市河芸郡窪田にあり、蓬莱山六大院と号した。東坊城家の猶子となった長円僧正の開基である。長円僧正は後花園天皇より勅願綸旨という天皇からの祈祷願いを記した命令文書を賜っており、朝廷からの信任の厚さがうかがえる。
■大門(だいもん)は三重県津市の歓楽街、繁華街。毎年10月上旬に行われる津まつりでは大門地区を中心に多くの露店が並び、2日間の祭り期間中の人出は30万人を超える。
フェニックス通りをはさんで隣接する東丸之内には、中勢地区以南唯一の百貨店である津松菱(大門を発祥の地とする)があり、大門からは徒歩圏内である。津観音の仁王門の門前町であったことから命名された。
江戸時代には津城下町の1町・大門町であった。伊勢神宮へ向かう参宮客で賑わい、宿場問屋に任命された千切屋進伴左衛門の本陣や津藩の要人をもてなす施設である御客屋が置かれ伝馬所役を勤めた本役が49軒あったという。
百五銀行のある所が本陣兼問屋、フェニックス通りに近い左手ニューマツザカヤは脇本陣だったという。フェニックス通りと呼ばれる大きな通りは、セントレアへの船の発着港に通じている。
お城公園(津城 別名・安濃津城)
■お城公園。津城 別名・安濃津城(あのつじょう)。 津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。
現在の城跡は「お城公園、お城西公園」として整備されている。また、その他の城址には津市役所や裁判所、津警察署などが建ち並んでいる。
津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)に、長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城。翌年には織田信包が入城した。
■土井聱牙(どいごうが)幕末・維新期の儒学者・書家。 伊勢津藩儒医土井篤敬の次男として生れる。 名は有恪、字は士恭、通称は幾之輔、聱牙と号し、別号は松径。 兄の没後12歳で家禄190石をつぐ。 藩儒川村竹坡・斎藤拙堂に学び、藩校有造館助教・講官となり、弘化2年「資治通鑑」校訂(有造館版資治通鑑)をおこなう。 明治2年、督学(校長)となる。 経学は清朝考証学を好み、歴史地理にも通じる。 一方、詩文・書画等、文人・趣味人として、また勝れた教育家として知られ、多くの著述を残している。聱牙は竹が大好きで、家のまわりにいろいろな種類の竹を植えた。 障子に映った竹を手本にして、墨でたくさんの竹の絵を描いている。 紀州高野山、僧大鵬の描いた墨竹巻物の研究にも熱心で、研究書も書き残している。 津藩では漢文を学び始めた子どもたちが早く漢文や漢詩を覚えることができるようにと「百人一首」と同じように百枚の漢文のカルタをつくり、ゲームのように楽しんで覚えられるようにした。 カルタは非常に盛んに行われ、いろいろな漢文のカルタが作られた。今も聱牙が作ったカルタの実物がのこっている。
★江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され津藩の藩庁となった。江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城であった。慶長16(1611)年になってようやく伊賀上野城と津城の修築に取り掛かることになり、まず伊賀上野城の大改修にかかり、高い石垣を持つ要害堅固な城を造り上げました。一方、津城は平時の居城として必要な規模と、伊勢街道第一の町としての体面と美観とを備えるための町づくりを進めました。北方の備えを万全にするため、本丸・外郭を中心に手を加えて城の規模拡大を図りました。そして慶長16年正月から開始された津城の改修は、わずか半年で外郭がほぼ完成したといわれています。
★入徳門は、入徳門文政3年(1820)、津藩主10代藩主藤堂高兌によって創設された藩校有造館の講堂正門として建てられました。明治4年(1871)に廃藩置県により廃校になり、その後、小学校第一校、師範学校、津中学校、三重女子校兼附属幼稚園、入徳幼稚園、県立図書館の正門を経て昭和46年に現在地である津城跡地に移されました。
★織田信長の妹・市を母とする浅井三姉妹も、完成に伴い伊勢上野城からここ安濃津城に移り、お市が再婚するまでの2年間を過ごしました。
高山神社
■高山神社(こうざんじんじゃ)は三重県津市の、津城址にある神社。 同市の市役所近くにあり、藤堂高虎を祀る。 同社は津市の商工業の守護神、市民の氏神として現在も信仰を集めている。
1945年(昭和20年)の空襲で高山神社の本社殿は全焼。その後復興したが、1969年(同44年)には公園整備のため、本丸跡から南西方向の内堀埋立地の現在位置に移された。
高山神社の鳥居 |
高山神社の縁起 |
高山神社の拝殿 遠景 |
錆びた鉄製ですが中は |
高山神社の拝殿 |
高山神社境内の石蕗 |
高山神社の宝物紹介 |
■藤堂高虎は法号が寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都で「高山公」と通称されるが、神社名もそれに由来する。 |
近くの津市役所と |
高山神社は、1876年(明治9年)の創始で、当初は安濃郡下部田村広明(現津市)の八幡神社境内に神詞があった。1903年(明治36年)に津城址の本丸跡に遷宮し、鎮座式大祝祭典も執行された(『津市史』第5巻)。
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