名張・万葉の会|奈良県御所市 葛城の道(一言寺道) |
葛城の道(一言寺道)
■金剛・葛城山麓を南北に走る山裾の道で、街道として最も古いと言われる竹ノ内街道から、北葛城郡新庄町大字寺口・笛吹を経由して、御所市大字小林・櫛羅・楢原・森脇・名柄・極楽寺・朝妻・高天・伏見・鴨神に至る古道で、この道に沿って数多くの名神大社や由緒ある寺院が存在し、更に歴史の彼方へと消え去ってしまった。 高間千坊や戒那千坊と伝えられる、おびただしい数の古代寺院が存在していた。 また、この道は、鴨族、葛城族などの古代豪族が、当時の主要道として往来していた道でもあります。 今回は南端の風の森から高鴨神社、高天、極楽寺までと御所市内です。
神話の時代から大和朝廷へとつながる時代に大きな影響力を及ぼした葛城氏にまつわる遺跡や寺社が点在しており、神話のふるさととも呼ばれています。
■御所市(ごせし)は、奈良盆地の西南端に位置し、西には大和葛城山、金剛山が聳え立つ。南は風の森峠を越えれば、五條市となります。 御所市は役小角(えんのおづぬ)(修験道の開祖)のゆかりの地。 2011年7月7日 雨模様。
大和葛城山 |
オークワ御所 |
雨に煙る 金剛山 |
高鴨神社と葛城の道歴史文化館
■御所市内に「かも」と名のつく地名は多く、北は鴨都波神社のある旧御所町から南は鴨神の集落までの広い範囲に分布しています。
この鴨神の集落にある高鴨神社は、京都の上賀茂神社、下鴨神社の本家にあたる由緒正しい神社です。 本殿は三間社流造りで、国の重要文化財に指定されています。 祭神は天孫降臨神話の国譲りに登場する神で、大己貴命(大国主命)の子で迦毛大御神とも称され、「葛木の鴨の神奈備」に座し、皇孫の守護をした神です。 また、ここは日本サクラ草の名所で、その種類の多さには定評があります。 高鴨神社(たかかもじんじゃ)は、奈良県御所市の金剛山東山麓にある神社。 式内社(名神大社)。社格は県社。 京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。 『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、
最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の
御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。
阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神(かものおおみかみ:「大御神」と名のつく神様は天照大御神、伊邪那岐大御神と三神しかおられません。))を主祭神とし、下照比売命・天稚彦命を配祀する。
■葛城の道歴史文化館:大和朝廷が成立する以前の神話と古代王朝の足跡を辿る道。日本人の心の琴線にふれるやさしい山容と田んぼのある風景をそこここに見ることのできる道。 そういった葛城の道のすばらしさを、より多くの人に知ってもらうのと同時に、実際にこの道を歩くときの手引きとなることを目的として葛城の道歴史文化館は開館されました。 また、この館は、葛城の道の優れた歴史や自然の財産を、地域の人たちとともに守っていくための拠点としても機能しています。
祭事の藁で作った蛇 |
豊臣秀吉時代の鉄の燈篭 |
油滴天目 |
かんざし 各種 |
大和平野の東を走る「山の辺の道」に相対するように、西の葛城連山の麓には「葛城古道」が走っています。道沿いには古代豪族の 葛城(かつらぎ)氏・鴨(かも)氏ゆかりの古社が散在し、神さびた雰囲気が漂います。
高天・高天彦神社
■極楽寺の南にある北窪の集落から金剛山の山頂に向かう急な坂道を辿っていくと、広々とした台地に出ます。ここが日本神話の舞台になった高天ヶ原の実在の地と伝えられている場所です。 高天ヶ原は古事記が伝えるところによると、神代に皇祖神天照大御神が統治していたところで、ここから瓊々杵尊(ににぎのみこと、地神五代の三代目/日向三代の初代)が日向の高千穂の峰に降臨したとされています。 この伝承の地にある高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は、うっそうと茂った杉の大木が両側に並んだ参道の奥まった、厳かな雰囲気の中に社殿をひっそりと構えています。 葛城王朝を築いた葛城一族の祖神を祭するこの神社は、今も伝説の地にふさわしい神さびた風情を周囲に漂わせています。
古代豪族、葛城氏の最高神で、記・紀神話の中で、出雲へ国譲りのための使者を命令した高皇産霊神を祀っています。 ほかに市杵島姫命(福岡県宗像郡宗像神社三宮に祀られています女神の一人)・菅原道真を祀っています。神社の形体は古く、桜井市の大三輪神社と同様にご神体は山(神社背後の白雲峰)であるので、本殿はありません。
■金剛山中腹の高台に、宝宥山高天寺橋本院があります。 金剛山中腹の、広々とした空間の台地にある寺院を訪れると、時が止まったような感じを覚えます。静寂に包まれた境内の椿としだれ桜は、寺院のたたずまいに溶け込み、心にしみる風情があります。 寺縁起によれば、高天寺は南北朝時代に焼き討ちされたため、以前あった場所から本尊の十一面観世音菩薩立像などを移したとされています。そのときに、すぐ傍の池に橋があったことから、現在の橋本院という名になりました。 ご本尊の十一面観世音菩薩立像は、木造で、高さが5.4mと大きく、「生かせいのちの本像」として近在の人びとの信仰を集めています。
高天寺橋本院は、養老2年(718年)高天山登拝の為この地を訪れた行基菩薩が霊地であることを感じ一精舎を建て一心に冥応し祈った。 或る日の事、念想中に容体より光を放ち香気漂う十一面観音菩薩のお姿が現われこの霊応に深く感じさらに修業を続け、困難と苦悩に屈することなく祈念し続けた。人々は、この姿に高天上人と呼び尊敬した。 元正天皇(715から724年)はこの功徳を仰いで、又高天の霊地たるを知り、寺地として与え、十一面観音菩薩を刻むことを許された(開基)。
■『くちてだに 梅も高天の 花の色に 八雲を声に のこす鶯』
こちらは三条公永が天文22年(1533)高天寺に詣でたときに詠まれた歌です。
他にも高天の里が詠まれた歌には次のようなものが有名です。
『葛城や 高間の山の 桜花雲井の よそにみてや すぎなむ』 (千載和歌集)
『葛城の 高天の桜 先にけり 立田の奥に かかる白雲』 (新古今和歌集)
『よそにのみ 見てややみなむ 葛城や 高間の山の 岑の白雪』 (新古今和歌集)
『葛城や 高間の山の 花盛り 雲のよそなる 雲を見るかな』 (続古今集)
極楽寺
■集落の名前にもなっている浄土宗知恩院派の極楽寺は、天暦5年(951)に興福寺で名僧の誉れ高かった一和(いちわ)僧が開いた寺と伝えられています。そして、鎌倉後期の林阿上人によって中興されましたが、慶長19年(1614)に建物と古文書を焼失しました。
極楽寺伝によると今から約700年前、佐田村に隠れ住んでいた北面の武士の十河図書行光という人が金剛山に分けて入って狩をしましたが、その日は一つも獲物が獲れませんでした。 夕方になってようやく一頭の鹿を見つけ、矢を放とうとしたところ鹿を見失ってしまいました。 そこに行者が現れ、生命の大切さ、仏の教えの尊さを教え、如来の姿を描いた一巻の巻物を与えて姿を消しました。
驚いた行光が目を上げると、はるか西方の雲の上に行者の姿がありました。 行光は感激し、拝むと鉦(拝むときにたたく金)が落ちていました。 この不思議な出来事に感激した行光は頭をそって出家し、授かった巻物を自宅に祀りました。この仏様の画像を天得如来といいます。それから20年後、夢のお告げを受けた行光は天得如来を極楽寺に祀りました。
御所市内(ごせしない)
■「古事記」や「日本書紀」によると、葛城氏と巨勢氏はともに御所市域を本拠とした大和朝廷の時代の豪族で、天皇家の外戚・大臣として権勢を誇っていました。
4、5世紀を中心に活躍した葛城氏の中でも、葛城襲津彦(そつひこ)の功績がもっとも多く伝えられています。襲津彦は仁徳天皇の皇后となった磐之媛(いわのひめ)の父にあたる人物で、朝鮮半島の戦で数々の武勲をあげました。そのときにその国人を連れて帰り、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の4邑に住まわせて、当時の最新技術を取り入れた鉄製品などをつくらせたと伝えられています。
葛城氏と巨勢氏は時代の潮流をいち早くとらえ、権勢を誇った巨大豪族でした。御所市域にはこのほかにも、数多くの遺跡が残されており、当時を偲ぶことができます。
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