伊賀の風景・歴史|西三重(名張市) 倭姫命と神社仏閣と忍者 |
倭姫命と名張
大和国の宇陀から伊賀国・隠(なばり)(名張)の(九)市守宮(いちもりのみや)に遷られた倭姫命(「宇陀郡(曽爾、御杖)」で詳細記述)は、此の地で二年の間、天照大神を斎(いつ)き奉られた。市守宮の比定地は五ヵ所とした。 五ヶ所とは、蛭子神社、美波多神社、名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知、「なゐ」とは地震の古語)、宇流冨(ふるふ)志禰(しね)神社(三重県名張市平尾)、三輪神社(稲荷神社に合祀。名張市瀬古口丁ノ坪)。 崇神天皇六十六年己丑(つちのとうし)、「同じ國の穴穂宮に遷り給ひ、四年を積(へ)て斎き奉る」と『倭姫命世記』は記す。 名張は万葉の昔から宿駅とし開け、壬申の乱に際して大海人皇子が東国へ逃れる際にも当地を経由した。墾田永年私財法の施行以降、東大寺の荘園とし人口の増加が始まり、集落が出来・発達しはじめた。 今でも東大寺二月堂へ達陀で使う松明を収めてます(松明講からの寄進は800年ほど前から続く)。
大化の詔によると、この名張を流れる川(横河:名張川と宇陀川の合流地点か)が畿内と畿外を分ける川であると定められています。 『大化2年(646年) およそ畿内(うちつくに)は、東は名墾(なばり)横河まで、・・』 夏見がそのちょうど境目に位置することも、なにか意味のあることなのかと思ったりもしました。
また、この名張の地は、伊勢神宮あるいは斎宮との関連が深く、大来皇女の次に斎王となる当耆皇女(=託基 たきのひめみこ=父・天武 母・宍人臣カジ媛娘)も夏見郷に墾田を持っていたことが伝えられています。また、奈良時代に入りますが、やはり斎王となる酒人内親王が名張郷に栗林持っていたとされています。斎王になる皇女達の御料地としての存在も考えさせられます。また、名張の夏見に含まれる地には、伊勢神宮領(多良牟六箇山=たらむむこやま)が広大な面積を持って存在していたことが知られています。 また、名張の夏見には、地方豪族として夏身氏と言う者がいました。彼等は、夏見廃寺から北西に僅かの距離にある鴻之巣遺跡(現在の名張市鴻之台)と後に呼ばれる建物群に居住していたことが分かっています。
[名張の紹介] 特別編 「 天正伊賀の乱(織田信長と伊賀忍者) 」
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宇流冨志禰神社(うるふしねじんじゃ)
■宇流冨志禰神社 : 鎮座地 三重県名張市平尾三三一九番地
祭神 : 宇奈根命(うなねのみこと) 天照大神(あまてらすおおかみ) 武甕槌神(たけみかずちのかみ) 経津主神(ふつぬしのかみ) 天児屋根神(あめのこやねのかみ) 姫大神(ひめおおかみ)
宇流冨志禰神社は延喜式内国史現在社にて主祭神宇奈根命は神武建国の始め一国の瑞穂と氏神の安泰を祈願する為に祭祀される、天正伊賀の乱にて沿革誌等兵火に遭い消失するも古文書によれば貞観十五年八七三年宇奈根神從五位とあり後神位階昇進し永徳元年從一位に昇進(神園大暦に見ゆ)天武天皇三年圭田四十二束四ヶ所を以て祭祀するとあり文徳天皇仁寿元年官幣をうけ国司より幣帛を賜るとある鎌倉幕府開府により廃止となるまで歴代崇敬篤くその後松倉豊後守勝重公及び藤堂高吉公伊賀国に移封領主とし尊敬篤く神威高昴社勢整い明治十四年県社の社格を受け明治四十年附近村落の十四社を合祀し郷土の鎮守神として親しまれ信仰されて現在に至る。 境内社として輿玉松尾神社、稲荷神社、愛宕神社、八坂神社、三輪神社、八幡宮、市杵島姫神社、山ノ神、白玉明神、護国神社を併祀する。
青蓮寺 國津神社(くにつじんじゃ)
名居(ない)神社
■名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知)
式内社 伊賀國名張郡 名居神社 名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知)は式内社で、かつては「大己貴社」と称された。 江戸時代には國津大明神を祀り、比奈知川に点在する國津神社の惣社であったという。 大己貴命(おおなむち、大国主)を主祭神に少彦名命、天児屋根命、市杵嶋姫命、事代主命、蛭子命を祀る。 社頭に到るまで細長い参道が続く。
社碑には、推古七年に大和地方が中心の大地震があり諸国に地震の神が祭られたが、伊賀では当社がそれであろう、と記してる。 「なゐ」とは地震の古語である。 『日本書紀』推古天皇七年・四月二十七日(ユリウス暦599年5月26日、グレゴリオ暦5月28日)の条に「地(なゐ)動(ふ)りて、舎屋(やかす)悉(ことごと)に破(こぼ)れぬ。則(すなは)ち四方(よも)に令(おほ)せて地震神(なゐのかみ)を祭らしむ」とある。 式内社で、このとき祀られた地震神の「なゐ」の名称が残る全国で唯一の神社とも謂う。
祭神に天照大神の神名は無いが、倭姫命が足を洗ったという濁池、国津神の大神への御田の献上、大神に鮎を献じたという河川の石碑、神宮領のこの地から神戸の産物供進など、附近には元伊勢に繋がる伝承が散在する。
名居神社の拝殿 |
名居神社の本殿 |
名居神社の拝所 |
名居神社の境内と鳥居 |
名居神社の縁起・由緒碑 |
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※武甕槌命(タケミカヅチ(タケミカヅチオ))は、日本神話に登場する神。『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある。別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。神産みにおいてイザナギがカグツチの首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱。雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。また、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのはフツヌシであると記されている。フツヌシは香取神宮で祀られている神。
地蔵院青蓮寺(じぞういんしょうれんじ)
■名張市青蓮寺の地蔵院青蓮寺(真言宗醍醐派の寺院。正式名は、「多宝山地蔵院青蓮寺(たほうざんじぞういんしょうれんじ)」) 自宅のすぐ近くです。所在地は、〒518-0443三重県名張市青蓮寺327。 伊賀四国八十八ヶ所第四十八番霊場ならびに三重四国八十八ヶ所番外の寺。
十七世一弘大僧正(前住職)を輩出した古寺でもある。 同寺院の歴史は、今から約1200年前、真言宗の開祖である弘法大師空海が近隣の室生寺から現在の青蓮寺地区入り教えを広め、その後、地域住民が力を合わせて寺を作り上げたのが起源とされる。 その後、室町時代に青木信定によって、青蓮寺城(伊賀青蓮寺城)が築かれたため、寺院は広大な敷地を持つ。 弘法大師空海が青蓮寺で「青い蓮が咲き開く風景を見た」という言い伝えから、8月には寺院内に120以上の様々な蓮の花が咲き乱れる。中には、貴重な1951年に千葉県で発見された弥生時代の蓮である、「大賀ハス」もあり、多くの観光客が訪れる。
地蔵院青蓮寺 |
地蔵院青蓮寺・山門の |
地蔵院青蓮寺の鐘楼 |
■自宅近所の名張市青蓮寺の地蔵院青蓮寺の蓮の花(2009年8月6日撮影) |
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黄瀧山延寿院(えんじゅいん)
■名張・赤目の黄瀧山延寿院は、今を去ること1300年の昔(西暦7世紀末頃)、後の修験道の祖・神変大菩薩として祀られた「役小角」(えんのおづぬ)が開かれたとの「行者伝説」がある。その後平安期、保安3年2月5日(1122)乗智上人延増によって堂宇草創建立されたと文献にある。(東大寺文書) 津藩藤堂家の祈願所で存続された。「四十八」の数に阿弥陀仏の本願「弥陀の四十八願」を掛け、明王が赤い目の牛に乗って出現した古事により『赤目』と呼ばれる。御目の赤は不動の『慈悲の心』を表わし、『延増上人』の「延」をいただき、「黄瀧山聖玉龍寺延寿院」と号す。
赤目の延寿院のシダレザクラ |
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■赤目の延寿院のシダレザクラ |
積田神社(つむたじんじゃ)
■積田神社(つむたじんじゃ)は、南都春日大社奥宮や別名を積田の宮とも言われ、今から約1240年前の四十八代称徳天皇(女帝・孝謙天皇)の御宇神護景雲元年(767)丁未六月二十一日鹿島大神(武甕槌命)が常陸国鹿島より(現茨城県鹿島神宮)大和国春日大社(奈良)へ御遷幸の途次留在された霊蹟にして、古書に伊賀の国名張郡夏美郷御成の宮、或いは宇成神社とあるのは即ち是である。爾来、この神社が南都春日大社奥宮(入口に石碑があり)といわれてる所以である。 前には青蓮寺川、裏には名張川が流れ、直ぐに合流してます。 目前の夏見橋は、曽爾街道の起点。 この辺りは壬申の乱の時も大海人皇子の通過点だったと思われる。
美波多神社(みはたじんじゃ)
■美波多神社は元々三柱神社といい、承応年間(1652年〜1654年)にこの地を開拓した時に新田地区の氏神として勧請したものでした。それが明治の合祀令に伴って近在の多数の神社を集合し、美旗を代表する神社として現在の形となりました。 ご覧の通り、沢山の神様がおいでになります。 女性の宮司さんだからか境内は綺麗になってました。 三重県名張市新田字女良塚に鎮座。 初瀬街道の近くです。この美波多神社の本殿向かって右脇に雨乞石があります。拝殿の右端から回りこんで見ることができます。 女性の神主さんで綺麗に掃き清められていました。
美波多神社の鳥居と |
美波多神社の謂れ |
美波多神社の拝殿 |
滝之原 國津神社
■社伝によれば、延暦年間(七八二-八〇五)に桓武天皇が六六社の国津明神を勧請され、伊賀国の豊穣を祈願された折り祀られたとされている。また、主祭神の大己貴命は、大和三輪明神の分霊とも伝えている。しかし、当社鎮座地は伊勢神宮の神領であった六箇山一帯にあり、いつしか大己貴神を祀る国津神社として名居神社より各村に分祀された一社であろう。
■六箇山とは名張川上流の伊勢神宮領のこと。 東限高回河、其河後伊賀郡阿保村主(伊賀市青山),南限大和国水界(奈良県曽爾村、神末),西限粟河在夏見郷夏見村主(名張市夏見),北限大地頭在(名張市小波田)。
滝之原国津神社 御祭神 |
滝之原国津神社 参道 |
滝之原国津神社拝殿 |
滝之原国津神社本殿 |
滝之原国津神社 境内の大きな岩と銘 |
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■天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類。天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、国津神は地(葦原中国)に現れた神々の総称とされている。日本神話において、国津神がニニギを筆頭とする天津神に対して国土(葦原中国)の移譲を受け入れたことを国譲りとして描かれている。これはヤマト王権によって平定された地域の人々(蝦夷、隼人など)が信仰していた神が国津神になったものと考えられる。高天原から天降ったスサノオや、その子孫である大国主などは国津神とされている。
神社入口の庚申塚 |
近くの伊賀牛 牧場 |
近くすずらん台 ダム |
■庚申(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
西暦と皇紀では、60の倍数の年が庚申の年となる。 庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。 庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。
滝之原 不動寺(龍像山 法福寺)
■名張の昔話 尼御前の墓(滝之原):滝之原の東南の山の中ほどに「女王堂」という地名があって「尼御前」をまつったと伝えられている古い五輪塔があるんや。 今から八百年ほど昔の源平時代に、このあたりの土地を所有していた「池禅尼」という女の人がいてな、その人の別の呼び名が尼御前やったんやわ。 平家が衰退した後、各地の平家領は没収されたんやけど、池禅尼とその子供の頼盛の領地だけはそのまま残されたんやて。
それは、頼朝が池禅尼に命を助けられたことがあって恩義にむくいるためだったそうや。 池禅尼の領地は、滝之原を含む「伊賀六箇山」で、古老たちは「アマコウゼン山」と呼び、池禅尼の持っていた山だと言ってますんやわ。 滝之原は、昔から平家の落ち武者が住んでいる村と伝えられていましてな。 「おまと」といわれる古式にのっとった「弓引行事」は、平家の落ち武者が始めたと伝えられています。 毎年一月九日に、上出地区の八人衆と呼ばれている八軒の家だけが代々行ってきたそうで、たしかにその行事の内容は武人の要素があります。 八軒とも平家の家臣で、源氏に追われて逃げて来た所が池禅尼の土地の滝之原。 池禅尼の石塔を建てたのもこの八家だそうです。 今は「若子祭」となった弓引行事。こんな歴史を秘めていますんやなあ。
話・山森雄蔵さん(明治三十六年生まれ) 名張の昔話
不動寺 |
不動寺(龍像山 法福寺) |
山に分け入ると |
■池禅尼(いけのぜんに、長治元年(1104年)? - 長寛2年(1164年)?)は、平安時代末期の女性。平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。夫が死去すると出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。
一宮神社(イッキュウジンジャ)
■境内には、平尾山南東斜面中腹にある一宮神社の鳥居の右側にある石がある。『寛文(1661 - 1672)年中一ノ宮村敢国神社分霊を延喜六年(906)に一社を設け一宮と称しこの場所に奉祀す。しかし天正九年(1581)伊賀の乱に遭遇するも、明治二十二年(1889)十月再び氏子崇敬者一同の篤志により再建せらる。』※ 伊賀神社参拝案内図より
■敢國神社は、斉明天皇4年(658年)の創建になるとする。これによると祭神の大彦命は四道将軍として北陸地方を平定し、その子孫は伊賀国阿拝郡一帯に居住して阿閇氏(敢氏/阿閉氏)を称し、大彦命を祖神として祀ったという。また、それとは別に少彦名命を祀る秦氏一族があり、これら2柱をもって創建されたとする。
■秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族(数千人から1万人規模)が当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、秦の始皇帝三世直系の弓月君は秦氏の中心的人物であり、和邇吉師(王仁)によって論語と千字文が伝わったという。(『古事記』)
昔、この一宮神社の近くには阿閇(あへ、あべ)寺があったそうだ。 敢國神社との関連を裏付ける。
月照山・蓮光院・宝蔵寺
■月照山・蓮光院・宝蔵寺 本尊:無量寿仏、宗派:高野山真言宗
寺伝によれば、奈良興福寺文書に興福寺末と記載あり、奈良時代は法相宗であったという。また伊賀記に天武天皇(在位673〜86)勅願寺にして…の記あり、さらに寺伝として聖武天皇(在位724〜49)の時、勅願により僧行基をして法蔵阿弥陀仏を刻ましめこれを安置す(明治十七年地誌上申書による)と伝えられる。 慶長十八年(1613)奈良県の御杖神社の棟札に「宝蔵寺大阿闍梨行盛」の銘があり、当時この地方まで寺威を広げた由緒ある大寺であったことがわかる。 名賀郡史によれば今の名張小学校及び名張藤堂男爵邸一帯の地域で、 学校付近より古い五輪塔が出土したのは、その証しではないかと記している。
宝蔵寺 山門 |
子安地蔵堂 |
袈裟斬り地蔵 |
袈裟斬り地蔵 由来 |
袈裟斬り地蔵尊所縁の刀 |
宝蔵寺 本堂 |
宝蔵寺 境内 |
五輪塔と池 |
古い五輪塔 |
★「藤沢樟脳」の製造販売を始めた「藤沢商店」(のちの藤沢薬品・2005年に山之内製薬と合併してアステラス製薬)の創始者・藤沢友吉が植えた楠が境内にあります。
徳蓮院
■徳蓮院 (三重県名張市) 名張藤堂氏の菩提寺 今から約700年前、名張の豪族堀江氏の菩提寺として建立。龍亀山「大連寺」と称し真言宗の寺であった。今から約350年前、戦国武将の藤堂高吉が伊予の今治より名張に移った時、この寺を龍雄山「徳蓮院」と改め曹洞宗へ改宗された。江戸時代、名張の礎を築いた名張藤堂氏の菩提寺が徳蓮院である。 名張藤堂氏の祖・藤堂高吉は、津藩主藤堂高虎の養子で、高虎の後継者であったが、高虎に実子が生れると、後継者としていた高吉を疎んじ、実子の高次を後継者とした。 2代目津藩主となった高次は、1636年高吉を名張へ左遷して遠ざけたが、高吉は名張の振興に努め、名張では名君として慕われた。 その高吉が赴任した1636年、従来あった大蓮寺を徳蓮院とし、名張藤堂氏の菩提寺にしている。
大正年間には「今はわずかに寺形を存するのみ」と名賀郡史に記されている通り、山門、庫裏を残すのみとなった。 宗派:曹洞宗、開基:藤堂高吉、開創:1636年、本尊:聖観世音菩薩 寺宝として普賢菩薩像、大権修利菩薩像、涅槃図などを有し、境内に白山社(白山祠)がある。
11代の高節の時に明治維新となり、子孫は現在も東京に在住する。歴代の墓所は、名張の徳蓮院にある。
※伊賀市は、2004年(平成16年)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町、阿山町、大山田村、島ヶ原村、名賀郡青山町の6市町村が合併(新設合併)して誕生した市です。 |
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伊賀の風景・歴史|西三重(名張市) 倭姫命と神社仏閣と忍者 |