名張・万葉の会|奈良県桜井市 万葉集発耀の地・泊瀬の道(長谷寺〜朝倉)、海柘榴市 |
泊瀬の道とは
泊瀬(はつせ)の道とは近鉄長谷寺−初瀬(門前町)−出雲(十二柱神社)−白山神社(万葉集発祥の碑)−脇本・黒崎の里−近鉄朝倉駅の約7Kmの街道を示します。 この辺りは、大阪湾に流れ込む大和川から泊瀬川を遡る水運の「泊(は)つる瀬」ということで、「泊瀬」と書き、また東西に長い峡谷状の地形であることから「長谷(はつせ)」とも書く。 「隠口(こもりく)の」の枕詞もこの地形による。大和から伊賀、伊勢に行くいわゆる伊勢街道に沿った地である。
2011年4月7日・晴天。 この地域のキーポイントは海柘榴市(「つばきち」または「つばいち」)。『日本書紀』に海柘榴市が登場するのは、5世紀末から7世紀初頭にかけてである。 現在の山の辺の道の起点は、海石榴市(つばいち、椿市:つばきのいち)です。
古代には、海石榴市の八十(ヤソ)の衢(ちまた)と称されたところで、桜井市粟殿(おおどの)を中心とした地域であった。 平安時代中期の926年(延長4)には椿市観音堂付近がその起点の地になった。
索引 [ 近鉄長谷寺駅と桜井東中学校|出雲(十二柱神社)|出雲人形|白山神社(黒崎)|春日神社(脇本地区)|慈恩寺 阿弥陀堂と玉列神社|万葉歌碑と磯城島公園(慈恩寺)|椿山と近鉄朝倉駅 ]
近鉄長谷寺駅と桜井東中学校
■長谷寺の駅に到着しますと桜は6〜8分咲き。 今回は長谷寺ではないので、そのまま泊瀬の道に国道165号線に向けてのどかな道を進む。 途中で桜井東中学で万葉歌碑を。
近鉄長谷寺の駅前 |
近鉄長谷寺駅から長谷寺方面を桜の木も歓迎している |
国道165号線に向かう途中の初瀬の街並み風景 |
桜井東中学の桜と初瀬川 |
桜井東中学校庭 |
初瀬川と近鉄長谷寺方面 |
★桜井東中学の万葉歌碑 ◆石走 多藝千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛来而将見
石走り たぎち流るる 泊瀬川 絶ゆることなく またも来て見む 万葉集 巻6−991紀朝臣鹿人
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出雲(十二柱神社)
■十二柱神社(出雲)は、武烈天皇泊瀬列城宮伝承地とされています。 出雲集落のほぼ中央、旧初瀬街道沿いにある旧指定村社です。 旧初瀬街道に南面して天保2年(1831)の大石燈が立っています。 境内の石燈籠は12基あり、もっとも古いのに「奉造立十二柱権現社 寛文元年 八月吉日」の銘があります(四角方柱)。 祭神は国常立命(くにのとこたちのみこと)など天神七代、国神五代の十二座。 出雲の地名は垂仁天皇のときに出雲(島根県)から工人を連れてきて埴輪を作らせたことに由来し、出雲人形の発祥の地でもあります。
鳥居脇の狛犬は必見です。 2匹の狛犬をそれぞれ4人の力士が支えていて、8人の力士はすべて異なる相撲の型をとっています。
★【武烈天皇泊瀬列城宮伝承地】
壇場を柏瀬列城に設けたとあり、初瀬谷の中央、出雲の地あたりと考えられている。
泊瀬列城宮は、第25代武烈天皇が営んだ宮です。宮のあったとされる初瀬谷は、大和の国から伊勢・東海方面へ通じる古代の主要道となっていました。 谷の入口には、雄略天皇の泊瀬朝倉宮もあったとされ、ヤマト王権の重要な拠点の一つであったと考えられています。
大昔は、神殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代 の出雲集落地)の磐座を拝んだ。 明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。 一日中、相撲したり、食べたりした。(出雲ムラ伝説)
★武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年(489年) - 武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))は、古墳時代の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年(498年)12月 - 武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(−のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人物かどうかについては議論がある。父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)らがいる。都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや、奈良県桜井市出雲か)。『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。
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出雲人形(水野さんのお宅で)
■出雲集落の「出雲人形」は、垂仁天皇のころ野見宿禰(野見宿禰は埴輪作りの祖ともいわれる)が出雲(現在の島根県)の国から工人を連れ埴輪を作らせたことが始まりと言われています。
大和出雲人形 の特徴・用途は、やわらかい粘土を型に詰め、取り出した土の人形を接合し、成形する。 1週間程、陰干し乾燥し、もみ殻で焼き上げ、胡粉に膠を混ぜて下塗りする。 乾燥後、泥絵具で彩色して作られています。 水野さんしか今は出雲人形を作る方は居ないそうです。
出雲人形を唯一作る水野さんのお宅 お世話になりました |
出雲人形を成形し |
出雲人形を成形し |
出雲人形 下塗り後 |
出雲人形 |
出雲人形の型 |
垂仁天皇から「殉死」の風習を改めるように相談を受けた野見宿彌は、故郷の出雲から土部(はじべ)100人を招き、人や馬など様々な物の形の土偶を作って、陵墓に埋めるようにした。これが後の埴輪である。宿彌は土部臣(はじのおみ)となり、天皇の喪葬を司どることになった。その後、桜井市出雲には土偶を造り、販売する家が沢山出来たということである。
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白山神社(黒崎)
■出雲流れ地蔵から桜井市黒埼の白山神社へ。 白山神社の祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)こと白山比当ス(しらやまひめのみこと)と菅原道真公。『日本書紀』によれば媛神は、伊弉諾尊が黄泉から脱出する際、尊に“ある言葉”をささやいたという白山に鎮座する謎の神だ。 当社北東の小高い地点には「天の森」がある。ここは『大和志』や『日本書紀通証』などの注釈書で、雄略天皇の泊瀬朝倉宮と推定された。 だが宮を営む平坦地は少ない。今は木製の標が立つのみだ。 「萬葉集發燿讃仰碑/保田與重郎拝書」
人言を 繁み言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る 万葉集 巻2−116
★『帝王編年記』や『和州旧跡考』が白山神社を雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地の候補としたのは、川向こう上岩坂の「十二神社」。
★大和志』の一節に「黒崎は街道にして名産の饅頭を売家多し。長谷寺より半里ばかり此方に黒崎村といへるありて此里の名物とて饅頭を二ツあはせこれを女夫饅頭とし商ふ家多し。 黒崎といへども白きはだとはだ。合せて味ひ夫人まんじゅう。」天誅組の伴林光平が記した『南山踏雲録』にも黒崎の饅頭のことが書かれている。 黒崎地区は夫婦饅頭と庄八郎の漢方薬で有名な場所であった。
★籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね・・・
万葉集 巻1−1 雄略天皇
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春日神社(脇本地区)
■内外に示した強大な力が『古事記』『日本書紀』に語られる雄略天皇は、「泊瀬の朝倉」で即位し宮を定めたとある。文献からは桜井市黒崎または岩坂が宮の候補地とされてきた。ここに浮上したのが脇本地区だ。 小学校では今日が入学式で、運動場では元気な女の子がウンテイに興じていた。
★脇本では発掘調査の結果、縄文晩期〜飛鳥・奈良時代にいたる複合遺跡が明らかになった。 5世紀後半の建物跡などはまさに「朝倉宮」を想起させる。 東国への入口にあった倭王武・雄略天皇の宮跡には今、田畑が広がるばかり。
★脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し、三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた、泊瀬谷の入り口にあたる場所にあります。春日神社のあたりはその中枢部があり東西約300m、南北約250mの範囲に遺構が散在していた可能性が指摘されています。 飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一帯は、大王(天皇)や皇后の宮が13もあったと伝えられ、大和王権の中心地域でした。
5世紀後半の遺構は雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡と推定され発見された南北方向の掘立柱建物2棟は脇殿で正殿は春日神社西側の集落内にあったのではないかと考えられています。(雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇で、当時は大王と呼ばれていました)
また6世紀については欽明天皇の行宮である泊瀬柴垣宮(はつせのしばかきのみや)跡 、7世紀のものについては大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されています。 この地は、宮殿の前に泊瀬川(初瀬川)があり、すぐ近くにはヤマト王権の武器庫の可能性がある忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあったとされ、水陸交通の要所として大和と東国を結ぶ重要な場所に位置付けられています。
脇本遺跡は近鉄、大和朝倉駅から約500m(徒歩、約10分)のところにありますが調査区は埋め戻しされたり建物が建てられたりして現在は地中にその姿を隠しています。
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慈恩寺 阿弥陀堂と玉列神社
■玉列神社は、延喜式神名帳に、『大和国城上郡 玉列神社』とある式内社で、今は大神神社の境外摂社となっている。 玉列は“タマツラ”と訓む。主祭神の玉列王子とは、大神(オオミワ)の神・オオモノヌシの御子神というが、記紀などにはみえず、その出自・神格など不詳。9世紀以前から官社としての幣帛をうけていたのは確かとみられ、当社縁起には、「初瀬谷に於ける最古の神社」とある。大神神社の境外摂社。 境内に大神神社末社の祓戸社・金山彦社・猿田彦社・愛宕社を祭る。
■玉列神社石鳥居の右側には、南北朝の争乱によって廃寺の憂き目に会い、現在は阿弥陀堂一宇を残すのみ。 慈恩寺は玉列神社の神宮寺だった。 由緒は不詳だが、「慈恩寺」の地名が残ることから、かなりの規模の寺院だったのであろう。 本尊の阿弥陀如来坐像(平安時代後期)は、市の文化財に指定されている。
昔から玉列神社は「玉椿大明神(たまつばきだいみょうじん)」と称せられ、その深いゆかりにより境内には200種約500本の椿が植えられ、「玉列のつらつら椿」として知られています。椿がお供えされる祭典のほか、髪に椿の花を付けた巫女による神楽「浦安の舞」の奉奏が行われます。また「椿饅頭」や「椿にゅうめん」のふるまいもあります。
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万葉歌碑と磯城島公園(慈恩寺)
■この右側が椿山、昔この辺り(海柘榴市と想定)まで船で上ってきたそうです。 海柘榴市があった所は、大和高原に水源を持つ大和川(初瀬川)が初瀬谷を下って奈良盆地に流れ出る地点である。 大和川は、奈良盆地を潤す最大の河川であり、灌漑とともに近世以前には水運にも利用されていた。 古代にあっては、大和と河内、摂津を結ぶ重要な交通ルートであり、難波津に上陸した外国の賓客やヤマト政権の要人が河船を利用して三輪山を仰ぐ宮との間を往来しただろう。
海柘榴市は難波津の内港として、大和と大陸を結ぶ海のルートの終着点にして起点でもあった。
★万葉集には海柘榴市の歌垣の歌として3首が載る。
海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(万葉集12 2963)
紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(万葉集12 3101)
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(万葉集12 3102)
★「仏教伝来之地」石碑。磯城嶋金刺宮に宮を置いた欽明天皇の治世に仏教は伝来した。
三輪山麓から慈恩寺地区にかけて、地域の名産「三輪そうめん」の製造所が立ち並んでいます。
★海石榴市、椿市は、政治の中心が主として奈良盆地の東南部にあった頃、定期的に市が立って栄えた。また、初瀬川を下り大和川に出る水運ができあがっていたから河港もでき、水陸交通などの要衝の土地であった。その場所は三輪山の南、今の桜井市金屋付近である。
★推古紀16年(608年)8月の条に「唐の客を海石榴市の衢に迎ふ」とあり、隋の使者は、初瀬川を船で遡り海石榴市で船を降り、市(衢)そこで出迎えられ、飛鳥の小墾田宮に入京したのであろう。路傍に「海石榴市観音道」の石の道標があり、少し離れたところに「海石榴市観音堂」がある。
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椿山と近鉄朝倉駅
■奈良県桜井市、原生林に包まれた神奈備、三輪山。 その南となりに全山、椿でおおわれた山がある。 周辺は、万葉集で歌われた海石榴市(つばいち)であり、古代の市が立ち、恋の花が咲いた歌垣の地でもある。 この故事にちなんで、50年前、ひとりの篤志家が持ち山に椿を植え育て続けた。
いま、その花が咲き誇っていました。 とその篤志家の息子さんが椿山を管理しながら話してくれました。 椿(ツバキ)は世界には4,000種類あり、その内の900種類がこの山にあると仰っていました。
また、花の落ち方から縁起の悪い花と言われていますが逆に縁起の良い花、庭の椿の花がある部分赤色が濃くなっていると話した所、選定の仕方も親切の教えてくれました。
奈良・海石榴市 椿山の今を盛りの綺麗な椿の花 |
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キンギョツバキ(金魚椿) |
椿は基本無臭の花ですが、こちらはほんのりと良い香りの椿 |
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★キンギョツバキ(金魚椿)は、葉の先端が三つに分かれているのが,金魚の尾のようであることからつけられた名前です。 ヤブツバキ(藪椿)の園芸品種です。
三諸は 人の守る山 本辺には あしび花咲き 末辺には 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守る山(万葉集巻13-3222)
★垂仁天皇と景行天皇が宮を置いた巻向は三輪山の北西であり、海柘榴市とは至近距離である。 雄略、仁賢、武烈の各天皇は初瀬谷に宮を置いた。 磐余(いわれ)は桜井市の南西部で香具山の東方の地域とされる。 ここには、履中、清寧、継体、用明、舒明の天皇が宮を営んだ。 崇峻天皇は桜井市南の倉橋に宮を移した。 推古天皇以後は明日香が王宮の指定地となるが、明日香から山田道が通じる海柘榴市のにぎわいはそう変わらなかっただろう。
★雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年)12月 - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日(456年12月25日)
- 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命・大長谷王(古事記)。大悪天皇・有徳天皇とも。また『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。
都は、近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。なお、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたという。(Wikipediaより転)
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