名張・万葉の会|香芝・王子 二上山博物館と志都美神社、達磨寺ほか。 |
2017.11.02
頁内索引 〔 香芝市中央公民館の万葉歌碑|志都美神社|二上山博物館|顕宗天皇陵|太子道|武烈天皇陵|尼寺廃寺跡、乳垂れ地蔵|片岡山 達磨寺|王子町の風景 〕
香芝市中央公民館の万葉歌碑
■香芝市(かしばし)は、奈良県中西部に位置する市。「香芝」は鹿嶋神社(下田西)に由来するとされる。
■香芝市中央公民館 〒639-0231 奈良県香芝市下田西3丁目7-5
大津皇子に関する万葉歌が多いことに少し驚いたが、二上山を抱える香芝市としては当然だし、姉である大来皇女姉である大来皇女の寺を持つ当方としては感謝感激でした。
★「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)の遊狩(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌>
≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
★大津皇子(おおつのみこ、天智天皇2年(663年) - 朱鳥元年10月3日(686年10月25日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。 同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。 686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24。 『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。 また、『万葉集』の題詞には薨去の直前に、姉である大来皇女が斎王を務めている伊勢神宮へ向かったとある。 大津皇子の墓は、宮内庁により奈良県葛城市染野の二上山雄岳山頂付近にある二上山墓に治定されている。に治定されている。
志都美神社
■志都美神社(しずみじんじゃ)は『延喜式』に記される式内社です。 祭神は、天兒屋根命、譽田別命、底筒之男命。 由緒によれば、「大織冠鎌足公の四世の孫、従四位片岡民部少輔綱俊なる人、弘仁四年(813)、宮を片岡に作りて、以て片岡家の鎮守とし、清水神社と称す。是、当社の創建なりと伝えり。」。 本殿は三間社流造で、江戸時代中期の建立と考えられます。 元禄年間(1688~1704)に盲目の僧侶が境内で湧いていた清水で目を洗って霊験があったとの伝承があり、江戸時代の『大和志』や『大和名所図絵』などに「清水(志都美)八幡」として紹介されています。 社殿の背後に広がる森(社そう)は北にある武烈天皇陵の樹そうと一体となって、自然林として残されています。
日本へコレラが最初に侵入したのは文政五年で第二次流行の安政五年は日本中をコレラ流行禍にまきこみ死者二万八千人に達した。明治に入ってから同十二年に全国に流行しての余
波が十二年にまで及んだという。 死者が出ないということは 本当にお珍しく、ご神徳がうかがえる。 また本神社の神宮寺として清水山明王院が明治の神仏分離令
が出るまであり、現在明王院という石灯篭が一基残っている。 ある日盲目の法師が境内にある井戸で目を洗うと水の霊験で 目があいたという伝説があり、それゆえ一時期清水八幡宮と
呼ばれた時代があった。 今も手水舎の石に八幡宮の文字が残 っている。
二上山博物館
■奈良県と大阪府の境に接し、左右に金剛・葛城山系と信貴・生駒山系を従え、四季折々、季節の移ろいのなかでその優美な姿を変える二上山。 『万葉集』にも詠まれ、万葉の「ふたかみやま」として古代史の舞台ともなりました。 しかし、それよりもはるか昔、千数百万年前には大噴火した火山というのが真の姿なのです。
その活発な火山活動によって多くの火成岩が分布していますが、なかでもサヌカイト、凝灰岩、金剛砂はその後の人類文化の発展に大きく寄与した岩石、鉱物です。 奈良県香芝市藤山一丁目にある二上山博物館は、全国初 旧石器文化を紹介する石の博物館です。
★讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる。古代には、石器の材料として使われ、打製石器、磨製石器に加工され使われていた。
■狐井城山古墳(きついしろやまこふん)は、奈良県香芝市狐井・良福寺にある古墳。形状は前方後円墳。 史跡指定はされていない。 墳丘長は約140メートルを測り、香芝市では最大規模になる。 墳丘表面では葺石・埴輪片(円筒埴輪・朝顔形埴輪)が検出されている。 墳丘周囲には周濠・外堤が巡らされる。 主体部の埋葬施設は明らかでないが、古墳付近において刳抜式長持形石棺の破片が採集されている。出土埴輪等より古墳時代中期-後期の5世紀末葉-6世紀初頭頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、当時としては大王墓級の規模の古墳であるため、葛下郡に営まれた顕宗天皇(第23代)・武烈天皇(第25代)のいずれかの真陵とする説が挙げられている 。周辺で採集された石棺片は兵庫県加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト(竜山石)製であり、付近の二上山産凝灰岩製ではない点が当時の政治情勢を考察するうえで注意される。
顕宗天皇陵
■顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、日本の第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日
- 同3年4月25日)。 『日本書紀』に皇子女の記載なし。 『古事記』にも「子無かりき」とある。 陵は、宮内庁により奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に治定されている。
傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ) |
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傍丘磐坏丘南陵 |
傍丘磐坏丘南陵 近く |
都は近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。 現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か)。 『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。 長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。 |
安康天皇3年10月1日(天皇が既に暗殺された後)父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
太子道
■太子道:万葉の時代に、聖徳太子が「斑鳩の里」から「三宅の原」を経て、「飛鳥の宮」とを往来された道が「太子道」です。 この道路は、条里制の南北方向の地割りに斜交(北方向約20度西、南方向約20度東)している道で、別名「筋違道」とも呼ばれています。 中世以降は、「法隆寺」街道とも呼ばれ、生活道路として盛んに利用され、現在も町道三宅70号線として活用されています。
また、聖徳太子の死後、遺体を運んだとされる「太子道」は、奈良県斑鳩町から大阪府太子町までを通る。
太子道 |
太子道では稲刈りの時期 |
太子道沿いの民家 |
太子道にある灯籠 |
太子道の小さな祠 |
太子道ではたわわな柿が・・ |
太子道 |
神座(かむくら)らーめん |
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神座(かむくら)は、奈良県北葛城郡広陵町にある株式会社理想実業が近畿地方を中心に首都圏ならびに愛知県に展開しているラーメン店。提供されるラーメンは、天理ラーメンに似ているが、辛口に作られる天理ラーメンと違い甘いスープである。 |
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太子道にある灯籠 |
王寺町に放光寺あり、この片岡僧寺に対してここにその尼寺があったものと考えたい。 般若寺の毘沙門天像の背面に「華厳山般若院片岡尼寺、開山皇太子勝曼菩薩ナリ、毘沙門天皇太子作」と墨書されている。 片岡尼寺の創立を聖徳太子としているが、これは、太子伝私注抄に掲げる太子建立の46箇寺院の中に般若寺の名があるから、このように考えることもできる。 |
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武烈天皇陵
■志都美神社の西、その社叢につながるように広がる森が第25代武烈天皇陵。 正式名称は傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)。 陵は自然の地形をそのまま生かしたとみられている。 武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年
- 武烈天皇8年12月8日)は、日本の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。 武烈天皇は『日本書紀』では横暴な天皇と記されるが、『古事記』にはそうした記述はなく、実在した人物かどうかについては議論がある。
傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ) |
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★武烈天皇の父は24代仁賢天皇(23代顕宗天皇の兄)、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)らがいる。
都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)。 奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑がある。 『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。 (参考:桜井(泊瀬の道) )
尼寺廃寺跡、乳垂れ地蔵
■尼寺廃寺跡史跡公園(王子)は。僧寺と尼寺の関係が指摘される北廃寺跡と南廃寺跡からなります。 北廃寺は、出土瓦から7世紀後半に造営されたと考えられ、平成8年の調査で、塔の基壇下から日本一大きいと言われる心礎が出土し約3・8メートルという大きさが話題になった。 東向きの法隆寺式伽藍配置です。
華厳山 般若院 |
僧寺と尼寺の関係が指摘される北廃寺跡と南廃寺跡 |
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塔跡発掘の説明 |
尼寺廃寺跡の配置図 |
この尼寺廃寺は、文献にほとんど登場しないため、「幻の大寺」と呼ばれた。 全国で初めて塔基壇の構築過程が分かる遺跡であることも判明。 敏達天皇系の王族が造営したとの説が有力だ。 |
■乳垂地蔵(ままかけ、ままたれ じぞう) 北葛城郡王寺町畠田7丁目(畠田郵便局の北側)
★境内には、天正4年(1576)と慶長20年(1615)に建立された六斎念仏講の石碑があります。
六斎念仏(ろくさいねんぶつ)とは、民間信仰、または民俗芸能のひとつ。
■役 小角(えんのおづぬ、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも広く知られている。姓は君。 日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
臨済宗南禅寺派 片岡山 達磨寺
■『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。 聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。 これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置されました。 達磨寺様のHPから説明文章などを引用をさせていただきました。
魚板は、魚の形に木を彫って作った板。禅寺などでこれを打って、さまざまな合図をする。
王子町の風景
■王寺町(おうじちょう)は、奈良県北葛城郡北端に位置する町。北は大和川を境に生駒郡三郷町・斑鳩町と接し、東部は北葛城郡河合町・上牧町、南部は香芝市、 西部は大阪府柏原市と接する。王寺駅には西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線・和歌山線、近畿日本鉄道生駒線および田原本線(新王寺駅)が接続し、県北部のターミナルの一つとなっている。王寺の名は、聖徳太子が建立した放光寺(片岡王寺)に由来するとされる。
王寺駅 |
葛下川と王寺町 |
マンホールの蓋 |
王寺町のマスコット |
動物の足跡 |
町のシンボル |
★雪丸は飛鳥時代に産まれ、聖徳太子のペットとして生きてきました。 その時代に出会った達磨大師を慕い、達磨大師のお墓の丑虎(北東)に葬っていただきました。
★「和の鐘」の名称は、王寺町が聖徳太子とのゆかりの深い土地であり、和合の道を守ることが最も大切であるという我が国初めての十七条憲法の第一条「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」の精神を尊重し、また「和」は「柔」に通じ、「心が穏やかになる」「心が静まる」「親しくなる」等の意味を持つことから、この精神を未来に向って伝えていこうと名付けられました。
名張・万葉の会|香芝・王子 二上山博物館と志都美神社、達磨寺ほか |