名張・万葉の会|平城京南の道 奈良・大安寺と東市、西市 他を訪ねて ・・ |
奈良市京終(きょうばて)
今回は平城京南の道を探る。 JR万葉まほろば線(桜井線)の京終(きょうばて)駅から始まります。
「京終」の名前の由来は「平城【京】の【終】わるところ」です。同じ意味で京都では「京極」という地名があります。こちらは「平安【京】の【極】(きわ)」です。「京終」の地名としての歴史は鎌倉時代以降だそうです。位置からして、平城京外京の南端(厳密にいえばやや端よりやや南)であったと考えられます。
2013年10月3日。
※ ページ内索引 [ 推古天皇社|大安寺北面中坊跡と杉山古墳|大安寺|八幡神社|辰市神社(東市跡)|西市船着場 西市跡|九条公園と近鉄・九条駅 ]
■京終駅(きょうばてえき)は、難読駅名としても知られています。 周辺は住宅密集地ではあるが、奈良交通の市内循環バスの方が便数が多く、直接奈良駅まで行った方が便利ということもあり、さほど利用客は多くはない。
推古天皇社
■『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間に、東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿があったそうです。 大安寺の守護神とされていたようですが、松永久秀の兵火によって焼失したそうです。現在の社殿は明治9年の再建。
推古天皇社 |
推古天皇社の由緒 |
推古天皇社 |
鳥居の脇に、旧地にあった万延元年(1860)の推古天皇社と刻んだ方柱形の献灯籠が立っています。傍らの小堂には、健脚を願う草履やわらじが供えられ「大日さん」として信仰されているそうです。
祭神;豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、推古天皇)
ブログ:歴史探訪|日本最初の女帝・推古天皇を祀る推古天皇社 奈良市大安寺
大安寺北面中坊跡と杉山古墳 旧境内
■大安寺北面中坊跡と大安寺村役場跡(旧境内) 弘法大師・空海や天台宗を開いた最澄もここ大安寺で修行されています。凝灰岩で基壇と礎石の復元がされています。
天平19年(749)頃の大安寺の記録によると、当時887人もの僧がいたようです。その僧たちが起居した僧房(僧坊)跡で、大安寺の僧房は金堂・講堂を囲うように東・西・北の三面に二重に建てられていました。(内側の僧房は太房、外側の僧房は中房と呼ばれます)
■平城京の中で、大安寺の北、旧境内にある古墳時代中期の「杉山古墳」です。付近は当時和邇氏の勢力化だったので和邇一族の有力者のお墓だったのかもわかりません。奈良時代に、南都七大寺の一つ大安寺がこの地に移ってきたときに境内にとり込まれました。天平19年(747)の「大安寺伽藍縁起井流記資財帳」に「一坊池井岳」と記されているようです。大安寺境内の隅にあったところから「隅山」と呼ばれているうちに、いつからか「杉山」となったと言われています。
杉山古墳の前方部墳丘に、大安寺の窯跡(奈良時代後期)が残されており、墳丘西南には窯跡が復元されています。窯は6基あり、前方部斜面を掘り込み、瓦を積み上げ、粘土で塗り固める方式。窯の前方に灰原があって、仕損じた瓦や灰が大量に堆積していたということです。 「杉山古墳には黄金の鶏が一羽埋められており、元旦に塚から出て鳴くという伝説がある」とあるHPに書かれていました。
天平19年(747)の「大安寺伽藍縁起井流記資財帳」(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)に「一坊池井岳」と記されています。 大安寺の庭園として利用されていたようです。
大安寺
■大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。(大安寺ホームページ)
奈良時代の大安寺は東西2基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。
がん封じのお寺として有名で、奈良時代 光仁天皇が 白壁王(しらかべのおおきみ)のころ、境内の浄竹にお酒を注いで召しあがった故事にちなみ、毎年1月23日に竹で温められた笹酒をいただく
がん封じ笹酒祭りが催される。
■大安寺の歴史については、正史『日本書紀』『続日本紀』の記述のほか、天平19年(747年)作成の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」が主なよりどころとなっている。「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が今の奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)であり、これが移転して、「百済大寺」(くだらのおおてら、くだらだいじ)、「高市大寺」(たけちのおおてら、たけちだいじ)、「大官大寺」(だいかんだいじ)と、移転と改称を繰り返し、平城京遷都とともに寺も新都へ移転して「大安寺」となったという。
■「うつせみは数なき身なり山川の清けき見つつ道をたづねな」(万葉集巻二十 4468 大伴家持)
・・ どう生きるか、現世(うつしよ)びとの私は、物の数にも入らないはかない身である。山色渓声の清明に観入して心をみがき、永遠の道を尋ね求めたい。
歌碑は、「万葉」の有数の古写本「元暦(げんりゃく)校本」から採ります。平安末期、元暦元年(寿栄3年、1184、平家滅亡の前年)に成った、鳥の子紙の美しい写本です。本文の後に、その歌の平安盛期の訓み方をとどめて貴重です。
■平城京の街路は1町(約109メートル)ごとに碁盤目状に配され、4町ごとに走る東西路は一条大路、二条大路・・、南北路は一坊大路、二坊大路・・、と名付けられていた。大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていたが、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。
■海外の渡来僧も多く、東大寺大仏開眼の大導師をつとめたインド僧菩提僊那(ボダイセンナ)、呪願師をした唐の道(どうせん) 、さらに盛儀に華を添えたのは、林邑楽を披露した林邑僧(ベトナム)の仏哲でした。共に大安寺に居住し、生涯を日本で過ごした人たちです。
八幡神社
■八幡神社は、奈良県奈良市東九条町 最寄駅京終駅[出口]から徒歩約23分。大安寺の旧境内に鎮座し、もと同寺の鎮守神として大安寺八幡宮と称された。また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から元石清水八幡宮と称し、或いは辰市(たつのいち)4箇郷の氏神とされたことから、郷社石清水八幡神社や辰市八幡宮等とも称された。 また、大安寺の鎮守であるが、安産に効ありとの信仰も集めており、そのために子安八幡宮とも称されます。
フウセンカズラ |
コスモス |
七重塔の跡地から |
八幡神社 概略案内 |
八幡神社 |
八幡神社の境内風景 |
八幡神社中門 全景 |
八幡神社中門 |
八幡神社中門 |
八幡神社中門の説明 |
八幡神社中門前の狛犬 |
八幡神社中門前の狛犬 |
本殿前方に建つ中門は瓦葺の四脚門だが、左右に翼廊が連なるため割拝殿のようにも見える。 |
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八幡神社中門は、室町時代の建立で、奈良市指定文化財(建造物)。 |
■仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を祀る。応和2年(962年)5月11日の年紀をもつ『大安寺八幡宮御鎮座記』は、入唐した大安寺の僧侶行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠してその神影を奉戴、大同2年(807年)に大安寺東室第7院の石清水房に鎮座したのが起源で、後に神殿を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して大安寺の鎮守神としたが、貞観元年(859年)に神託によって山城男山へ遷座したために改めてその跡に祀ったのが創祀であるとする。
■八幡神社の総本宮は、宇佐神宮(宇佐八幡)(大分県宇佐市大字南宇佐字亀山)である。宇佐八幡神は、奈良時代、東大寺の大仏建立のため上洛して、東大寺の守護神とされ、さらに神仏習合して「八幡大菩薩」として仏法守護の神、鎮護国家の神とされた。
八幡神は「日本書記」や「古事記」に記されていない神で、天皇(人格)が神として祀られたとされるもので、その起源などについては謎の部分が多い。一般的な縁起などによると、欽明天皇の32年(571)に、初めて、宇佐の地に現れた応神天皇(誉田別命〜ホンダワケノミコト)の神霊を八幡神として祀ったのが創起とされる。「八幡」の起源は、天から赤白それぞれ四旒(リュウ)、計八旒の旗が天から降って来たことに由来するという。八幡様のお使い(ご神使)は鳩だという。春日大社ではご存知の通り鹿、稲荷神社では狐、熊野神社では三つ足の烏(ヤタガラス)というように神様に動物はつきものだ。
辰市神社(東市跡)
■辰市神社(たついちじんじゃ)は奈良市杏町の中央に鎮座し、御祭神は武甕槌命 (たけみかつちのみこと). 経津主命 (ふつぬしのみこと).という春日大社と縁の神様です。この神社名は中臣氏の末裔辰市家の居館地に由来するそうです。神護景雲二年春日大神が御蓋山に遷座された。後に侍従の社司中臣時風、中臣秀行がその住居を神託によって西南の方へ神木を投じその落ちる所とした。それが辰市郷中この地に落ちたので、このあたりに居住し、春日の神木を崇敬し、中臣時風らが奉祭したのが、この神宮社すなわち今の辰市神社である。
■平城京の時代、朱雀大路をはさんで西市と東市という大きなマーケットがあった。
■東の市の植木の木足るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり (万葉集巻三 310 門部王)
・・ 京の東に植えた木がうっそうと繁るまで、長いあいだ逢わずにいたことだ。ほんとうに恋しく逢いたいものだ。 市には槻 (ケヤキ) ・ツバキ、
桑、 橘など市それぞれの並木があり、 東市は杏だったかどうか、いま、 地方国守の任から都に帰ってなのかどうか、 見れば、 市の木立が 「木足」、枝が垂れるのでなく、
足りる、 こんなにゆたかに繁るまで逢わず久しくて、 恋しかったのももっともだったのだ。
西市船着場 西市跡
■西市(にしいち)」跡からすぐ東へゆるやかな坂を上がったところに、西市の船着場跡があります。
秋篠川(あきしのがわ)、奈良時代には平城京への物資の輸送路として、南北に直線に付け替えが行われ、「西の堀河」とも呼ばれた運河でした。 秋篠川にあった船着場は、西市の造営や難波(大阪)から物資運搬に活用されていたと推測されます。
西市は推定7万平方m、東京国立競技場の敷地面積とほぼ同程度の規模があったようです。
■西市は、東市(奈良市杏町付近)と共に、都城内に設けられた日本最初の官営の市場であり、平城京の大宮人20万人の大マーケットで、古代律令国家の交易の拠点であり、市場内では、西市交易銭という木簡が流通しており、日本で最初の「銭」が使用された場所でもありました。平城宮の宮殿や役所で使用する物品の多くはここで調達された。
薬師寺の東塔と西塔が |
平城京西市跡(大和郡山市) |
平城京西市跡(大和郡山市) |
平城京西市跡(大和郡山市) |
西の市に ただ独り出でて 眼並べず買ひにし絹の 商じこりかも |
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■万葉集に、西市を詠んだ歌が1首。
「西の市に ただ独り出でて 眼並べず買ひにし絹の 商じこりかも」 (巻7 1264)
・・ 西の市へ一人で出かけて 見比べもせずに 衝動買いしたこの絹だけど ひどい商品だったよ。
■奈良時代における交易のあり方から見ても「西市交易銭」という木簡は、市司に置かれた交易の銭の元祖とも思われる。 「西市交易銭」はそこでの「交易(こうえき)」(物品購入)用の「銭(ぜに)」(和同開珎(わどうかいちん))の付札。銭を孔に紐を通して束ね木簡を括り付けた。
九条公園と近鉄・九条駅
■平城京東市から西市へ行く途中にある九条公園は、平成2年7月にオープンした都市型公園です。公園の中心となる九条スポーツセンターは隣接する清掃センターの余熱を利用した温水プール、体育室、健康運動室等を備えています。
またこの場所で、日本最初の貨幣である「富本銭(ふほんせん)」が発見されました。
富本銭は、683年頃に日本でつくられたと推定される銭貨である。708年に発行された和同開珎より年代は古く、日本で最初の貨幣とされる。
■九条駅(くじょうえき)は、奈良県大和郡山市九条町にある、近畿日本鉄道(近鉄)橿原線の駅。
■佐保川(さほがわ)は、若草山東麓を走る柳生街道の石切峠付近に発し、若草山北側を回り込むようにして奈良盆地へ出、奈良市街北部を潤す。奈良市新大宮付近から南流に転じ、奈良市と大和郡山市との境で秋篠川を併せる。大和郡山市街東部を南流し、同市南端付近の額田部で大和川(初瀬川)に注ぐ。江戸時代には「南都八景」の一つとして「佐保川の蛍」が。
佐保河の小石ふみ渡りぬばたまの 黒馬の来る夜は年にもあらぬか(大伴坂上郎女、万葉集)
佐保川の水を塞きあげて植ゑし田を 刈る早飯は独りなるべし(上の句:尼/下の句:大伴家持、万葉集) …最古の連歌とされる。
見渡せば佐保の河原にくりかけて 風によらるゝ青柳の糸(西行法師、山家集)
参考資料 |
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難解文字 京終(きょうばて)、帯解(おびとけ)、杏(からもも)、忍辱山(にんにくせん)、神殿(こうどの)、山陵(みささぎ)、餅飯殿(もちいどの)、平城山(ならやま)、肘塚(かいのつか)、生琉里(ふるさと)・・ |
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名張・万葉の会|平城京南の道 奈良・大安寺、八幡神社、辰市神社(東市跡)、西市船着場 西市跡 他を訪ねて ・・ |