名張・万葉の会|奈良県吉野 大淀・下市の道 |
奈良県吉野 大淀町・下市町
■大淀町(おおよどちょう)は、奈良県中部、吉野川右岸に位置する町。北は竜門山地が聳え、南には吉野川が流れる。 「万葉集」巻七の雑歌のなかの和歌に「大川淀」とあり、その場所が江戸時代につくられた「大和志」に「下渕に在」と説明されていることから因んでつけられたとある。
歴史に残る能楽シテ方五流のうち、大和四座と呼ばれる観世の流れを持つ「桧垣本の猿楽」があったところ。 聖徳太子ゆかりの世尊寺、役行者の創建と伝わる泉徳寺などいにしえの人々の心に触れられる数多くの文化財が残されています。
■下市町(しもいちちょう)は、奈良県南部の町。 下市に初めて人が住み着いたのは、百合ケ峯・峯山五丁森・瀬の上遺跡(いずれも下市町阿知賀)からサヌカイトの石屑や須恵器が、野々熊・新住でも遺跡が発見され、また、吉野川流域には、縄文・弥生式文化の遺跡が上流の宮滝まで広範囲に散在しています。 やがて京都や奈良を中心とする天皇や貴族の金峯山信仰が盛んになるとともに、下市は仏教文化の影響を受け、歴史的にも特異な存在となっていったのです。 平安時代になると、貴族や有力社寺が荘園経営のため大挙して下市に進出し、活況を呈することになりました。「下市」というのは「上市」に対する呼称で、秋野川が当時、吉野地方の入り口であったため、中世以降、交易が盛んになり、毎月2・7日は、「市」が開かれた事によります。 「山家なれども下市は都、大坂商人の津でござる」とうたわれ、江戸時代初期には日本最初の商業手形「下市札」が発行されました。 2012.12.06
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奈良・榛原 鳥見山(735m) |
吉野町 吉野見附三茶屋 |
セッコク(石斛、学名:Dendrobium moniliforme) |
★鳥見山 ・・ 『日本書紀』神武天皇四年春二月壬戌朔甲申の条に
詔曰。我皇祖之霊也、自天降鑑、光助朕躬。今諸虜已平。海内無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。乃立霊畤於鳥見山中。其地号曰上小野榛原。下小野榛原。用祭皇祖天神焉。
詔(ことよさ)して曰(のたま)はく、「我(わ)が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天(あめ)より降(くだ)り鑒(み)て、朕(わ)が躬(み)を光(てら)し助(たす)けたまへり。今諸(もろもろ)の虜(あたども)已(すで)に平(む)けて、海内(あめのした)事無(ことな)し。以て天神(あまつかみ)を郊祀(まつ)りて、用(も)て大孝(おやにしたがふこと)を申(の)べたまふべし」とのたまふ。乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其地(そこ)を號(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原と曰(い)ふ。 用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭(まつ)りたまふ。
わが皇祖の神霊の御加護によって大和を平定することができた。よって天神を郊祀し、大孝を申べようとおもう。
よって霊畤を鳥見山の中に立てて、皇祖天神(みおやのあまつかみ)をお祀りもうしあげた、とあります。
★セッコク(石斛、学名:Dendrobium moniliforme)は、単子葉植物ラン科の植物。日本の中部以南に分布する。岩の上や大木に着生する着生植物。 吉野町
吉野見附三茶屋にて。
三輪山と橿原市 |
大和三山・畝傍山 |
大和三山・耳成山 |
下市町立下市観光文化センター
■下市町立/下市観光文化センターは、奈良県吉野郡下市町大字下市3071。[電話番号:0747-52-1711]下市の歴史や岡峯古墳からの出土物、天誅組関連の遺物を展示しています。
日本で最初に商業手形である下市札もありました。(参考:下市町観光ガイド)
★浄瑠璃や歌舞伎で有名な「義経千本櫻(よしつねせんぼんざくら)」の「鮎屋(すしや)の段」も下市が舞台となっています。
下市中央公園 拓美の園
■下市中央公園内にある拓美の園(たくびのその)は、平成5年下市町の文化の拠点として3基の句碑歌碑が建立されたのをきっかけに、今では16基(23面)の句碑歌碑が立ち並び、多くの人が採拓(拓本を採ること)に訪れます。 このうち万葉歌碑は3基である。
大淀町鈴ヶ森行者堂 下渕頭首口
■鈴ヶ森行者堂 行者堂は、昭和13年(1938年)に、車坂の石塚遺跡脇から現在地へ移築されました。 旧地には「奥之院一之行場跡」の碑が立っています。 共に移設された堂前の石灯籠一対には、「泉州鳥毛大小組」の銘があります。 行者堂は、役(えん)の行者を祭る堂で、この辺りには多数の行者堂があります。 (参考:大淀町の文化財)
下市町の土蔵 |
下市町の街中 |
幾多の歴史を秘めた |
鈴ヶ森行者堂 |
鈴ヶ森行者堂 由来書 |
鈴ヶ森行者堂 |
鈴ヶ森行者堂 大淀の名の由来を記した石碑 |
下渕頭首工 |
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「今しくは 見めやと思ひし み吉野の 大川淀を |
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吉野川の下渕頭首工 |
吉野川と下市の風景 |
吉野川に遊ぶ鴨 |
■吉野川からの取水口である「下渕頭首工」。 川の向こうから 左岸魚道・洪水吐・土砂吐・右岸魚道・流筏路と仕切られている。
大淀町今木 蔵王権現堂(泉徳寺)
■権現堂の在る天狗山・泉徳寺はJR和歌山線、近鉄吉野線、共に吉野口駅より国道309号線で約約3kmも南下した吉野川分水路脇、北面する山裾に建つ、役行者が創建した大峯修験道のための入峯行場として知られている。 嘗て女人禁制の信仰の山、吉野金峯山寺への古い参詣道にあたるこの大淀町今木の権現堂には、その信仰の思いを託す様に修験道の特徴有る石造物が数多く残されている。 (参考:大淀町の文化財) 吉野郡大淀町今木1394
蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。
★役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者。姓は君。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。
★蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本仏教における信仰対象の1つ。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。
樋野吉野川東西分水路 阿吽寺
■奈良県御所市の樋野吉野川東西分水路 阿吽寺。
■奈良県は全国的にも雨が少ないそうで、田んぼの水を賄えないらしい。その為に各所にため池が作られています。それでも田植えの時期は無理だそうで、吉野川や津風呂湖から水を奈良市内などで送っています。道路に立っていた看板によると、ここは農業用水だけではなく、飲料水にも分けられているようなので、沈砂地を通った水が飲料用水として送られている様だ。
御所市樋野の東西分水工では、下渕頭首工(大淀町下渕)から水路トンネルを通り送られてきた水が、ここで東西に分岐され大和平野に送られる。 同分水は、江戸時代から農業用水の不足に悩まされていた大和平野にとって悲願の施設。昭和31年の通水開始後半世紀以上にわたり水を送り続けている。水路は大部分が地下に設けられ、奈良市をはじめ20市町村に広がる。その長さは330キロを越える。
吉野口の駅舎 |
樋野吉野川東西分水路 |
樋野吉野川東西分水路 |
樋野吉野川東西分水路 |
巨勢山(296m)? |
巨勢の道 標識 |
★巨勢山(こせやま)は、奈良県御所市古瀬と高市郡高取町の境にある丘陵。西側のふもとに巨勢野がある。歌枕。 |
■古代豪族巨勢氏の本拠地といわれる大和国高市郡巨勢郷(現在の奈良県御所市古瀬)の集落は、この地の最寄の駅「吉野口」の名前の通り、吉野の玄関口にあたる場所にあります。 吉野駅口の西側の山麓に阿吽寺があって、寺の縁起によると平安時代に巨勢川が氾濫し、人々が往生したとき、阿吽法師と名のる人物が現れてこれを救ったので、人々が法師を崇めて巨刹、巨勢寺の一坊に寺を構えさせたといいます。
ここの敷地に椿が多いことから山号を玉椿山といいます。 この阿吽寺の本寺にあたる巨勢寺(阿吽寺から北300mくらい)は聖徳太子の創立と伝えられ、かなり大規模の寺院だったと推定されていますが、今は磯石や瓦などが残るのみです。 「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を」という万葉集のうたが在りし日のこの地の様子を伝えています。 椿の名所です。
★玉椿山阿吽寺の本尊は、木造十一面観世音菩薩立像。 現在はいずれの宗派にも属さず、霊験あらたかな観音様の寺として信仰を集めているそうです。
★巨勢氏(こせうじ)は、記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の五男である許勢小柄宿禰を始祖とする。大和絵巨勢派の祖である金岡は野足の曾孫とされ、大神神社社家もその子孫と伝える。
丹生川上神社
■丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)は、奈良県吉野郡東吉野村にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。古くは「雨師明神」と称され、江戸時代からは「蟻通明神」とも称された。
社伝に因れば、鎮座地は神武天皇が東征の際に天神の教示によって天神地祇を祀り、戦勝を占った地であり、天武天皇白鳳四年(675年)に罔象女神を御手濯(みたらし)川(高見川)南岸の現摂社丹生神社の地に奉斎し、その後現在地に遷座したものと伝える。
ご神宣により建立奉祀されたと伝えられます。御祭神の高龗大神(たかおかみのおおかみ)は龍神にて水、雨を掌られる大神様です。
県指定 女神坐像 |
県指定 木造罔象女神坐像 |
神像 - 1躯は像高54cm、一木造の「罔象女神坐像」で、日本最古の和装姿のものとされる。他に唐衣の女神像2躯、男神像4躯が奉安され、いずれも藤原時代後期の作とされる。 |
■大英博物館で2019年10月から11月で「奈良―日本の信仰と美のはじまり」展(奈良県・大英博物館主催、朝日新聞社など特別協力)が行われ、たまたま間近で国宝や重要文化財を見ることが出来ました。
名張・万葉の会|奈良吉野郡 大淀・下市の道 |
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