名張・万葉の会|桃太郎伝説発祥の地・磯城郡田原本町 弥生時代の唐古・鍵遺跡 他 |
奈良県磯城郡田原本町
今回は奈良県磯城郡田原本町を探る。 田原本町(たわらもとちょう)は、奈良県磯城郡の南端に位置する町(中和地区)。奈良盆地のほぼ中央、東に初瀬川、西に飛鳥川が流れる平坦地に位置する。古代の大和国城下郡鏡作郷・室原郷・黒田郷・賀美郷、十市郡飯富郷の地で、鏡作神社(八尾)・多神社など著名な延喜式内社が鎮座する。また弥生時代の代表的遺跡である唐古・鍵遺跡(国の史跡)を有する。賤ヶ岳の七本槍のひとり平野長泰が田原本に領地を拝領(のちの田原本藩)。日本最初の歴史書「古事記」を編纂した太安万侶。その生誕の地は田原本町であることは、一般にあまり知られていない。
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近鉄電車・田原本駅 |
楼閣と桃太郎生誕の町 |
田原本駅前の観光案内所 |
★桃太郎伝説発祥の地 : 近鉄田原本線 黒田駅から西に250m,真言宗 法楽寺がある。この境内に「桃太郎伝説発祥の地」と書かれた横長の黒い石碑が建っている。
江戸時代中期の“草双紙・赤本”に紹介されたことで広く知られるようになったが,その原形は神話に遡るとされ,古事記や日本書紀に出てくる“吉備津彦”がモデルになったと言われる。
この地 田原本町には 吉備津彦の父親である7代 孝霊天皇の宮が置かれていたことから,吉備津彦のはこの場所で生誕し育ったと考えられる。成人後ここから西に向かい吉備を平定したとされていることから,この地を「桃太郎発祥の地」としている。
桃太郎の伝説は,奈良県田原本町のほか 岡山市,香川・高松市,愛知・犬山市など 全国各地にあり,それぞれが桃太郎ゆかりの地であると主張している。
田原本町・寺内町
■田原本町の中心、寺内町。 文禄4年(1595)から当地を支配していた平野長泰は、慶長7年(1602)佐味田にあった大寺教行寺を田原本に移転することを認め、寺内町の建設を許可した。 寺内町は、平野氏が田原本陣屋敷を構えたところで、細長い碁盤目状の道であり、各所で折れ曲がったり、T字型の三叉路になっている。外敵の侵入に備えての防備だったのだろう。 この様に田原本は中街道や寺川などの水陸交通を利用した物資の集散地であって、この繁栄は明治10年前後には南大和随一の繁栄えを示した。
町中のレトロな料理屋さん |
町中のレトロな料理屋さん 大正か昭和の香りが |
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こんな昭和の時代のようなお店が未だ残っています。 |
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津島神社に隣接する |
昭和の建物 植山医院 |
寺内町のレトロな町並み |
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寺内町のレトロな町並み |
道路には唐古・鍵遺跡 |
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★田原本療院植山医院(寺内町):昭和のモダニズムが外観意匠などに息づく。昭和7年(1932年)の建築で、木造2階建て、瓦棒鉄板葺。1階は診察室、2階は病室。
江戸初期の重厚な町家に贅(ぜい)を凝らした明治の町家もあれば、大正、昭和のレトロな町家もあり。各時代の建物が混在して多彩な”顔”が揃うのは、田原本の圧倒的に長い繁栄の足跡です。
津島神社
■津島神社は、田原本町旧町域の南側に鎮座する。神仏分離以前は祇園社といった。現在も夏に盛大な祇園祭が催されることもあり、地元では「祇園さん」の愛称で親しまれている。
現在、祭神は素戔鳴命、櫛名田姫命、誉田別命、天児屋根命などとなっているが、本来は牛頭天王を祭神とする田原本村の産土神だったと考えられる。 この神社は、明治中期に書写された天治二年(1125)の棟札に建立の文字があったとされることから、創建年代の早いことがうかがえる。神社の南西側の発掘調査で、神社を囲む中世末の大溝が検出されている。
津島神社の杜 |
津島神社の拝殿 |
津島神社の本殿 |
津島神社の拝殿 |
津島神社前の散歩のワンちゃん |
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神社の南西側の発掘調査で、神社を囲む中世末の大溝が検出されている。江戸時代には、領主平野家の尊崇をあつめ、毎年米1石5斗の寄進を受けた。
浄照寺・本誓寺
■浄照寺(田原本町茶町)は、平野長勝の創建と伝えられる。木造阿弥陀如来立像(江戸時代前期)を本尊とする。 また、寺宝として親鸞上人画像一幅がある。大谷本廟に安置されていたものを本願寺から下付されたといわれる。
主な建造物には、本堂・庫裏・鐘楼・太鼓楼・表門がある。 このうち表門は、伏見桃山城の城門を移築したものと伝えられる。
浄照寺の本堂は、慶安4年に建立された、入母屋造本瓦葺の建物である。 本堂には、組物、欄間、蟇股等に優れた彫刻技法が残り、県下における大規模な真宗寺院本堂の典型として価値が高い。
浄照寺の遠景 |
浄照寺の山門 |
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浄照寺・本堂 |
太鼓楼 |
浄照寺の由緒 |
★浄照寺(じょうしょうじ):寺内町の要となる大寺院。「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍」で有名な初代領主・平野長泰(ながやす)の長男、長勝(ながかつ)が建立。本堂は県指定文化財。 |
★本誓寺(田原本町茶町)は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本領主であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄土真宗教行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立した。
★本誓寺の本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる平安時代中期の十一面観音立像が安置されている。 |
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平野廟 |
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★平野廟(びょう):浄照寺の隣、本誓寺(ほんせいじ)境内墓地にある方形造本瓦葺の平野家霊廟。2代領主・長勝の霊廟「広徳院廟」、9代領主・長発(ながゆき)の霊廟「本覚院廟」が並んで建つ。 |
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本誓寺(田原本町茶町) |
街道の要所に立つ道標 |
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中街道(旧下ツ道):すべてはこの道から始まった。古代より交通の要所として栄えた田原本町。
街道の要所に立つ道標は、商人たちが建立したもの。当時の権勢ぶりを今に伝える。
街道筋の常夜灯 |
街道の要所に立つ道標 |
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村田東平屋・楽田寺
■江戸時代の代表的建物である「村田東平家」。この建物は18世紀後半の建築。建物の由緒は明らかではないが、屋根に反りのある城の様な外観、建築部材などから一般民家とは異なり公共的な建物と見られる。木造二階建て、西側は入母屋、東側は切妻造りで庇付き本瓦葺。
奥に見えるのは浄照寺 |
「村田東平家」 |
「村田東平家」 |
江戸時代の代表的建物である「村田東平家」 |
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★雨宝山 龍王院「楽田寺」は、草創は天平元年(729)、「興福寺」の末寺で(真言宗)「田原本寺」と称し、木造十一面観世音菩薩像(長谷寺の本尊と同木造り)を本尊としていました。本尊;阿弥陀如来坐像で、古くから雨ごいの寺としても知られています。
雨宝山 龍王院「楽田寺」 |
雨宝山 龍王院「楽田寺」 |
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★「楽田寺」にある弘法井戸;山門の右手にある井戸は、弘法大師が高野山への道中、干ばつに苦しむ農民の為に掘られたそうで、水は枯れることなく、昔は田の用水にも利用されていたそうです(水は弘法水と呼ばれています)。 |
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街道の要所に立つ道標 |
雨宝山 龍王院「楽田寺」 |
雨宝山 龍王院「楽田寺」 |
江戸時代には領主平野家の庇護(ひご)のもと、特色ある町文化が開花。寺内町、陣屋町、問屋町の顔も併せ持ち、”大和の大坂”と呼ばれるほどの隆盛に。富を蓄えた商人は立派な町家をさらに建て替え、各時代が連なる町並みとなりました。街道に立つ道標が多いのも、祭りが数多く伝わるのも、この地ならでは。裕福な商人たちの豊かな財力によるものです。
田原本聖救主教会、田原本町役場
■田原本聖救主教会:昭和8年建築。勾配のきつい切妻造。 平成18年のNHK朝ドラ 「芋たこなん」 で使われたそうです。田原本の布教は明治16年の説教会からだそうです。
田原本町役場 〒 636-0392 奈良県磯城郡田原本町 890-1 TEL:0744-32-2901 FAX:0744-32-2977 E- mail: info@town.tawaramoto.nara.jp
唐古・鍵遺跡(国史跡)
■唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈良盆地のほぼ中央、標高48〜51メートルの沖積地に立地する。1936・7年、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査がおこなわれた。この時に出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識をもたらし、畿内の土器編年の枠組みを作った。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。
展示品詳細は 唐古・鍵考古学ミュージアムにあります。
見える山は大三輪山 |
唐古池 |
唐古池と天理の山 |
あるのはただ一つ、満々と水をたたえた唐古池の隅に建っている2階建ての楼閣である。奇妙な渦巻き状の飾りが屋根の端に取り付けられているため、どこからでも目に付く。言ってみれば、遺跡のシンボルマークだ。だが遺構を復元したものではない。出土した壺に描かれていた建物の断片から、当時の楼閣をイメージした重層建築である。
名張・万葉の会|奈良県磯城郡田原本町 |