名張・万葉の会|平群の道 奈良県生駒郡平群町 平群神社、長屋王関連 |
奈良県生駒郡平群町
奈良県生駒郡平群町は、古代の大和国平群郡平群郷の地である。古代豪族・平群氏の本拠地であり、平群神社、平群坐紀氏神社、平群石床神社などの延喜式内社が鎮座するのをはじめ、古墳64基が散在する。
信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺も町域に属する。
中世後期には、しばしば大和国を動かす中心地となる。1536年(天文5年)に木沢長政が信貴山城を築城、後に大和に入った松永久秀もこれを補修して居城とし、大和攻略の拠点とした。久秀の滅亡後は城は廃城とされている。 2012年10月4日。
ページ内索引[ 平群坐紀氏神社(紀氏神社)| 長屋王・吉備内親王の墓| 三里古墳と"くまがしステーション"| 平群神社| 西宮古墳| 鳥土塚古墳と竜田川の駅| 近鉄:大和八木・田原本・王寺 ]
★平群(へぐり)の名前の由来 : この場所は、倭建命(やまとたけるのみこと)が「たたみこも平群の山」と歌に詠んだように、周囲を緑深き生駒信貴山系、矢田丘陵に囲まれた歴史の揺籠である。 古代の都にあった桜井や飛鳥方面からみて、奈良盆地の北西の対角地域としての辺国(へぐに)が「平群」になったとされている。
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近鉄・平群駅前の遊歩道の案内図 |
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■平群駅(へぐりえき)は、奈良県生駒郡平群町吉新にある、近畿日本鉄道(近鉄)生駒線の駅。相対式2面2線のホームを持つ行違い可能な地平駅です。
平群駅(へぐりえき) |
平群駅前風景 矢田丘陵 |
駅からの平群の山並み |
大きなサトイモ畑 |
平地にカラスウリの群生 |
近鉄電車・線路工事 |
★平群町は、西は生駒信貴山系、東は矢田丘陵に囲まれた山間の小平野である。竜田川が南流して大和川に注ぐ。矢田丘陵(やたきゅうりょう)は、奈良盆地の北西、生駒市・大和郡山市・平群町・斑鳩町にわたって存在し、南北に伸びる丘陵。標高は300m程度である。丘陵東側、南側は奈良盆地中央部に面し、丘陵上には松尾寺、南山麓には法隆寺、東山麓には矢田寺、東中腹には東明寺、北山麓には霊山寺等の古寺、名刹が多い。
★矢田丘陵(やたきゅうりょう)は、奈良盆地の北西に位置する丘陵の総称。 近畿地方には奈良県と大阪府を隔てる生駒山地が南北に走っていて、生駒山(642m)や信貴山(437m)がその代表である。 矢田丘陵は生駒山地の東方に、生駒山地と平行して南北に伸びており、北端はおおむね生駒市南田原町付近、南端はおおむね斑鳩町法隆寺付近とされる。南北の長さは約13キロメートル程度、標高は200メートル-300メートル程度。 全体に緩やかな地形であり、中心には松尾山(315m)があるほか、最も高いのは矢田寺から西に登った矢田峠の北方地点で、標高340mである。 生駒山地の東、矢田丘陵の西には生駒谷、平群谷が形成され谷底を竜田川が流れている。また、丘陵北部の東、西ノ京丘陵との間には富雄川が流れ富雄谷を形成している。 矢田丘陵の一帯では、東山麓には霊山寺 (奈良市)、矢田寺、東中腹には東明寺、丘陵上には松尾寺、南山麓には法隆寺など、史跡や有名寺社に富む。
平群坐紀氏神社(紀氏神社)
■平群坐紀氏神社(へぐりにますきのうじじんじゃ)は、奈良県生駒郡平群町にある神社。
平群坐紀氏神社の社名は「平群に鎮座する紀氏の氏神の社」の意で、紀氏もしくは平群氏の末裔である紀船守が、祖神の平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)を祀ったものであった。
延喜式神名帳では名神大社に列している。 中世には春日神を祀り「春日神社(春日大明神)」と称しており、近世には天照大神と八幡大菩薩が祀られていた。 現在の祭神は、過去に祀られたことのある全ての神である(都久宿禰は平群木菟宿禰のこと)。 近世には「辻の宮」または「椿の宮」とも称された。当社は元々、現在地より2kmほど南の「椿井」にあったものと見られている。 旧社格は村社。単に紀氏神社ともいう。 現在は天照大神・ 天児屋根命・都久宿禰・八幡大菩薩を祭神としている。
★平群坐紀氏神社の家型埴輪は、神主さんに聞けば発掘されて飾っていたが、地元の考古学の先生によれば非常に貴重な資料と言われ、今では祀るわけではないが、社をしつらえ入れていますとの事。
■平群氏(へぐりし)は、武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣(おみ)、後に朝臣。
『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。 (Wikipediaより)
長屋王・吉備内親王の墓
■長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、奈良時代の皇族。官位は左大臣正二位。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。 父は天武天皇の皇子の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
長屋王の邸宅跡だった「イトーヨーカドー奈良店」から、たくさんの木簡が発見され、長屋王一族が優雅な生活を送っていた事が分かっている。
★長屋王墓は、直径15m、高さ1.5m程の円墳。 北東にある夫人の吉備内親王の墓と共に双墓と呼ばれている。 奈良県平群町梨本の二つの円墳。
★神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。これが「長屋王の変」である。
■吉備内親王墓 奈良時代初頭、藤原氏の陰謀に倒れた左大臣長屋王の夫人の墓である。 直径20m程の円墳。 地元では「ウシヲ塚」と呼ばれている。
吉備内親王の |
道にはほら貝の |
吉備内親王の墓 |
吉備内親王の墓碑 |
吉備内親王の墓 |
稲刈りも終了 麦わら |
■吉備内親王(きびないしんのう、生年不詳(686年頃か?) - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、草壁皇子と阿倍皇女の娘で、文武天皇、元正天皇の妹である。 天武天皇の皇子である高市皇子の長子、長屋王の正妻となる。 天皇家の血筋が濃密な二人の組み合わせは、元明天皇・元正天皇と女帝が続く中で、重要な位置にあったことが伺える。 夫である長屋王の母は、元明天皇の姉、御名部皇女であり、信頼関係の厚い姉妹の子供同士の結婚であった。 文武天皇を支える皇室一族として、持統天皇に期待されていた人物である。 長屋王の変で自殺に追い込まれた。
三里古墳 と くまがしステーション
■三里古墳は、平群町三里にある古墳で、直径20mほどの円墳もしくは全長35mほどの前方後円墳で、六世紀中葉から後半の築造。墳丘の封土も石室の石もほとんどなくなっています。
玄室長4.4m、幅2.2m、高さ3m、羨道長4.6m、幅1.4m、羨道部には箱式石棺が残り、玄室から羨道を通り排水溝があります。 出土品 :家形石棺(二上山の凝灰岩) 馬具・鉄刀・須恵器・土師器。 紀氏の墓と想定される。
三里古墳入口の保存記念碑と歌碑 |
道にはキノコが |
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三里古墳の説明 |
三里古墳の大きな栗林 |
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三里古墳 |
小さな小川にも魚がいます |
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■道の駅 大和路へぐり くまがしステーション(国道168号(バイパス))
636-0903 奈良県生駒郡平群町大字平等寺75-1
道の駅への道すがら コスモスと鳩の群れ |
線路越しに見える道の駅 |
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鈴なりの柿の実 |
道の駅「 大和路へぐり くまがしステーション」と |
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道の駅 大和路へぐり くまがしステーション のレストラン でランチ |
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左近くん 長屋くん |
くまがしステーション |
平群は小菊の名産地 |
★「長屋くん」と「左近くん」は、平群町のイメージキャクター。長屋くんは同町内に墓がある奈良時代の左大臣・長屋王に、左近くんは同町出身の戦国武将・嶋左近にそれぞれちなんだ「ゆるキャラ」です。
平群神社
■平群神社は、「延喜式」神名帳記載社。五座の祭神とある。武内宿禰が神功皇后とともに朝鮮出兵前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。
平群氏の祖神を祀っていたと考えるのが自然である。平群の地域は興福寺の影響下に入り、春日神が持ち込まれているようで、 当社も春日大明神とも呼ばれていた。
当社の近くの三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式であること、 また椿井宮山古墳や烏土塚古墳との関連も考えられよう。 平群氏と同族とされる紀氏の居住地であったようで、共に武内宿禰の末裔とされる。
★延喜式内の古社で、俗に「西宮」と称し、近世には「春日大明神」と呼ばれていました。
竜田川 |
平群は小菊の名産地 |
黄色い稲穂が頭をたれて |
苦瓜 |
30cm位 さやえんどう? |
綺麗な朝顔 |
『日本書紀』仁徳元年紀に、仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入り、また同日武内宿禰にも男子が生まれ、鷦鷯(ミソサザイ、スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属に分類される鳥類の1種)が飛び込んできた。
この吉兆を交換して皇子を大鷦鷯尊、武内の子を木菟と名付けたとの説話が載っている。木菟宿禰は平群氏の祖である。
名前の取り替えの話は、応神天皇と笥飯(気比)大神との場合も応神天皇紀に出ている。 記紀に流れている万世一系の支配思想の構造は漫画であるが、それは書けないので、名前の交換などの表現をしたと考えるのが常識的だと思う。
鷦鷯(ミソサザイ)の名を持つ仁徳天皇の王朝と平群谷の平群木菟宿禰のコンビは、 やはり『日本書紀』で「小泊瀬稚鷦鷯天皇」即ち武烈天皇の即位前に武烈天皇は大伴金村と共に、平群真鳥・鮪を討つのである。
これ以降平群氏は衰亡していくのであるが、何故、鷦鷯が絡むのであろうか。
平群神社の遠景 |
平群神社 |
平群神社の由緒 |
平群神社の狛犬 |
平群神社・拝殿 |
平群神社の角のある狛犬 |
平群神社の鳥居 |
平群神社・石碑 |
平群神社の秋の色 |
★平群 木菟(へぐり の つく、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。 『日本書紀』では「平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)」「木菟宿禰」、『古事記』では「平群都久宿禰」、他文献では「都久足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称。 武内宿禰の子で、平群氏およびその同族の伝説上の祖とされる。『日本書紀』仁徳天皇元年正月3日条では、武内宿禰の子とする。『古事記』孝元天皇段では、建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第四子として記載されている。
★武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね、景行天皇14年 - 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
西宮古墳
■西宮古墳は、廿日山(はつかやま)丘陵の南側斜面中段に築造された一辺約35.6メートル・高さ約7.2メートル以上(南側)を測る(推定復元高さ約8メートル)の方墳。 二段のテラスを配して三段に築成されています。 玄室は奥壁・側石・天井石がそれぞれ一枚石で積み木のように組まれ、目地には漆喰が詰められています。 玄門部に竜山石製の刳抜式家形石棺身部が盗難を免れて残り、外面上下に帯状の突帯を設けています。 羨門部で須恵器坏蓋・高坏片が出土しました。 築造は飛鳥時代(古墳時代終末期の7世紀中葉-後半頃)。 平群中央公園内、奈良県指定文化財。
西宮古墳の入口 |
西宮古墳 シンボルの樽 |
西宮古墳の説明 |
西宮古墳の全容 |
この灯篭は何の意味が? |
西宮古墳の石室 玄室 |
西宮古墳の石室 玄室内部 |
大きなキイロスズメバチ |
生駒郡平群町西宮 |
石棚をもつ横穴式石室のある西宮古墳。 奥壁は、見事な一枚岩。 葛城市の神明神社古墳との相似性が注目されます。 ただ、周りは余りに整備されすぎていて、灯篭や樽など何の意味があるか等不自然な感じが否めない。
鳥土塚古墳が見える |
平群は小菊の名産地 小菊が沢山栽培されています |
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ヤエチョウセンアサガオ |
ぶどうの実 |
竜田川つり池(ヘラブナ) |
遠く雲の中に霞む山々は、葛城金剛山系の山々です。
鳥土塚古墳 と 竜田川の駅
■烏土塚古墳(うどづかこふん)は、奈良県生駒郡平群町春日丘にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
■竜田川駅(たつたがわえき)は、奈良県生駒郡平群町西宮にある、近畿日本鉄道(近鉄) 生駒線の駅。小さな駅です。電車はワンマンカーが走っています。
近鉄・竜田川駅 |
近鉄・竜田川駅前風景 |
近鉄・竜田川駅 ホーム |
★古今和歌集、百人一首や落語によく登場する竜田川(たつたがわ)は、大和川水系の支流で奈良県を流れる一級河川。 上流を生駒川(いこまがわ)、中流を平群川(へぐりがわ)とも称する。生駒市の生駒山(標高642m)東麓を源として南流、流域に生駒谷、平群谷を形成している。 生駒郡斑鳩町で大和川に合流する。 古よりの紅葉の名所として名高い。
ちはやぶる神世も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは (古今和歌集 在原業平)
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり (後拾遺和歌集 能因法師)
近鉄:大和八木・田原本・王寺
■平群の道へは、2012年10月4日、近鉄電車で名張⇒大和八木⇒田原本(西田原本)⇒王寺⇒平群(竜田川)の経由で行き帰りを。
近鉄・大和八木 |
近鉄・大和八木 プラットフォームのパン屋さん |
近鉄・大和八木 |
近鉄・田原本駅 |
近鉄・西田原本駅 |
田原本の観光案内 桃太郎 |
王寺を行くJR(大阪、奈良) |
近鉄とJRの王寺駅前 |
王寺駅前に賑わい |
近鉄・王寺駅 JRは左手 |
近鉄・王寺駅 |
王寺付近の大和川 |
■田原本町(たわらもとちょう)は、奈良県磯城郡の南端に位置する町(中和地区)。古代の大和国城下郡鏡作郷・室原郷・黒田郷・賀美郷、十市郡飯富郷の地で、鏡作神社(八尾)・多神社など著名な延喜式内社が鎮座する。また弥生時代の代表的遺跡である唐古・鍵遺跡(国の史跡)を有する。
■王寺町(おうじちょう)は、奈良県北葛城郡北端に位置する町。王寺の名は、聖徳太子が建立した放光寺(片岡王寺)に由来するとされる。古代の大和国葛下郡品治(ほむち)郷の地で、延喜式内・片岡神社が鎮座する。
王寺の地名の由来は先述の片岡王寺からという他にも、「品治」が転訛したという説もある。 放光寺と同じく、聖徳太子が建立したと云われる達磨寺が同町本町にある。
王寺駅には西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線・和歌山線、近畿日本鉄道生駒線および田原本線(新王寺駅)が接続し、県北部のターミナルの一つとなっている。
名張・万葉の会|平群の道 |