日本の風景|奈良県・宇陀市 女人高野、阿騎の道 |
奈良県・宇陀市
宇陀市は室生寺、大野寺、山部赤人の墓、毛原廃寺跡(山辺郡山添村毛原)があります。 温故知新の精神から、身の回りに見落としてるものを色々と見直してます。 宇陀は昔から金属の採取ができる山地である。赤い土が今でも多く、水銀鉱脈があり、現在でも金属会社が残ってます。 また、「宇陀」という地名は由緒ある地名だ。古事記や日本書紀にも登場します。「和名抄」は大和国「宇太(うた)」郡と訓じてる。 「古事記」に「宇陀の穿(うかち)」、「日本書紀」に「菟田下県」・「菟田高倉山」と見える。 「国の始まり大和の国、郡(こおり)の始まり宇陀郡(うたごおり)」と言われるほど、日本で最も古い地名とされてます。 「ウダ」は、「ウラ(浦)」や「ウナ(海)」と同じ意味で、宇陀の人たちこそが、山奥にまで押しやられた海人族である倭人の末裔なのではないでしょうか。古代へのロマンは尽きません。 宇陀・阿騎野は記紀の場所、サッカーの八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)。 室生寺は女人高野。 切手以外の写真はクリックで拡大。
宇陀市の索引[ 1.室生区・深野と上笠間|2.室生区・大野寺|3.女人高野・室生寺|4.室生龍穴神社と奥の院・室生龍穴|5.室生区・安産寺|6.宇陀区本郷の又兵衛桜,かぎろひの丘|7.榛原区の仏隆寺|8.宇太水分神社|9.大宇陀・松山地区町家|10.榛原区・八咫烏神社|11.毛原廃寺跡|12.その他の名所 ]
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「青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」(あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり)小野老 萬葉集三-328
あをによし は、奈良の「枕詞」。あをに、は緑青(ろくしょう)で顔料につかってた。「よし」はその産地をほめた言葉。
■「宇陀」という地名自体は万葉の時代から存在し、万葉歌人・柿本人麻呂が現在の大宇陀の阿騎野で「東の野にかぎろひの立つ見へて返り見すれば月傾きぬ」という秀歌を詠んだことは非常に有名である。大宇陀は城下町としても栄えた。榛原も万葉の時代からその名を残してますが、伊勢街道が本街道と青越え道に分岐する分岐点にある宿場町として近世に栄えた。本居宣長が宿泊した宿など、歴史的建造物も現存する。また、菟田野、室生も歴史上古くから存在し、多くの遺跡や文化財が存在する。
室生区・深野と上笠間
■山田洋次監督らが選ぶ「にほんの里100選」に選定された「宇陀市深野地区」。三重県名張市を一望する県境の里。山腹に棚田が広がり季節によっては住民総出で植えた彼岸花やアジサイが咲く。ササユリ保護やビオトープ作りなど地域で様々な取り組みが行われてます。
■672年に起こったクーデター「壬申の乱」の時に、大海人皇子たちは吉野を出て、宇陀(榛原)から室生・大野の山を越えて名張へ向かう道には,現在の国道165号ではなく,大野の西にある山道を尾根づたいに宇陀郡室生村深野地区を通って行ったとも考えられる。深野地区には伊勢に仕える斎王(天皇の名代として伊勢神宮に奉仕する皇女)
が通った道がある。ここを過ぎて国道165号に向かい,鹿高神社を左に見て宇陀川に出ると,白鹿の伝説がある名張の安部田に到達する。 この写真の道です。
※モリアオガエル(森青蛙、学名:Rhacophorus arboreus)は、両生綱無尾目アオガエル科アオガエル属に分類されるカエル。日本の固有種で、本州と佐渡島に分布する。体長はオスが42-62mm、メスが59-82mmほどで、メスの方が大きい。山地で多く見られ、非繁殖期はおもに森林に生息するが、繁殖期の4月から7月にかけては生息地付近の湖沼や水田、湿地に集まる。 絶滅寸前(絶滅危惧種I類)
- 奈良県 レッドリストの指定。
室生区・大野寺
■大野寺の本堂の弥勒菩薩立像の脇に立つ重要文化財の木造地蔵菩薩立像は「身代わり地蔵」と呼ばれ、無実の娘を火あぶりの刑から救ったという伝説が残ってる。 また、寺伝では、681年(白鳳9年)に役行者が開き、824年(天長元年)空海が室生寺を再興する時、この地を西の大門と定め一宇を建て、弥勒菩薩を安置、「慈尊院弥勒寺」と称したと伝える。 宇陀市室生区大野。宇陀市室生区・大野寺は、奈良県を代表する桜の名所の1つ 大野寺は室生寺の西の大門。
女人高野・室生寺(Muroji Temple)
■女人高野・室生寺(Muroji Temple)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。室生寺は奈良時代の末期、この聖なる地で山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が五人の高徳な僧によって行われ、これが卓効のあったことから、勅命によって国家の為に創建されたのが室生寺。室生寺は格式高い真言密教の道場として信仰を集め、また女人の参詣を許された真言寺院『女人高野』として親しまれるとともに、四季それぞれの大自然に優しく調和した伽藍は、女人高野の名に相応しい清々しさを永く伝えてます。 本尊は釈迦如来である。 奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院。 宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。春には桜と石楠花で有名です。 奈良県宇陀市。
[大和の風景|奈良・宇陀 女人高野・室生寺(Muroji Temple)の写真と切手]
室生龍穴神社と奥の院・室生龍穴
■室生龍穴神社は、室生寺よりも古い歴史をもつ古社で、水の神「龍神」が祀られてる。奈良時代から平安にかけて朝廷からの勅使により雨乞いの神事が営まれた。龍神が棲むと伝わる洞穴「妙吉祥龍穴」は龍穴神社の上流にあり、古代から何よりも神聖な「磐境」(神の鎮座する区域)とされてる。
■式内社 大和國宇陀郡 室生龍穴神社 旧村社、御祭神 善女(ぜんにょ)竜王 、配祀 天兒屋根命 大山祇命 水波能賣命 須佐之男命 埴山姫命 で、奈良県宇陀市にある。近鉄大阪線・室生口大野駅の南東7Kmほどの室生に鎮座。 境内の奥に入母屋造の拝殿があり、拝殿の後方、朱の瑞垣の中に、朱の美しい本殿。瑞垣の前に、小さな境内社の祠(道主貴社、手力男社)が祀られてる。
室生区・安産寺
■奈良県宇陀市室生町三本松にある安産寺。ここにある地蔵菩薩像は、その穏やかなお顔からか、子安地蔵としてご利益があって、ご拝顔して腹帯を授かると安産になるといいます。平安時代の初期の榧材一本造りで高さは177.7cmもあり、重要文化財です。文化庁の指示により建立した収蔵庫に安置さ
れてるので連絡してお堂を開けてもらいます。
室生区・安産寺 |
室生区・安産寺境内 |
また、1月24日の初地蔵会と8月第4日曜日の本尊御命日には特別御開帳法会が営まれるほか、毎月命日の9日午前中にも御開帳してます。場所は近鉄・三本松駅の裏山。 地元の公民館と一緒。 全国からお参りに来るとの事です。 |
宇陀区本郷の又兵衛桜,かぎろひの丘
■大宇陀にある又兵衛桜は、樹齢300年ともいわれるしだれ桜で、枝振りは見事の一言! 瀧桜(たきざくら)とも呼ばれてます。ちょうど背景に桃の花も咲き、満開の見頃には写真家、観光客で大にぎわいとなります。本郷の瀧桜とも呼ばれる。2000年のNHK大河ドラマ「葵徳川三代」のオープニング画面で使用。
又兵衛桜の名の由来は、大阪夏の陣で活躍した豊臣方の後藤又兵衛が可愛がってた桜という言い伝えによる。 又兵衛は、豊臣家崩壊後、この地で暮らし、再興の時を待ったといわれるが、桜はその時の後藤家屋敷跡にある。後藤 又兵衛は、黒田孝高(如水)・豊臣秀頼の家臣。
■かぎろひの丘は、「大宇陀高校前」バス停でバスを降りると、近くに信号機のついた交差点があり、周辺の観光スポットがデカデカと表示してある。その交差点を右に曲がって200mも進めば、さして高くもない丘の登り口がある。万葉公園のある「かぎろひの丘」の登り口です。大海人皇子の孫にあたる軽皇子(文武天皇)とともに狩りに訪れ,夜が明ける様子を歌った。
榛原区の仏隆寺(ぶつりゅうじ)
■仏隆寺(ぶつりゅうじ)は奈良県宇陀市榛原区赤埴にある真言宗室生寺派の寺院。山号は摩尼山。本尊は十一面観音。室生寺の南の大門として本寺と末寺の関係にある。
空海(弘法大師)が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したといわれ、大和茶発祥の地とされる。平安時代前期の嘉祥3年(850年)に空海(弘法大師)の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝わるが、それ以前に奈良・興福寺の修円が創建したともいわれる。 榛原から曽爾・御杖に向かう国道369号線の左側。 千年桜はヤマザクラとエドヒガンの雑種であるモチズキザクラの一種。近鉄大阪線「榛原」駅より 上内牧・曽爾村役場前行きバスで「高井」下車 徒歩30分。 参道の入口にお地蔵さんが。
平井大師山石仏群は、菟田野区の北東、平井の大師山に残る四国八十八カ所を模した霊場。
宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)
■宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)は、奈良県宇陀市にある神社。芳野(上社)・古市場(中社)、下井足(下社)の3社がある。 古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、大和の東西南北に祀られた水分のうち東に当たるのが中社とされる。 延喜式内・宇太水分神社(古市場、うだみくまりじんじゃ)は、奈良県宇陀市菟田野区(うたのく)にある神社。芳野(上社)・古市場(中社)、下井足(下社)の3社がある。古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、第十代崇神天皇の勅祭で、大和の東西南北に祀られた水分のうち東に当たるのが中社とされる。2003年の社殿の塗り替えの時にわずかに残された色彩が発見されそれを元に復元された。第一殿の棟木に元応2年(1320年、鎌倉時代)の墨書があり、他の2棟も同時の建立と推定される。 3棟とも春日造。 菊の紋章が天幕に見えました。
大宇陀・松山地区町家
■宇陀市松山重要伝統的建造物群保存地区:宇陀松山の象徴である、古い町家が並ぶ風景。 宇陀松山城の西側の地区は近世初頭の敷地割と江戸時代から明治時代の商家が数多く残る中心街です。 しかし、その造りひとつひとつにも個性があり、建てられた時代背景が色濃く反映されています。
※宇陀松山城は、大和国宇陀郡(現在の奈良県宇陀市)にあった日本の城。平成18年(2006年)に国の史跡に指定されている。別名は秋山城(あきやまじょう)や神楽岡城(かぐらおかじょう)。
城下町は重要伝統的建造物群保存地区に商家町として選定されており、現在も優美な町並みを残している。 宇陀松山城は宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として古城山に山城を築いたのに始まる。
交通の要衝となっていた宇陀地域が、町として形を成し始めるのは戦国時代、秋山庄の荘官から国人領主に成長した秋山氏が城を築き、その城下町として山腹に栄えたのが現在の松山の起源であると言われています。
その後、秋山氏は豊臣氏に追放され、秋山城には秀吉の弟、秀長の家臣が入り、この頃に城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の骨格が整えられました。この時に阿貴町から松山町に名前が変えられたと考えられています。
元和元年に城は壊されましたが、宇陀松山藩となってからは長山に藩屋敷を置き、織田信長の次男信雄(のぶかつ)が初代藩主となり4代にわたって松山藩を治めました。
榛原区・八咫烏神社
■八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)は延喜式神名帳記載の式内社で、我が国の草創期の正史のひとつである『續日本紀』に文武天皇の御代、「『慶雲二年(西暦七〇五)九月丙戌』、『大倭國宇太郡』に『八咫烏社』を祭る」と記述が見え、これが八咫烏神社の創祀となってる。
御祭神は建角身命(たけつぬみのみこと)です。建角身命とは伝承によると、神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、天皇の勝利に貢献した「八咫烏」の化身と伝えられてる。 このような御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により社は大いに栄えたと伝えられてる。
場所は奈良県宇陀市の宇太水分神社の下井足の傍にあります。 八咫烏(やたがらす)は現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられてる。
八咫烏神社の拝殿 |
八咫烏神社の拝殿脇の |
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榛原区・八咫烏神社の由来 |
八咫烏神社の鳥居 |
八咫烏神社の境内の石碑 |
毛原廃寺跡 国指定史跡に指定
■毛原廃寺跡(山辺郡山添村毛原)は、金堂・塔・中門・南門などに精巧な加工の施された礎石が遺存する奈良時代の寺跡で、大正15年10月20日に史跡指定されている。 昭和54年に追加指定するのは、本廃寺跡の北東約3キロメートル、名張川左岸に接する丘陵斜面にある窯跡で、昭和53年10月、奈良県教育委員会が発掘調査を実施して、出土瓦から毛原廃寺所用瓦を焼成した窯であることが判明したものである。
笠間川ヲ南ニセル山麓ニ在リ造立ノ由緒未明ナラザルモ殘存セル礎石ノ規模及配置遺瓦ノ文樣等ニヨリテ奈良朝時代ノ大寺ノ遺阯トシテ見ルベキモノナリ (文化庁の国指定文化財等データベースより)
奈良時代(8世紀)の寺院跡「毛原廃寺(けはらはいじ)」(国史跡、山添村)は山間部にありながら、唐招提寺金堂(奈良市、国宝)にも匹敵する規模の金堂のほか、中門や南門を持つ大伽藍だった。
「毛原廃寺跡六体地蔵」は、毛原廃寺の境内の中に位置しながら、製作年代は室町時代の後期と思われ、廃寺になった後もここが信仰の地として語り継がれてきた証のような存在だ。
「山辺の御井を見がりて 神風の 伊勢の処女ども 相見つるかも」(万葉集巻一・八十一)―和銅5(712)年に長田王が詠んだこの「山辺の御井」のはっきりとした所在は、いまだ分かっていないが、この毛原廃寺の礎石群の中に伝承として残る「山辺の御井」が本物とすれば、長田王が実際に訪れ、詠んだであろうこの歌の意味が、場所とともに真に心に響くものとして、訪れた人のなかに残るのではないだろうか。
★「山辺の御井」の候補地
奈良県山添村の毛原廃寺
奈良市都祁の都祁水分(つげみくまり)神社の御井
三重県鈴鹿市の大井神社近辺の「山辺の御井」
三重県鈴鹿市山辺町(やまべちょう)
三重県鈴鹿市石薬師町(いしやくしちょう)
三重県一志郡(いちしぐん)嬉野町(うれしのちょう)宮古
三重県久居市(ひさいし)新家町(にのみちょう)雲出(くもず)川流域の山野の地
宇陀市のその他の名所
弁財天石楠花 金刀比羅神社・・・