日本の写真・風景|奈良・華厳宗総本山・東大寺 お水取り・・ |
東大寺
世界遺産の東大寺は、奈良の大仏や二月堂のお水取りで有名な華厳宗総本山のお寺です。 8世紀に再興された東大寺の金堂は世界最大の木造建物です。 境内には大仏殿をはじめ、お水取の二月堂、三月堂、四月堂、開山堂、四天王像を安置する戒壇院等。 東大寺・大仏殿は江戸時代の再興で世界最大の木造建築
。南大門は鎌倉時代再興で、仁王は運慶、快慶の合作。 草創以来の堂舍・・・法華堂、転害門(てがいもん)、経庫、正倉院があります。 東大寺は、仏の加護により国家を鎮護しようとした聖武天皇の発願で建立されました。751年に金堂(大仏殿)が完成、翌年には盛大な大仏開眼供養が行われ、伽藍全体がほぼ完成したのは奈良時代末でした。その造営は国の総力を挙げた大事業であり、空前絶後の巨大な建物群が建設されました。
法華堂は本尊・不空羂索(けんじやく)観音像や日光・月光両菩薩像などが安置され、「天平仏」の宝庫として知られる。 切手も交えてご紹介します。 古都奈良の文化財(世界遺産登録年:1998年) 最下段に東大寺のニュースも。
東大寺もパワースポット。 平城遷都1300年祭ホームページ
注意)切手は拡大しません。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。 |
ページ内索引 { 大仏殿 南大門|伽藍|松明調進 }
■「日本三大大仏」とは、奈良県奈良市の東大寺にある奈良の大仏(「盧舎那仏坐像」)と神奈川県鎌倉市の高徳院(国宝の銅造阿弥陀如来坐像、いわゆる鎌倉大仏が本尊)にある鎌倉大仏(詳細)は、「日本三大大仏」という概念が語られた時代の中では、常に第1の大仏、第2の大仏に挙げられている。 しかし、第3の大仏は時代や地域によって変遷・変化し、定まりがない。 因みに、奈良の大仏、その大きさ/
座高, 1498cm/ 顔の長さ, 533cm/ 顔の幅, 320cm/ 目の長さ, 102cm/ 鼻の幅, 98cm/ 鼻の高さ, 50cm/
口の長さ, 133cm/ 耳の長さ, 254cm/ 手のひらの長さ, 148cm です。
東大寺・大仏殿 南大門
■東大寺・大仏殿(金堂)は創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建された。 江戸期には柱とする材が調達できず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした。 そのため、創建時に11間(けん、86m)あったが7間(57m)となった。 現在でも世界最大級の木造建築であるが、往時の壮大さがうかがえる。 毎年、大晦日から元旦に正面唐破風(からはふ)下の観相窓が開かれ、大仏尊像のお顔を外から拝しながら新年を迎えることができる。 大仏様も無料観覧で窓からのぞく神々しい顔には仕事の憂さも吹っ飛ぶようです。大仏の正式名称は「盧舎那仏坐像」、大仏殿の正式名称は「東大寺金堂」で世界遺産にも登録されています。
.
奈良・東大寺・大仏殿 |
毎年、大晦日から元旦にかけて |
|
奈良・東大寺金堂の盧舎那仏坐像と窓 |
★Toodai-ji (東大寺, Eastern Great Temple), is a Buddhist temple complex located in the city of Nara, Japan. Its Great Buddha Hall (大仏殿 Daibutsuden), the largest wooden building in the world, houses the world's largest bronze statue of the Buddha Vairocana, known in Japanese simply as Daibutsu (大仏). The temple also serves as the Japanese headquarters of the Kegon school of Buddhism. The temple is a listed UNESCO World Heritage Site as "Historic Monuments of Ancient Nara", together with seven other sites including temples, shrines and places in the city of Nara. Sika deer, regarded as messengers of the gods in the Shinto religion, roam the grounds freely |
|
正面唐破風(からはふ)下 |
||
東大寺大仏殿と大仏 |
||
東大寺の賓頭盧尊者像 |
奈良・東大寺大仏殿 |
■世界遺産・東大寺大仏殿には、大仏さまの鼻の穴と同じ大きさの穴があいた柱があります。この穴をくぐり抜けと、ご利益があると言うことで、この“柱くぐり”が、今や外国人観光客にたいへんな人気。穴の大きさは30cm×37cmで、柱の直径は120cm。 |
■賓頭盧尊者、おびんずるさまは東大寺大仏殿の庇の下、入り口においでです。なんとも近付きがたいおどろどろしい姿形をしておいでですが、とっても霊験あらたかなお方です。体の悪いところをなでると治ってしまう「なで仏」さまです。が、なぜか内陣にいれてもらえず外に安置されています。おびんずるさまが外に安置されているのには実は訳があります。お酒が好きで、お釈迦さまとの「禁酒」の約束を破ったので、生涯、内陣にはいることを許されなかったとか。 |
||
■南大門:天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。 正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。 大仏殿にふさわしいわが国最大の山門です。阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものであると言われています。 |
国宝 |
|
奈良・東大寺の |
東大寺南大門(国宝) の国宝 金剛力士(仁王)像・阿形 |
東大寺南大門(国宝) の国宝 金剛力士(仁王)像・吽形 |
Openwork playing flute Bodisattva in Octagonal Lantern Tower (8th century). |
||
国宝 音声菩薩 |
国宝 八角燈籠火袋羽目板 音声菩薩像 :東大寺所蔵 |
■国宝 八角燈籠火袋羽目板(音声菩薩像) 東大寺金銅八角燈籠は、日本最大かつ日本最古の灯籠として国宝にも指定されています。東西南北4面には獅子の透かし彫りが、また北西・南西・北東・南東側の4面にはそれぞれ「音声菩薩」が彫られており、北西側のものは尺八を吹き、南西側のものは横笛を、北東側のものはシンバルのような楽器を、南東側のものは細い竹の部材を集めて作った楽器を奏でる姿が描かれています。 |
大仏殿・木造の |
大仏殿・四天王の |
大仏殿・四天王の |
大仏殿・木造の |
■千里眼とは、その場にいながら千里先をも見通せる超能力、及び、その能力を持つ者の名前。透視と呼ばれることもある。浄天眼(じょうてんがん)とも言う。 広目天がこの能力を行使出来たとされるほか、媽祖に使役されている鬼に、この能力を持つ千里眼と呼ばれる鬼がおり、順風耳と呼ばれる鬼と共に一対で仕えている。 |
|
■如意輪観音(にょいりんかんのん)、梵名チンターマニチャクラは、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つで、六観音の一尊に数えられます。 三昧耶形は如意宝珠、紅蓮華。種子(種字)はキリーク(hriiH)。如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意としています。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。古来著名なものは、滋賀・石山寺の秘仏本尊像である。飛鳥の岡寺の本尊像も二臂です。 |
||
東大寺・大仏殿、東大寺・南大門、東大寺・大仏蓮弁毛彫、東大寺・戒壇院広目天 |
||
754年(天平勝宝6)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。 |
東大寺 伽藍
■南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。
大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。
東大寺・正倉院 |
■正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。「古都奈良の文化財」の「東大寺」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。 元は東大寺の倉庫であったが、明治以降、国の管理下におかれ、内務省、農商務省と所管省庁は変遷し、1884年宮内省所管となった。 |
|
■五絃琵琶「螺鈿紫檀五絃琵琶」:この琵琶は世界で唯一残る5弦の琵琶で、長さ108センチ、幅31センチ、厚さ8センチ。ラクダに乗って琵琶を弾く人の姿がデザインされている。 螺鈿は、夜光貝やアワビなどの貝殻を加工して木地などにはめ、研ぎ出す装飾技法。北村さんの検証によると、琵琶を弾く人やラクダなどは厚さ2ミリ程度の夜光貝で表現。人の足、敷物部分は縦5センチ、横3・9センチ、ラクダの下半身などの部分は縦6・1センチ、横2・5センチの大きさの貝が使われ、これらは宝物中でも最大級の貝になるという。 |
||
正倉院・麟鹿草木夾纈屏風 |
正倉院宝物の一つである |
五絃琵琶「螺鈿紫檀五絃琵琶」(正倉院宝物、奈良時代) |
■奈良・正倉院宝物「羊木﨟纈屏風」は、上端には花喰い鳥、中央には羊と樹木、下段には山岳を配した、ササン朝ペルシャ風の構図となっており、樹木の幹には2匹の小猿、山岳中には立ち止まって見返る1匹の仔鹿が表されています。この屏風に描かれている羊の大ぶりの巻き角や、連珠文様の胸帯をかけている姿態は、エジプトのアンチノエ発見のササン朝期の羊文錦と通じるところがあるともいわれています。下端には「天平勝宝三年十月」(天平勝宝3年は751年)と墨書があり、当時の税(租庸調)の一つである調のあしぎぬの銘識の一部ではないかといわれています。 |
||
昭和すかしなし切手「らでん模様」正倉院宝物の花鳥のらでん模様(1949年) |
第2次新昭和切手「らでん模様」正倉院宝物の |
|
東大寺・二月堂 |
■東大寺二月堂は旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。 |
東大寺・西大門跡 |
■雲井坂は、南都八景のひとつ「雲井坂の雨」で有名。南都八景に詠まれた当時は、急な登り坂に霧雨が降る様が美しかったのでしょう。この付近は「押上郷」といいます。雲井坂で荷車を押し上げたからついた名前です。東大寺西大門があったころ、この門に掲げられた額を舐めに毎夜のように龍が舞い降りました。この龍が雲を巻き上げたことから雲居坂の名がついたと言うことです。奈良公園の北、東大寺の西。 |
||
■法華堂は、東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂観音を本尊として祀るための堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。 |
東大寺・法華堂 |
|
■東大寺・戒壇院:754年(天平勝宝6)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興された。戒壇院の塑造四天王立像(国宝)
は法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の1つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照がみごとである。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であったので、今ある四天王像は後世に他の堂から移したものであることが明らかである。 |
||
東大寺・戒壇院広目天像 |
国宝 東大寺の転害門 |
国宝 東大寺の転害門 |
月光菩薩(東大寺) |
国宝 誕生釈迦仏立像及び灌仏盤 :東大寺所蔵 |
■国宝 誕生釈迦仏立像及灌仏盤 奈良時代(8世紀)誕生釈迦仏は、両手で天と地を指し「天上天下唯我独尊」と唱えたという、釈尊の誕生時のエピソードにもとづく。4月8日の灌仏会の本尊として制作されたため、遺例は多い。 あどけない顔だちや自然な体躯の表現は7世紀末頃の金銅仏の特徴である。 誕生釈迦仏立像及び灌仏盤 国宝 銅造鍍金 8世紀中頃 像高47.5cm 灌仏盤径89.2cm |
東大寺(Todaiji Temple )・誕生釈迦仏立像(国宝)、西大寺・愛染明王坐像(重要文化財) |
東大寺の「七重塔」/大阪万博「古河パビリオン」で再現 |
|
■東大寺・七重塔:741年(天平13年)に聖武天皇より各国に国分寺をおき、それぞれ七重塔一基を造る という勅命がだされ、各国それぞれ国分寺と七重塔は建立された。かって東大寺にも東西に100メートルの七重塔があり、東大寺の「七重塔」は、1970年に大阪・千里で開催された日本万国博覧会の「古河パビリオン」で再現されましたその後取り壊され、東大寺に相輪だけが残っている。 東大寺や各国の国分寺に建てられた七重塔,百済大寺の九重塔,西大寺の八角塔などもあった。 密教の伝来にともなって多宝塔が始められ,平安時代には塔の造立はすこぶる多く,神社内にも建てられるようになり,平安時代末の京都では百塔巡礼が行われるほど数多くの塔が建っていた。 |
||
■「なら燈花会」とは、1300年前に都として栄えた奈良。 広大な自然の中に古代日本のおもかげが今も残る。そんな奈良にふさわしい、どこか懐かしさを感じ、心を癒してくれるろうそくのやさしい灯り。『なら燈花会』はゆったりと時の流れる世界遺産の地、奈良に集う人々の祈りをろうそくの灯りで照らし出します。毎年、奈良公園を中心にお盆の時期に開催されています。 |
||
東大寺前の「なら燈花会」 |
東大寺前の「なら燈花会」 |
奈良公園・浮見堂と |
The beginning of building a temple where the huge Toodai-ji complex sits
today can be dated to 728, when Emperor Shoomu established Kinshoosen--ji
(金鐘山寺) as an appeasement for Prince Motoi, his first son with his Fujiwara
clan consort Koomyooshi. Prince Motoi died a year after his birth.
During the Tenpyoo era, Japan suffered from a series of disasters and epidemics.
It was after experiencing these problems that Emperor Shoomu issued an
edict in 741 to promote the construction of provincial temples throughout
the nation. Toodai-ji (still Kinshoosen-ji at the time) was appointed as
the Provincial temple of Yamato Province and the head of all the provincial
temples. With the alleged coup d'etat by Nagaya in 729, an outbreak of
smallpox around 735-737, worsened by consecutive years of poor crops, then
followed by a rebellion led by Fujiwara no Hirotsugu in 740, the country
was in a chaotic position. Emperor Shoomu had been forced to move the capital
four times, indicating the level of instability during this period.
東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を弔うために、神亀5年(728)に建てられた金鐘山寺(きんしょうさんじ)が、天平13年(741)に国分二寺(金光明寺(きんこうみょうじ)・法華寺(ほっけじ))建立の詔が発せられたのに伴い、昇格してなった大和国金光明寺を前身とする。続いて天平15年(743)に盧舎那(るしゃな)大仏造立(ぞうりゅう)の詔が発せられ、天平17年(745)より造像工事が始まった。天平21年に完成、同時に大仏殿の建立も進行して、天平勝宝4年(752)4月に開眼(かいげん)供養会が営まれた。
三重県・名張市赤目・一ノ井 極楽寺
■奈良東大寺・二月堂において 毎年3月12日に行われるお水取り行事に、松明講と共同して760年以上もの長きにわたり、松明を送り続けているお寺です。 江戸時代初期の著書「伊水温故にも、伊賀一ノ井の地に住し、後に若狭の南無観長者と協力し、東大寺・二月堂を再興した道観長者の開基になると記されています。 また、寺山に今も長者の護持仏であったと言われる不動明王と二月堂本尊と同じ十一面観世音が祠られています。 極楽寺HP
★松明調進コース:名張市・赤目・極楽寺→坂之下→笠間峠→宇陀市・上笠間→小原→奈良市・小倉町→針ケ別所町→都祁馬場→一台峠→南田原町→横田町→茗荷町→矢田原町→春日宮天皇稜→鉢伏峠→鉢伏町→鹿野園町→高畑町→春日野町→東大寺・二月堂
三重県・名張市赤目・一ノ井 極楽寺
極楽寺 本堂 |
極楽寺 境内 |
東大寺・二月堂お水取り |
名張市赤目町一ノ井の極楽寺の山門と本堂 |
||
★松明調進は、奈良東大寺二月堂で行われる修二会(お水取り)に用いられる松明木を納める伊賀一ノ井松明調進行事。土地の道観長者が晩年、私有の田地を東大寺に寄進し「その作得(小作米)をもって松明を作り、毎年二月堂修二会に献上せよ」と遺言したことに始まったとされています。770年以上続く行事で、当時の様子を垣間見ることができる市の「無形民俗文化財」です。極楽寺(名張市赤目町一ノ井)所有の松明山から樹齢100年ほどの節のない檜を伐採。昔からの規格に合わせて丁寧に調製していき、20束の松明に仕上げます。3月12日、松明木を担いで奈良県との県境にある笠間峠を越えます。東大寺で1年間乾燥させた上で、達陀(だったん)松明が作られ、翌年のお水取りの際、二月堂内陣で執り行われる韃靼という荒行で煩悩を焼きつくす松明として用いられます。
松明の形やくくり方には古来の規格があり、仕上がった20束の松明はそのまま極楽寺本堂に納められ、その後東大寺に納められます。
(コース)名張市赤目町一ノ井にある極楽寺→坂之下の入り口の地蔵様(道標)→黒田坂→宇陀市室生上笠間峠・・・奈良・東大寺 注)松明調進に関する写真は名張市郷土資料館の展示物から
★東大寺二月堂の閼伽井屋の屋根には鵜を模した瓦が載っています。実忠和尚が修二会を行うにあたり、全国の神様に来臨されるよう請うた際、若狭の遠敷明神は釣りをしていた事から参集に遅れてしまい、そのお詫びとして御本尊に供えるお香水を送る約束をされました。すると、二月堂の下から、白と黒の鵜が飛び立ち、そこから綺麗な水が湧き出したということです。
〔道観塚〕かつて一ノ井の里に道観長者と呼ばれる者がいた。近隣に広大な田畑を持つ長者であったが、強欲で領民を苦しめながら贅沢に耽っていた。ある時、突然長男が急な病で亡くなると、立て続けに家族が死んでしまった。その悲惨な死を目の当たりにした長者は、ようやく仏心に目覚めた。しかし時既に遅く、長者自身も死の床にあった。そこで長者は遺言として、再建される東大寺に私有地を寄進し、二月堂でおこなわれる修二会に使われる大松明を欠かさず調進することとしたのである。
作成にあったては、Wikipediaや当地HP・パンフレット等を参考にしています。
日本の写真・風景|奈良・華厳宗総本山・東大寺 お水取り・・ |