名張・万葉の会|奈良県桜井市 大伯皇女にゆかりの 天神社奥宮|天神社|化粧川・化粧壺 |
大伯皇女 (大来皇女)
大来皇女 大伯皇女
①生涯:661年2月12日-702年1月29日
②父母:父:天武天皇、母:大田皇女
③兄弟:十市皇女、高市皇子、大来皇女、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、他
④名前:筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯(おおく)の 海の上(現・岡山県瀬戸内市の沿岸郡)を通過している時に誕生。大津皇子の名も筑紫の娜大津(なのおおつ)から。
⑤斎王:673年5月5日- 686年12月6日 斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)として泊瀬斎宮(在所不明)に入斎院、674年に伊勢国に下向した。
⑥天武天皇は、686年9月9日に病死、10月2日に実弟・大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に訳語田(おさだ、桜井市)の自邸にて自害。
⑦万葉集巻第2 165〜166番(大津皇子が二上山に移葬されたとき、大来皇女が作った歌)
a.うつそみの人なる我(われ)や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を
弟(いろせ)と我(あ)が見む
b.磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに
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天神社奥宮(笛吹奥宮)
■祭神は笛吹大明神
火雷神と笛吹連の始祖天香山命。火雷神は火之迦具土神ともいい火の神。天香山命は石凝姥命ともいわれ、天照大神が天の岩戸にかくれたとき、天香山の土を掘って鏡を作り、竹で笛を作って吹き鳴らした、と神話に伝えられている。古代、王朝の笛師をつとめた笛吹連がこの地に居住、天香山命を自家の祖神として祀ったのが始まり。
~笛吹大明神の由來 ~
笛吹山の礎に笛吹淵あり、又天磐淵ともいう、谷川に架れる橋を天の磐橋という、笛吹大明神天香久山の竹を採りて笛を造り、笛吹鳴して天照大御神へ神楽の舞を献りて御祭されし所なりと伝う。
天照皇大神宮御遷座のとき、御先導神である猿田彦神の降臨の地とも伝う。
猿田彦神の碑 |
案内板には以下のように記されています。 |
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奥宮の手水鉢 |
大和川(泊瀬川)の源流 |
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山中には磐座(とある情報では巨石が座すという)があるとされており(未確認)、社殿等は一切無く鳥居のみ。急斜面を背にしてその際に鳥居があるため少々滑稽か。むしろ恭しい社殿や祠などを設けるよりも、より原始的な姿であり、神が宿るさまを直接に感じることができるかもしれません。 |
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奥宮の鳥居 |
笛吹大明神 |
天神社笛吹奥宮の案内図 |
小夫天神社の奥宮。ご神体である「斎宮山」ではなく、こちらは「笛吹山」がご神体。直線距離にして600~700mほど離れています。
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小夫天神社
■天神杜の沿革
「当社の創建された年代は詳かでないが神道五部書に日く、第十代崇神天皇の御代に、神戸大神宮、また天神宮と唱ふるとあり、神戸は上之郷また小夫郷と、『日本地理資料』に古は笠縫邑と云へりとあって、いわゆる元伊勢の伝承地です。
そして、第四十代天武天皇の御代、大來皇女の泊瀬斎宮、旧跡伝承地でもあります。」
天神杜(てんじんじゃ)は、奈良県桜井市小夫にある神社。地名を取って、小夫天神杜(おおぶてんじんじゃ)とも。古くは天神神社とも。斎宮山に鎮座する。 『日本書紀』『倭姫命世記』にある豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ)が滞在したという「笠縫邑」に比定される場合がある、元伊勢の一つ。
■社伝に、第百六代正親町天皇の御代、『古語拾遺』に、天正五年九月二日(1577)斎宮太夫小笠兵庫と署名せる、天照大神御幸神楽歌があり、また、第九十六代後醍醐天皇の御代、本殿中門の脇に、嘉暦二年(1327)に献納されし石燈籠があります。
第二十三代顕宗天皇の御代(485)顕宗紀に日く、「殖槻也、田中乃杜也」とあり、槻の神木があることから、由來の久しいことを知るのであります。
神宮寺創立年代は詳かでないが、神社附属として境内に神宮寺を建て、社僧を置き、真言宗長谷寺より輪番によって常 勤し、明治三年まで守護ありし社で、同年社僧を廃せられ明治八年より神宮寺の寺号を廃せられる。 明治三十九年四月二十八日、勅令第九十六号により、神餞幣帛料供進指定神社に列せられる。 (神遣五部書、古語拾遺、神社明細帳、神社古文書より)
■笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる。
比定地については、檜原神社(桜井市 三輪)、多神社(磯城郡 田原本町多)、笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡 明日香村飛鳥)、長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)、等々。
同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる。
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化粧川・化粧壺
■ 小夫にある天神社の西方の修理枝(しゅりえだ)の村に、上古には豊鍬入姫命が御化粧された場所として、又天武天皇皇女の大伯皇女が斎王として伊勢に赴任する前に滞在した折に、禊をしたと伝えられている化粧川があり、天神社略記(天神社のリーフレット)に、化粧川と化粧壺の由来についてこう記されています。
「大字修理枝に字化粧川あり、修理枝川の上流にあって、古は田地なくして広々とした天然地磐岩で、凹んだ溜りあり、実に清浄なる所で、年経ると共に田地が延びて川幅狭くなり、化粧壷という岩のみ現われる。 この水源は小夫山中より流れ出て、修理枝を経て小夫と笠との境を通じて大和川(泊瀬川)に合流する。上古、天照皇大神宮に奉仕された、豊鍬入姫命の御化粧ありし所、又大来皇女命御禊の旧跡と云う」
化粧壺御禊儀式歌として「夜もすがら かよい給ひし あさちはら 化粧の壺にて みそぎたまひし」他五首が残されています。
化粧川 上流の池 |
化粧川、化粧壺由来 |
化粧川の化粧壺 |
2023年撮影 |
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化粧川の水源は小夫山中より流れ出て、修理枝を経て更に小夫と笠との境を通じて大和川(泊瀬川)に合流する。 |
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天神社の近くにあった巨大な六字名号磨崖碑/地蔵磨崖仏 |
化粧川の化粧壷 |
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2010年頃撮影 |
■小夫城跡:興福寺の官符衆徒、小夫氏の城と考えられ、筒井氏、十市氏との関係が良好でした。十市や吐山氏が没落した際は小夫氏を頼って逃亡した記録も残されています。時に越智氏方として活動していた時期もあり、明応7年(1498)、十市氏らにより攻められ小夫城は落城したこともありました。永禄年間には松永方に攻められ、籠城戦の末に小夫氏は没落したようです。小夫は「おおぶ」と読む。
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