日本の写真・風景|沖縄 琉球王国からの世界遺産、本島と八重山諸島 |
沖縄
沖縄の良い所やお気に入りの場所、風化が懸念される歴史の風景を家族旅行の写真でご案内します。 沖縄のイメージは、青い空、青い海、長寿の地域、星砂の浜辺、ゴーヤ、チャンプル、ミミガー、珊瑚礁、シーサー、マングース、ハブ、泡盛、天然記念物も多数・・・など沢山あります。 沖縄の写真では本島より、青い海やさんご礁が綺麗な石垣島と西表島、由布島、竹富島などの八重山諸島を中心にしています。 石垣島の空港(石垣空港(shigaki
Airport))は滑走路が1,500 mと短いせいか急速発着は恐ろしいですね。 沖縄本島は、世界遺産に関連するもののみ。 本島・那覇は殆どが仕事で訪問、写真は最小限です。 年齢も重ねると結構郷愁(ノスタルジー)に駆られるもので、最近の写真だけでなくセピア色した写真も掲載します。
現在、沖縄は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu)が世界遺産の認定を受けています。
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ページ内索引 { 沖縄・本島|沖縄・八重山諸(石垣島、西表島、由布島、竹富島)|沖縄・宮古列島(宮古島)|琉球時代 切手 }
★沖縄にある多くのグスク(城)及び遺跡の中から、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)が第24回世界遺産委員会会議で2000年(平成12年)に世界遺産登録されました。
沖縄・本島
■沖縄本島(おきなわほんとう)、または沖縄島(おきなわじま)は、沖縄県を構成する160の島の中で最大の島であるのはもちろん、本州など本土4島を除くと国後島に次ぎ日本で面積3位の島(大きい順に、択捉島-国後島-沖縄本島-
また東シナ海と太平洋(フィリピン海)の間に位置する南西諸島においても最大の島である。離島を含まない沖縄本島だけの面積で、大阪府や鳥取県よりは狭いが、東京都区部や琵琶湖よりも広い。 沖縄県の政治、経済の中心となる島で、同県の41市町村の内、県庁所在地の那覇市を含む26の市町村がある。また、県の人口約145万人の内、およそ9割に当たる約129万人の人口を有している。
■ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。
摩文仁丘 |
羽地内海 |
藪地島(やぶちじま |
■摩文仁丘(まぶにのおか)は、糸満市の南東端の丘。標高800m。背後は海岸絶壁になり,沖縄戦の終焉の地。戦没者慰霊塔や慰霊碑が厳粛に立ち並ぶ。 |
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沖縄・伊江島とデイゴ(2009年) |
沖縄・慶佐次湾と |
沖縄・辺戸岬(2009年) |
■伊江村(いえそん)は、沖縄県国頭郡の村。沖縄本島の本部半島から北西9kmの場所に位置する周囲22.4kmの伊江島(いえじま)から成る。現在も村面積のおよそ35.3%の区域面積をアメリカ海兵隊の伊江島補助飛行場が占めている。 |
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魔除けのシーサー |
那覇ハーリー |
■シーサーは、沖縄県などでみられる伝説の獣像。魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されることが多いとされている。名前は「獅子(しし)」(元はサンスクリット語のライオン、シンハー)を沖縄語で発音したものである。八重山方言ではシィーシィー、シーシ-という。 |
■那覇ハーリーは、1975年に復活。沖縄のハーリー行事の中では最大規模。ハーリーを観光客にも見てもらいたいという意図もあり、ゴールデンウィークに重なる新暦の5月3日~5月5日の間に行われる。那覇ハーリーと他の地域のハーリーとの違いは「舟」にある。那覇以外の地域のハーリー舟は、漁労用のサバニを漕ぎ手10名、舵取り1名で操るのだが、那覇のものは、全長14.55メートル、重さは2.5トン、漕ぎ手は32名、鐘打ち2名、舵取り2名、旗持ち他6名と乗組員が42名になる大型のもので、舳(へさき)には竜頭を、艫(とも)には竜尾の彫り物を飾った特別な舟である。3隻の爬竜舟の色は、濃緑色は「那覇」、黄色は「久米」、黒色は「泊」とされており、この3隻により競漕が行われる。ちなみに「那覇」は日本、「久米」は中国、「泊」は沖縄を象徴すると言われているそうだ。 |
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弁財天堂 |
円覚寺総門 |
中村家 |
■天女橋(弁財天堂) 尚徳(しょうとく)王代の15世紀中頃、朝鮮王朝第7代国王世祖李瑈(りじゅう)から高麗版大蔵経(こうらいばんだいぞうきょう)が贈られた。1502年、 尚真王(しょうしんおう)はこれを納めるため、円鑑地(えんかんち)を掘らせて中島に堂をつくりました。そこに架けられたのが天女橋で、観蓮橋(かんれんばし)とも呼ばれていた。 |
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円覚寺放生橋 |
世界遺産 |
■中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。 築城された時期は不明。ユネスコ世界遺産。中城城は連郭式の山城である。 |
■旧円覚寺放生橋は、旧円覚寺総門と山門の間に設けられた放生池に架けられた橋。山門側の親柱(おやばしら)に「大明弘治戊午歳春正月吉日建立長史梁能及通事陳義督造」と記されていることから、円覚寺の完成よりやや遅れ、1498(弘治(こうち)11)年につくられたようである。 |
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ハイビスカスと海中道路 |
ブーゲンビレアと |
セイシカと聖紫花の橋 |
■海中道路と言っても、実際は海の上に橋が伸びており、与勝半島から四方を海に囲まれた道路で走るのは壮快です。 ここから4つの島「浜比嘉島」「平安座島」「宮城島」「伊計島」に車で行くことできます。沖縄県うるま市。 |
沖縄・八重山諸島
■八重山諸島(八重山列島)は、南西諸島西部の島嶼群で、宮古列島とともに先島諸島の一部を成す。中心となる石垣島をはじめ、竹富島、小浜島、黒島、新城島(上地島、下地島)、西表島、由布島、鳩間島、有人島では日本最南端の波照間島などの石西礁湖周辺の島々と、これらから西に離れた日本最西端の与那国島の合計12の有人島、及び、北に位置する尖閣諸島など多くの無人島からなる島嶼群である。 有人8島を遠方から眺めると八重に連なって見えるとの伝承より名付けられたとされる。 面積では沖縄県全体の約4分の1に相当し、県内では沖縄本島に次いで西表島が2番目、石垣島は3番目の大きさである。 西表島に隣接する由布島と、これら8島から離れて単独で自治体を形成する与那国島も八重山に含まれています。
■石垣島(いしがきじま)は、沖縄県石垣市に属する八重山列島の島である。 沖縄県内では沖縄本島・西表島に次いで3番目、日本全体(北海道、本州、四国及び九州の4島と沖縄本島を含む)では21番目の面積を持つ。人口は約4万9千人(2019年2月時点)。 白保竿根田原洞穴遺跡から日本最古と見られる約2万年前の人骨が見つかっている。 島の主要部は概ね五角形で、その北東端から北東方向に細長く野底半島及び平久保半島が突き出ている。島の中央やや北にある標高 525.5 m の於茂登岳は沖縄県の最高峰であり、この山以北は山がちである。
■由布島(ゆぶじま)は、沖縄県八重山郡竹富町(八重山諸島)に属し、西表島に隣接する 島。海流によって堆積した砂だけでできた、海抜1.5m、周囲2.15km の小さな島です。由布島と西表島の間の海は、通常は大人の膝に満たないぐらいの深さしかなく、満潮時でも1m ほどにしかならない。そのため、由布島と西表島間の観光用の移動手段として水牛車が利用され、島の重要な観光資源になっている。水牛は水牛車を引くために2歳からトレーニングを始め、3歳頃から本格的に車を引っ張るようになる。 西表島美原から水牛車に乗って由布島に渡る。由布島は島全体が観光客を対象とした熱帯植物園。 人口十数人の島だけど観光客でにぎやか。
■竹富島(たけとみじま)は、沖縄県の八重山列島にある島である。全島が沖縄県八重山郡竹富町に属している。 石垣島の南約6kmに位置し、石垣港からは高速船で約10分の距離にある。 サンゴ礁の隆起によって生じた琉球石灰岩からなる低島であり、平坦地が多い。南北にやや長い楕円形をなしており、周囲は約9km。 全島が西表石垣国立公園に指定されている。 集落景観は、木造赤瓦の民家と白砂が撒かれた道を基調としている。
■西表島(いりおもてじま)は、沖縄県八重山郡竹富町に属し同列島で最大の面積を持つ。人口は2,379人(2021年3月末現在)である。 山がちで平地に乏しく、山や森林が海岸近くまで迫っている。人の居住地は海岸線沿いのわずかな平地に限られる。古見岳(こみだけ、標高469.5メートル)、テドウ山(標高441.2メートル)、御座岳(ござだけ、標高420.4メートル)の琉球諸島全体でも屈指の標高を有する三山をはじめとして、多くの山で島全体が覆われるものの、中央ほど標高が高いわけではなく、遠方から見た島影は台形に近い。 ほぼ全域が西表石垣国立公園の公園区域に指定されている。 また、イリオモテヤマネコやヨナクニカラスバト等の希少な野生鳥獣の保全を目的として、島の森林地域のうち約3,841ヘクタールが国指定西表鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定されている。
宮古列島
■宮古列島または宮古諸島は、南西諸島西部の島嶼群で、先島諸島の一部を成す。宮古列島の北西には尖閣諸島、西には八重山列島がある。
宮古島(みやこじま)は、沖縄県宮古島市に属する宮古列島の島である。 沖縄本島から宮古海峡を経て南西に約290 km、東経125度、北緯24度に位置し、太平洋と東シナ海の間にある。面積は158.93
km2 である。近隣には、池間島、大神島、伊良部島、下地島、来間島がある。 『朝鮮王朝実録』(李朝実録)には、1477年(成宗8年)に与那国島に漂着した朝鮮人が宮古島を経て帰還した際の記録が残っており、宮古島は「悖羅彌古」や「覓高」と記されている。 1509年に首里城正殿の欄干に設けられた尚真王の事跡を讃える碑文「百浦添欄干之銘」には、1500年のオヤケアカハチの乱について「当西南、有国、曰太平山、弘治庚申春、遣戦艦一百艘、攻之」と記されており、当時、「太平山」は宮古と八重山の総称であった
仲曽根豊見親の墓 |
■仲曽根豊見親の墓は、宮古島の中心、平良の海に近い道を北上していくと、15世紀末から16世紀初めにかけて、宮古を支配していた仲宗根豊見親が、父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために建造したと伝えられています。 墓の構造は、宮古在来の「みゃーか」の形式と、沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっています。 この時期における宮古と沖縄本島との石造技術の交流を示す墳墓です。 外観は前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けて有ります。 内部は円形になっていて、直径6m高さ2m余りのほぼ10畳ほどの広さで、中央に厚さ46cmの石垣が天井まで築かれ前後2室に仕切られています。 |
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宮古島・平良 |
琉球時代 切手
■琉球王国(りゅうきゅうおうこく)、琉球國(りゅうきゅうこく)は、1429年(宣徳4年・正長2年、永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。
「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」が初出である。同書によると、「607年(大業3年・推古天皇15年)、隋の煬帝が「流求國」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。
翌608年(大業4年・推古天皇16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。
琉球政府(Government of the Ryukyu Islands)は、1952年(昭和27年)から1972年(昭和47年)まで、沖縄本島を中心に存在した統治機構の名称である。 1972年(昭和47年)に沖縄県が日本に返還された際に消滅し、沖縄県や沖縄総合事務局(国の出先機関)などに移管された。
琉球文化財シリーズ(1952-53年) まだんばし、首里城正門、守礼門、崇元寺石門 |
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■真玉橋(まだんばし)は、沖縄県の那覇市と豊見城市の間を流れる国場川にかかる橋の名称。また、豊見城市側の地名にもなっている。「真珠湊碑文(まだまみなとひもん)」(沖縄戦で破壊されたが、2000年代に再建された)によれば、真玉橋が最初に架橋されたのは琉球王国第二尚氏時代、第三代尚真王の1522年である。 |
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弁財天堂 |
琉球本島鳥瞰図 |
守礼門(1964年) |
■守礼門は、首里城歓会門の外、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウウフミチ または アヤジョウウフミチ とも)の東側に位置する牌楼型の門(楼門)である。日本城郭でいう首里城の大手門に値する。柱は4本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いている。沖縄戦で焼失したが、1958年に再建され、1972年には県指定文化財となった。世界遺産。その創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の時に建てられていることは分かっている。 |
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復元された守礼門 |
沖縄復帰記念・守礼門 |
■沖縄返還は、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたこと(沖縄本土復帰)を指す。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」。 |
■琉球舞踊(りゅうきゅうぶよう)とは、琉球、沖縄県内で継承されている舞踊の総称。歌舞伎舞踊や上方舞、京舞と並び、琉球舞踊は2009年9月2日に重要無形文化財に指定されている。俗に琉舞とも通称される。 琉球舞踊は、三線(さんしん)、箏(こと)、笛、太鼓、胡弓(こきゅう)で構成される地謡によって演奏される琉球古典音楽に合わせて踊られる。琉球舞踊の分類としては古典舞踊、雑踊り(ぞうおどり)、創作舞踊に大別される。 琉球王朝時代は男性官吏やその子弟のみによって踊られたが、琉球王国の崩壊した明治以降、特に戦後は多くの名だたる女流舞踊家が誕生し、今日の琉球舞踊は確固とした地位が確立された。 |
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民族舞踊(沖縄・1961-71年)むんじゅる / ぬふわ節 / はとま節 / はなふう |
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民族舞踊(沖縄・1961-71年)ヌトゥヌチバナ |
民族舞踊 種類 |
民族舞踊 |
むんじゅる / ぬふわ節 / はとま節 / はなふう / ヌトゥヌチバナ / しゅどん / しのび / 上り口説 / こてい節 / ぬふわ節 |
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民族舞踊 しゅどん / しのび / 上り口説 / こてい節 日本の衣装は「日本の絵画」 |
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■沖縄の伝統的衣装に琉装があります。気温の高い沖縄での生活にあったような、
和装のような帯を使わないゆったりとゆとりのあるデザインのものが日常使われていて、ウシンチーと呼ばれ、
腰あたりに細帯を締めてその上から着物を着て、合わせたところをつまみ腰帯に挟んで着ます。
袖も広めで、風通しが良い様に工夫されています。勿論生地も芭蕉布のような風通しを考慮したものでした。(詳細は、「民族衣装の切手のアジア・オセアニア編」で。
作成にあったては、Wikipediaや当地HP・パンフレット等を参考にしています。
日本の写真・風景|沖縄 琉球王国からの世界遺産、本島と八重山諸島 |