西アジアの世界遺産・遺跡の切手 トップ
イスラム圏の西アジアの世界遺産・遺跡を中心にした切手です。アジアは世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)のうち3つを擁している古くから開けた地域です。 またヨーロッパとは陸続きで紀元前のアレクサンダー大王の時代から、シルクロード等を経由して色々な物や文化の交流もあり多数の遺産が残っています。 掲載国はイスラム教やユダヤ教の諸国を考え、西アジアとしてはイスラム教の戒律と慣習に基づく文化領域の概念として極めて広域に用いられることが一般的であるので、イラク・イラン・シリア・ヨルダン・イスラエル・レバノン・パレスチナ・トルコ・オマーン・アラブ首長国連邦・トルコです。 但し、ここではアフガニスタンは通常は西アジアに分類されますが中央アジアに分類しています。バム遺跡、ペトラ遺跡、ペルセポリス、バビロン、エルサレム、カッパドキア等多数の世界遺産があります。「エルサレムの旧市街とその城壁群」はヨルダンが世界遺産の申請を出しましたが混沌としており、ここでは一応ヨルダンを採用。
参考:社団法人 日本ユネスコ協会連盟のHP(世界遺産活動)
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世界遺産(西アジア編) |
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■イスラエルの世界遺産は、@アッコ旧市街、A| 聖書のテル群=メギド、ハツォール、ベエルシェバ 、B テルアビブの白い都市、C| ネゲヴ砂漠の香の道と都市群、D|
ハイファと西ガリラヤのバハーイー教聖地群、E| マサダが登録されている。 |
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イスラエル・聖書のテル群=メギド,ハツォール,ベエルシェバ |
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■メギドはイスラエルにある丘であり、神学的、歴史的、地勢的な理由により知られている。古代においてメギドは有力な都市国家であり、この地をイエス・キリスト率いる光の勢力とサタンや反キリスト的集団による闇の勢力が最終決戦を行うハルマゲドンの地であると、聖書から解釈している者もいる。 |
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ヨルダン・エルサレム旧市街とその城壁 |
エルサレム |
岩のドーム(シリア) |
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■エルサレム旧市街は今日のエルサレム市内の約1平方キロ の区画である。1860年代までは、この旧市街がエルサレムの全体であった。エルサレムはいくつかの歴史的な宗教における重要な遺跡を含んでいる。ユダヤ教徒にとっての神殿の丘と嘆きの壁、キリスト教徒にとっての聖墳墓教会、ムスリムにとっての岩のドームとアル=アクサー・モスクなどがそれである。今日の旧市街は、ムスリム地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区に大別されている。 また、エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄え、エルサレムを領土に収めた代々の国家はエルサレムを首都としてきた。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。 |
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パレスティナ自治区(岩のドーム 他) |
岩のドーム(ヨルダン) |
岩のドーム(ヨルダン) |
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■岩のドーム (Qubba al-sakhra) はエルサレムにある、カアバ、預言者のモスクに次ぐイスラム教の第3の聖地。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりを持つ聖なる岩を祭っている。建設に際して刻まれた総延長240mに及ぶ碑文では、イエスの神性を否定はするものの、預言者であることを認めている。建物は、預言者ムハンマドが夜の旅(イスラー)に旅立ち、また、アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した集中式平面をもつ神殿です。 |
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ヨルダン・アムラ城 |
ヨルダン・ペトラ |
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■アムラ城(Ommayyad Palace )、もしくはカスル・アムラは、ヨルダンにある浴場施設を中心としたウマイヤ朝時代の城館遺跡です。外観は、ドーム型の屋根になっている。内部には、サウナのような施設や、深さ25mの井戸も残っている。8世紀頃のウマイヤ朝の王(壁画銘文より711年以降のワリード1世と思われる)が、離宮として建設したといわれている。表向きは征服した地の警戒のために建てられたと言われているが、実際には、厳格なイスラム教徒の目をそらし、王族達が快楽を享受するための離宮だったと考えられている。アラム城の館内には、天体図や砂漠の動物、裸婦などのフレスコ技法で描かれた壁画が残っている。 |
■ペトラ(Petra)は、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないペトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。106年には、ローマ皇帝トラヤヌスによりペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。現在でも、エル・カズネ(宝物殿)等が残っている。 |
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アラム城 |
とくに「謁見室」に描かれたフレスコ画には4人の支配者と思しき人物が描かれており、ギリシア語とアラビア語による銘文により、左右の一方にビザンツ皇帝(カエサル)、西ゴート王国末期の王ロドリーゴ、もう一方にはサーサーン朝皇帝ホスロー、エチオピア王ネグスと確認できる。 |
エル・カズネ(宝物殿) |
ペトラ(ヨルダン) |
ペトラ、ヨルダンのオベリスク |
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■レバノンの世界遺産は、@アンジャル 、Aバールベック 、Bビブロス 、Cティルス 、Dカディーシャ渓谷と神の杉の森 が登録されています。 |
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レバノン・バールベック |
レバノン・ビブロス |
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■バールベック とは、レバノンの東部、ベイルートの北東約85km、ベカー高原の中央にある古代遺跡である。 |
■ビブロスは、フェニキア人の発祥の地として有名。アルファベットの元になったフェニキア文字もこの地で生まれた。 |
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1世紀頃、ローマ帝国の手により最初の神殿が築かれたと考えられている。2世紀から3世紀に入り、ジュピター神殿・バッカス神殿が建てられる。中庭や柱廊などの造成もこのころのことと考えられている。 |
1946年発行の |
このことからアルファベット発祥の地と言われることもある。紀元前3000年頃から、フェニキア人が居住し始めたと言われている。後に、ローマ帝国の支配下に入る。12世紀には、十字軍を迎え撃つべく要塞化される。 |
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切手はバッカス神殿:遺跡の南側の低地に建つ神殿。内部の祭殿や柱・天井に彫刻が多数のこっている。 |
コンスタンティヌス帝がキリスト教を正教と定めた後は神殿の破壊が進んだ。バールベックの神殿も、キリスト教の教会へと役割が変わったと考えられている。 |
その後は、ベイルートなどに交易の拠点の地位を奪われ、衰退の道をたどった。「ビブロス」という呼称は、ギリシャ語でパピルスを意味するもう一つの語に由来するといわれる(「パピルス」自体がギリシャ語)。これは、エジプトのパピルスがこの都市を経由してギリシャに輸入されていたからである。 |
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バッカス神殿(レバノン) |
レバノン・ティルス |
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ティルスの遺跡 |
■ティルス(Tyrus)(「テュロス(Tyros)」)は、レバノンの南西部、地中海に面する都市遺跡。都市の起こりは紀元前2500年ごろといわれている。元々、ティルスは陸地から1kmほど離れた島にあった。以後、フェニキア人の造った都市国家でも最大級にまで発展する。また、アレキサンダー大王に対して唯一抵抗したフェニキア国家でもあった。現在は、ローマ帝国支配時代の遺跡が数多く残る。 |
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現在、レバノンと呼ばれている地域が初めて歴史の表舞台に登場したのは、紀元前3000年頃。その頃のレバノンは、内陸部には鬱蒼とした森が茂り、海岸線には、一連の都市群が成立していた。セム系の民族で「フェニキア人」とギリシャ人から呼ばれた人々がこの地に居住していました。フェニキアの由来は、彼らが売っていた紫色(purple=phoinikies)の染料です。彼らフェニキア人は、自らのことを「シドンの人」と呼び、自らの国を「レバノン」と呼んでいた。この地域の自然とその位置のために、フェニキア人は、貿易と交渉に従事する場所を海(地中海)に求めた。 |
「エウロペの誘拐」(3世紀のバビロン遺跡のモザイク、レバノン) |
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遺跡 |
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レバノン・ファクラの遺跡 |
パレスチナ・エリコ(イェリコ、ジェリコ、Jericho) |
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■山奥にローマ時代とフェニキア時代の神殿がひっそりと佇んでいました。石がゴロゴロしていてあまり修復されていませんが、かなり大きな神殿。切手はフェニキア時代の神殿?トトメス3世(紀元前1490-36年)がシリアに侵攻を実施し、ヒクソスの統治が終わり、レバノンはエジプトに編入された。 |
チャドで発行 |
■エリコ(イェリコ、ジェリコ、Jericho)は、パレスチナの市。エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、初期の町は小規模な定住集落で、時代区分上は新石器時代にあたる。 |
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■紀元前14世紀、エジプトが弱体化する中で、レバノンは、紀元前12世紀初頭には、独立を回復することができた。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた時代であり、繁栄と外国からの自由の時代でもあった。フェニキア人は、織物の生産に秀でていただけではなく、象牙彫刻、金属加工、とりわけ、ガラス製品の製造にも秀でていた。 |
■最古の町と評される前8000年紀のものと思われる周囲を壁で囲った集落跡が発掘された。初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前〜前9000年前まで遡る。 現在は、エリコは、元アラファト議長のときからパレスチナ自治区になり、現在もパレスチナ人が平和に暮らしています。エリコにはイスラエル人は入れません。パレスチナ人はエリコを出るとき、厳しいチェックを受けないとイスラエルに入れません。 |
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ヨルダンのジェラシュ(Jerash)遺跡 |
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ジェラシュのアルテミス神殿・ |
ジェラシュの凱旋門 |
古代遺跡ジェラシュ |
勝利の門(ジェラシュ) |
■ジェラシュ遺跡:ジェラシュは首都アンマンの北50キロにあるローマ帝国時代の遺跡。アラブ圏にあるローマ属州の中でも屈指の大都市でビザンチン時代に繁栄の頂点に達した。 しかし、7世紀初めにペルシャ人の侵入によって建造物の多くが破壊され、それに追い討ちをかけるかのような746年の大地震によって完全に廃墟となった。
列柱街路が有名です。ジェラシュはギリシャ・ローマ風の都市ゲラサ(Gerasa、別名・クリュソロアスのアンティオキア、「金の川沿いのアンティオキア」、Antiochia
on the Chrysorhoas)の廃墟があることで知られる。 |
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ヨルダンのワディ・ラム(fort of wadi rum) |
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■ヨルダンのワディ・ラムとは高い谷という意味で、高い山に挟まれた幅5kmの渓谷が25km続いている。「月の谷」とも呼ばれているが、この方がぴったりする風景である。 |
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ワディ・ラム fort of wadi rum |
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キプロスの歴史的建造物 |
ヨルダンのマダバ・セント・ジョージ教会モザイクの地図 |
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北キプロスのキレニアの断崖絶壁に建つベラパイス修道院 |
旧約聖書の出エジプト記のヨシュアの章に「メデバ」の名で登場する古くからの町マダバ。そこにあるセント・ジョージ教会は、6世紀の聖地エルサレム周辺を描いたモザイクの地図があることで知られています。 |
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ベラパイス修道院は美しいゴシック様式の回廊を持つ |
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6世紀のパレスチナの地図。死海のすぐ隣にエルサレム旧市街があります。当時の人々にとってエルサレムがいかに大きな存在だったかがわかります。形はデフォルメしてあるものの見てそれとわかるくらいには正確で、測量技術がある程度発達していたことをうかがわせます。 |
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西アジアの世界遺産・遺跡の切手 トップ|イラク・イラン・シリア・ヨルダン・イスラエル・レバノン・パレスチナ・トルコ・オマーン・アラブ首長国連邦・トルコ |
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