Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
世界遺産の切手|日本 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教が禁じられている中で、長崎と天草地方において日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統のあかしとなる遺産群です。

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日本の世界遺産・遺跡の切手 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 

 日本のユネスコ世界遺産(UNESCO World Herittage) 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教が禁じられている中で、長崎と天草地方において日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統のあかしとなる遺産群です。2018年7月に世界文化遺産に登録されました(平成30年記載) 以下が世界遺産の対象となっています。
 長崎県長崎市 @大浦天主堂:国宝、A外海の出津集落:重要文化財出津教会堂と旧出津救助院を含む、重要文化的景観
  「長崎市外海の石積集落景観」、B外海の出津集落:重要文化財大野教会堂を含む、重文景「長崎市外海の石積集落景観」
 南島原市 @原城跡:国指定史跡
 佐世保市 @黒島の集落:重要文化財黒島天主堂を含む、重文景「佐世保市黒島の文化的景観」
 平戸市 @平戸島の聖地と集落=安満岳と春日集落、重文景「平戸島の文化的景観」
  A平戸島の聖地と集落=中江ノ島、重文景「平戸島の文化的景観」
 北松浦郡小値賀町 @野崎島の集落跡(野首集落跡・舟森集落跡):旧野首教会堂を含む、重文景「小値賀諸島の文化的景観」
 南松浦郡新上五島町 @頭ヶ島の集落:重要文化財頭ヶ島天主堂を含む、重文景「新上五島町崎浦の五島石集落景観」
 五島市 @久賀島の集落:重要文化財旧五輪教会堂を含む、重文景「五島市久賀島の文化的景観」、
  A奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺):重要文化財江上天主堂を含む
 熊本県天草市 @天草のア津集落

参考:社団法人 日本ユネスコ協会連盟のHP(世界遺産活動

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ブログ:古代日本のロマン:卑弥呼と邪馬台国のニュース(箸墓古墳)(2009年5月29日)

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  奈良特別編 [ 東大寺春日大社法隆寺室生寺薬師寺・唐招提寺  ]  仏教美術 [ 仏教美術の切手と説明 ]

★作成に当たり、Wikipediaやその地に地域のHPの資料を使わせていただきました。

22世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」

■鎖国政策を行っていた江戸時代の日本ではキリスト教が禁止されていました。とくに1612年の「慶長の禁教令」以降、キリスト教徒に厳しい弾圧が加えられるようになり、強制的に改宗を迫られたり、信仰を捨てない者は拷問・処刑されるといった非人道的なことが行われました。そして教会は破壊され、ついには宣教師もいなくなってしまった。それから明治維新までの約250年、時代は大きく流れます。長崎に居住しはじめた外国人のために「大浦天主堂」が建てられます。その時に、250年の長きにわたり潜伏して信仰を守り続けていた信徒発見がされた。
キリスト教禁教期の17〜19世紀の日本において、社会的には普通に生活しながらひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンのことを学術的に「潜伏キリシタン」と呼ぶ。禁教期よりも前にキリスト教に改宗した人々のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼んだ。

■天草四郎を総大将として数万人のキリシタンや農民が立て篭った「島原・天草一揆」。悲劇の舞台となった国指定史跡・原城跡。
■春日町はかくれキリシタンの伝統文化をもつ地域で、町内で一際目を奪われるのが、海から山間部まで連なる美しい棚田です。平戸市最高峰の安満岳から流れる豊かな水に育まれた緑映える棚田を見ると当時のかくれキリシタンが営んできた暮らしを思い起こさせられます。
■「黒島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持する集落のうちの一つである。19世紀、長崎地方各地の潜伏キリシタンの一部は、黒島の牧場跡の再開発のために移住が奨励されていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、表向きは所属していた仏教寺院でマリア観音に祈りをささげながら、ひそかに共同体を維持した。

原城跡、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)

黒島の集落

   

平戸の聖地と集落(中江ノ島)、天草のア津集落、外海の出津集落

   

■中江ノ島は、長崎県の平戸島と生月島双方から約2キロの沖合にある長さ400m、幅50mの無人島で、キリスト教が禁止された17世紀前半に平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、いわゆる隠れキリシタンの聖地となった
■ア津集落(さきつしゅうらく)は熊本県天草市河浦町ア津一帯の総称で、羊角湾に面した潜伏キリシタンの里として知らる。ア津でも長崎各地の潜伏キリシタン同様オラショを唱えるなどしたが、長崎の五島と同じように、ロザリオやメダイとともにアワビやタイラギなどの貝殻を聖具とした。
■外海一帯には5,000人近い信者がいたが、江戸幕府の禁教政策により、大村藩は厳しく取り締まった。しかし、外海は大村城下から遠く、また出津(しつ)や黒崎などは比較的寛容な佐賀藩の飛び地も混じり、多くの潜伏キリシタンが存在した。
1865年3月の信徒発見から半年後、プティジャン神父が船で密かに出津を訪れ、信者と面会した。当時は禁教下で迫害があったが、200戸がカトリックに復帰する。1879年にド・ロ神父が出津に赴任し、信者と力をあわせ1882年に出津教会を完成させる。
■西彼杵半島中部の外海地区は、出津(しつ)や黒崎などを中心に、禁教後も信仰を守る潜伏キリシタンが多かった。出津に近い大野地区の潜伏キリシタンは、平戸藩主に棄教を迫られて藩を脱した籠手田(こてだ)一党の末裔とされる。また、肥後南部を支配したキリシタン大名・小西行長が亡き後、移り住んだ家来の子孫もいるという。1879年、外海地区に着任したド・ロ神父は、26戸の信者と力を合わせ、1893年に大野教会を完成させた。
■「野崎島の集落跡」は、19世紀、外海そとめ地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、沖ノ神嶋神社おきのこうじまじんじゃの神官と氏子しか人が住んでいなかった野崎島を移住の適地として選んで移住し、神社の氏子として信仰をカモフラージュしながら、ひそかに共同体を維持した。

外海の大野集落、野崎島の集落跡

頭ヶ島の集落、久賀島の集落、奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

 

■「頭ヶ島の集落」は、19世紀、外海そとめ地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、病人の療養地として人が近づかなかった頭ヶ島を移住の適地として選び、仏教徒の開拓指導者のもとで信仰をカモフラージュしつつ移住し、ひそかに共同体を維持した。
■「久賀島の集落」は、18世紀後半以降、外海そとめ地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、五島藩が積極的に久賀島に開拓移民を受け入れていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、漁業や農業で彼らと互助関係を築きながら、ひそかに共同体を維持した。
■江上教会がある奈留(なる)島は、下五島の最も北に位置し、上五島の若松島に近い。1797年、五島藩の要請を受けて外海から農民移住が始まると、奈留島にも移住者が渡り、江上地区にも潜伏キリシタンの4家族が住み着いた。1873年に禁教の高札が撤去されても、奈留島では潜伏時代の信仰を維持する「かくれキリシタン」が多かった。しかし、江上地区の4家族は1881年に全員がカトリックに復帰し、1906年頃には簡素な教会を建てた。

■大浦天主堂は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1865年(元治2年)に建立された。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者天主堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。1865年3月17日(元治2年2月12日)、浦上(長崎市)の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの40〜50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私どもは神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)と囁き、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名は、イザベリナ杉本百合だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた。

長崎・大浦天主堂
(国宝)

長崎・大浦天主堂
(1951年)

大浦天主堂
(1864年、国宝)

長崎・原爆投下
(平和記念像)

長崎・大浦天主堂(国宝) 長崎・大浦天主堂(1951年) 日本の近代洋風建築 大浦天主堂 長崎・原爆投下(平和記念像)
       


■1945年(昭和20年)8月6日に広島、ついで9日には長崎に人類史上最初の原子爆弾が投下されました。これによって両市は一挙に壊滅し、同年12月末までに、広島で約14万人、長崎で約7万4千人もの生命が奪われたと推定されています。最近のアメリカの大統領の言葉ではありませんが「世界の核廃絶」を切に願っています。


★絵葉書や写真から(クリックで拡大します)

絵葉書・長崎 
町の夜景

絵葉書・長崎 
大浦天主堂

絵葉書・長崎 
大浦天主堂 聖母

絵葉書・長崎 
爆心地

絵葉書・長崎 絵葉書・長崎

長崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分でした。

長崎 浜ノ町 1905年

長崎 平和記念像 1955年

長崎・原爆爆心地付近

長崎・グラバー亭 蝶々夫人

長崎 浜ノ町 1905年 長崎 平和記念像 1955年 長崎・原爆爆心地付近 長崎・グラバー亭 蝶々夫人

旧グラバー邸とは、貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。1863年(文久3年)の建築。裏手には馬小屋や貯蔵庫なども残っている。フリーメイソンのマークもある。「旧グラバー邸」という世界遺産があります(2015年認定・明治日本の産業革命遺産)

「平和祈念像」:長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。「平和祈念像」:長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。


 

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