国内写真集|関西・京都:石清水八幡宮と一休寺、海住山寺、恭仁京・・・
索引 [ 京都市内|石清水八幡宮と一休寺、海住山寺、恭仁京、銭司聖天|周辺地域 ]
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■日本の写真・風景 |
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関西・京都 石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう) |
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■石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の一社で、伊勢神宮とともに二所宗廟の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一社、また宮中の四方拝で遥拝される一社。貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。 |
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男山は竹(八幡竹)の名所 |
男山ケーブル 男山山上駅 |
石清水八幡宮 鳥居 |
三女神社 |
★八幡の真竹(八幡竹)を使っての白熱電球の長時間点灯、実用化に成功した世界の発明王エジソンとのゆかりにより、昭和9年当宮境内の隣に「エジソン記念碑」が建立されました。竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに最適であったのです。この竹を使用した電球は何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。炭素発熱電球の実用化に大きな役目を
果たしたのです。 |
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エジソン記念碑 |
石清水八幡宮 石碑 |
石清水八幡宮 南総門 |
石清水八幡宮 竈神殿 |
★竈神殿(そうじんでん) : 御祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)、彌都波能賣神(みづはのめのかみ)、奥津日子神(おきつひこのかみ)、奥津比賣神(おきつひめのかみ)。御神徳は台所守護。 |
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石清水八幡宮 南総門 |
石清水八幡宮 割符掛け所 |
石清水八幡宮 |
石清水八幡宮 境内 |
★石清水八幡宮の祭神は次の3柱。3神は「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称される。 |
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石清水八幡宮の境内案内図 |
石清水八幡宮 神楽殿 |
石清水八幡宮 神楽殿 |
八幡造り上院社殿 |
籠 |
謡曲「弓八幡」の謂れ |
★謡曲「弓八幡(ゆみやわた)」は脇能物。世阿弥作。後宇多院の臣下が男山八幡宮の初卯(はつう)の神事に参詣すると、八幡宮の末社である高良(こうら)の神が現れ、八幡の神徳を説いて御代を祝う。 |
御鳳輦(ごほうれん) |
築地塀 通称「信長塀」 |
石清水八幡宮 西門 |
石清水八幡宮 |
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★石清水八幡宮の築地塀は、通称「信長塀」とも呼ばれ、織田信長公が好んで採用した様式といわれています。瓦と土を幾重にも重ねることにより、当時の築塀における課題であった鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れていたとされています。 |
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石清水八幡宮 校倉(宝蔵) |
住吉社(左、重要文化財) |
石清水八幡宮 北門 |
★天皇家からは遠国の宇佐神宮に代わり二所宗廟の1つとして崇敬されるとともに、京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。 |
若宮社(重要文化財) |
若宮殿社(重要文化財) |
気比社(左)と |
石清水八幡宮 東門 |
若宮社(貞観11-869-鎮座)−祭神:仁徳天皇 |
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男山展望台にある谷崎潤一郎文学碑 |
★石碑の説明書によると、谷崎潤一郎は、関東大震災を契機に関西に引っ越し、その風土と伝統文化に魅せられて、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表したそうです。小説の舞台は、大山崎町から八幡市の橋本へ渡る淀川の中州です。男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられているとのこと。 |
サントリーのある大山崎方面 |
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★男山展望台にある谷崎潤一郎文学碑 |
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京都盆地南西の石清水八幡宮のある男山展望台から見る風景 京都市内、宇治、比叡山・・を見渡す |
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★『徒然草』 第52段「仁和寺にある法師」 :仁和寺の老僧は「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」と思っていた。ついに石清水八幡宮へ行ったが、麓の高良社や極楽寺を石清水だと思い込んで、そこのみ参拝し、他の人が山を登っていたのに、自分は登らなかったという話。 |
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関西・京都 酬恩庵一休寺(しゅうおんあんいっきゅうじ) |
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■酬恩庵(しゅうおんあん)は京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は霊瑞山。本尊は釈迦如来。一休寺(いっきゅうじ)、薪(たきぎ)の一休寺とも称される。枯山水の石庭や一休宗純の木像のほか、納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名。 |
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一休寺 総門 |
一休寺 案内図 |
一休和尚筆七仏通戒偈「悪いことはするな、よいことをせよ」の意。 |
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★金春禅竹が総門のまえで一休のために能を演じたという。 |
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石畳の参道 |
一休寺 一休和尚の墓 |
門扉に菊花の紋 |
宗純王廟 |
★一休和尚の墓は「慈揚塔」と呼ばれ境内にあるが、宮内庁が後小松天皇落胤説に基づき陵墓として管理しているため、門内への一般の立ち入り・参拝は不可能である。内部には枯山水式庭園の中に小堂があり、その内部に墓石がある。 |
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名勝酬恩庵庭園の案内 |
庫裏(重要文化財) |
庫裏の内部 |
「方丈屋根獅子口」 |
一休寺 方丈南庭(国の名勝) |
一休寺 礼の間 |
「壇那の間」、VIP用の応接室 |
一休寺 方丈東庭(国の名勝) |
一休寺 方丈仏間 狩野探幽の筆 |
★一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394-1481)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られtります。出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている 。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという 。文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去。享年88。 |
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方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してあります。 |
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「壇那の間」、VIP用の応接室 |
★一休寺 方丈及び玄関 (重要文化財)- 加賀城主前田利常の寄進により慶安3年(1650年)再建されたもの。内部襖絵は江戸初期の画家狩野探幽斎守信(狩野探幽)の筆によるものである。方丈は住職の接客や仏事を行うところ。 |
襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるものである。ショウショウ八景、林和靖、陶淵明が描かれている。 |
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一休寺 中門 |
一休寺 本堂(重要文化財) |
本堂(重要文化財) |
★一休寺 本堂 (重要文化財)- 永享元年(1429年)から嘉吉元年(1441年)にかけて室町幕府六代目将軍足利義教によって建てられた禅宗様仏殿。本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置され山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物です。 |
一休さん |
一休寺 開山堂 |
少年時代の一休さん |
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★開山堂は大正時代に改築をされたものだが様式は完全に昔のものを残している。堂内部には妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像が安置されている。一休禅師が荒廃をした妙勝寺を再建し63歳の時につくられたものである。 |
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一休寺 鐘楼(重要文化財) |
能楽観世流三代音阿弥元重、十五代元章、十九代清興、江州観音寺城主佐々木承禎、弓木多摂津守、茶人寸松庵等の墓 |
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★方丈東庭は大小の石が立ちまた横になる様を十六羅漢になぞらえたとされる。 |
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関西・京都 海住山寺(かいじゅうせんじ) |
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■海住山寺(かいじゅうせんじ)は、京都南部の南山城の京都府木津川市加茂町にある真言宗智山派の仏教寺院。かつて恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する。 山号は補陀洛山(ふだらくさん)、本尊は十一面観音。奈良時代の創建を伝え、鎌倉時代、貞慶によって中興された。国宝の五重塔で知られる。寺伝では天平7年(735年)、 聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。本尊 十一面観音(重要文化財) 。 |
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海住山寺境内 |
海住山寺境内 |
海住山寺境内 |
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山の中腹にある境内地は東を正面とする。山門を入り、正面には東面する本堂、その右手前に南面する文殊堂、本堂の左手(南)には五重塔が建つ。 |
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国宝・海住山寺五重塔 |
国宝・海住山寺五重塔 |
国宝・海住山寺五重塔 |
国宝・海住山寺五重塔 |
この塔の特徴は初層の屋根の下に裳階(もこし)と呼ぶ庇を設ける点。 |
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★五重塔 国宝(鎌倉時代)は、全体的に細身だが、初重に設けられた吹放ちの裳階が安定感を与える。また内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。 |
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海住山寺 本堂前 狛犬 |
海住山寺 本堂 |
海住山寺 本堂前 |
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本堂前の水船 |
やる気地蔵 |
文殊堂 重文 (鎌倉時代) |
海住山寺境内 鐘楼 |
苦ぬき観音、苦ぬき地蔵 |
もち上げ大師 |
海住山寺 塔廻輪 |
海住山寺 五輪塔 |
海住山寺境内からの加茂の町 |
海住山寺 本堂屋根 |
海住山寺へはバスは本数少なく、下車後、坂道を長時間歩くことになるので、自家用車またはタクシーの利用が現実的です。但し相当な坂道を登りますのでご注意ください。車の場合は163号線から標識の通りに迂回路を取ります。集落を抜けると曲がりくねった急な坂道になります |
和束の茶畑と |
★海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。 |
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関西・京都 恭仁京(くにきょう)、弥勒磨崖仏 |
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■恭仁京(くにきょう、くにのみやこ)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の地。現在の京都府木津川市加茂地区に位置する。大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも。「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」として、国の史跡に指定された。藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。 |
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恭仁宮跡(山城国分寺跡) |
大極殿(金堂)跡の石碑 |
大極殿(金堂)跡の景色 |
山城国分寺跡の石碑 |
★741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。 参考ページ 「滋賀・甲賀(紫香楽宮) 」 |
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山城国分寺七重塔跡の礎石 |
遷都後、宮城跡地は山城国分寺として再利用されることになった。大極殿は金堂に転用されたという。南北約330m、東西約275mの広大な寺域を有していた。金堂の東側は国分寺の鎮守社である御霊神社の境内地だったとされる。 |
恭仁宮跡(山城国分寺跡) |
山城国分寺七重塔跡の礎石 |
一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたものですから、国家財政はたまりません。天平15(743)年の年末には、遂に、それまで足掛け4年間続いてきた恭仁京の建設事業が停止されることになりました。明けて天平16(744)年になると、朝廷では難波宮を都にする準備を進め、早くも2月末には正式に難波を都と宣言しました。 |
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■みろくの辻 弥勒磨崖仏(京都府指定文化財、鎌倉時代中期 文永十一年 1274年、花崗岩、像高 207Cm) |
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★像の左右に各一行の刻銘があり、法華経化城喩品の偈(げ)と「文永十一年(1274)甲戊二月五日 為慈父上生 永清造之 大工末行」の銘を刻む。 |
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本ページの作成にあたってはWikipediaや当該施設のHPを多分に引用をさせていただきました。 |
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■わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。 |
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関西・京都:石清水八幡宮と一休寺、海住山寺、恭仁京 |