UNESCO 世界遺産(ヨーロッパ)の切手 イタリア
ローマ時代に世界の中心だったイタリアの世界遺産です。イタリア共和国(Repubblica Italiana、通称:イタリア)は、南ヨーロッパに位置する共和制国家。 ギリシア時代より都市国家が成立。なお、伝説ではB.C.753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。、B.C.509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制開始。 サムニウム戦争(B.C.343年 - B.C.290年)などによりB.C.272年にイタリア半島を制圧。 フェニキア人の植民国家カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)(B.C.264年 - B.C.146年)によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を握る。その後もイタリアはローマ帝国の中心地域として栄えたが、395年に東西ローマ帝国が分裂し、イタリアが所属する西ローマ帝国は476年に滅びる。 東ゴート王国が一時支配したが、ローマ帝国の後継を主張する神聖ローマ皇帝、ローマ教皇、東ローマ皇帝によって分割された。 数々の長い歴史を持つイタリアです。
世界遺産(ヨーロッパ) |
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[ ヨーロッパの世界遺産の索引: |
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イタリアの世界遺産 |
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■イタリアの世界遺産には (1)ヴァルカモニカの岩絵群 (2)サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 ドメニコ会修道院 (3)ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (4)フィレンツェ歴史地区 (5)ヴァチカン市国 1984年 文化遺産 (6)ヴェネツィアとその潟(ラグーン) (7)ピサのドゥオモ広場 (8)サン・ジミニャーノ歴史地区 (9)マテーラの洞窟住居 (10)ヴィチェンツァ市街/ヴェネト地方のパッラーディオ様式の邸宅 (11)シエナ歴史地区 (12)ナポリ歴史地区 (13)クレスピ・ダッダ (14)フェッラーラ:ルネサンス期の市街/ポー川デルタ地帯 (15)デル・モンテ城 (16)アルベロベッロのトゥルッリ (17)ラヴェンナの初期キリスト教建築物とモザイク画 (18)ピエンツァ市街の歴史地区 (19)カゼルタの18世紀の王宮と公園/ヴァンヴィテッリの水道橋とサン・レウチョ邸宅 (20)サヴォイア王家の王宮 (21)パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ) (22)モデナの大聖堂、トッレ・チヴィカとグランデ広場 (23)アマルフィ海岸 (24)アグリジェントの遺跡 (25)ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ (26)スー・ヌラージ・ディ・バルミーニ (27)アクイレイアの遺跡と総主教聖堂バシリカ (28)ウルビーノ歴史地区 (29)パエストゥムとヴェリアの遺跡を含むチレントとディアノ渓谷国立公園/パドゥーラのカルトゥジオ修道院 (30)ヴィッラ・アドリアーナ(ティヴォリ) (31)エオリア諸島 (32)ヴェローナ市 (33)アッシージ、聖フランチェスコ聖堂と関連遺跡 (34)ティヴォリのエステ家別荘 (35)ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(シチリア島南東部) (36)ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (37)ヴァチカン市国 (38)アテナ神殿 (39)チンクエテッレ (40)ポンベイ遺跡 が登録されています。 参考:社団法人 日本ユネスコ協会連盟のHP(世界遺産活動) |
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フィレンツェ歴史地区 |
ピサのドゥオモ広場 |
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■花の都フィレンツェ。後世に大きな影響を与えたルネサンスは、イタリアのこの町で生まれ、この町で育まれ、そして世界に広がっていきました。その当時の栄光が詰まった街並みは今日でも往時の姿を留め、屋内で見られる数々の名画もさる事ながら、屋外で眺めるその街並みも不朽の名作です。 |
■ピサのはずれにあるドゥオモ広場に建つ、洗礼堂、大聖堂、鐘楼、墓所回廊の4つが印象的である。ピサのこのころの繁栄を象徴した建物群である。特に鐘楼はピサの斜塔として有名で、現在の傾斜角は約3.97度で、傾斜の進行は止まっているそうである。。 |
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花の都フィレンツェ |
ピサの斜塔 |
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このピサの斜塔はガリレオ・ガリレイは物体が自由落下するときの時間は落下する物体の質量には依存しないという法則を実証するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている。 |
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右の切手は、フィレンツェのヴェッキオ宮殿前のシニョリーア広場にある「ネプチューンの噴水」(大理石とブロンズ)バルトロメオ・アンマナーティ作(1575年)です。海の神の姿のこの巨大な大理石像は、「白の巨人」と呼ばれました。 |
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ジョットの鐘楼の頂上からの花の都フィレンテェの街並み風景 頂上はクーポラの頂上と略同じ位 |
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ジョットの鐘楼の頂上からの世界遺産フィレンテェの街並み風景 トスカーナの丘、一番右ではサンタ・クローチェ聖堂(教会)も見えます |
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デル・モンテ城 |
カステル・デル・モンテ(Castel del monte) |
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■カステル・デル・モンテ(Castel del Monte)とは、イタリア共和国プーリア州アンドリアにある1240年頃、シチリア王フェデリーコ1世(シチリア王としては1世だが、神聖ローマ皇帝としてフリードリヒ2世またはフェデリーコ2世として有名)によって建てられた。 |
カステル・デル・モンテは、丘の上にぽつんとたつ美しい城で八角形を象徴的に取り入れており、全体が八角柱なのはもちろんのこと、各角には八角形の小塔がそびえ、中心部にはやはり八角形の中庭がある。 |
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ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 |
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■ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 は、イタリアのローマおよびバチカンにあるユネスコの世界遺産の登録物件でヴェネツィア広場を中心としたエリア。伝説によると、王の命により双子のロムルスとレムスの兄弟はテヴェレ川に流され、そこで狼に拾われて育てられた。そのロムロスがパラティーノの丘にローマを築いたという。実際には、B.C.7世紀ごろにサビニ人、ラテン人がローマを築いた。その後、現在まで都市として機能しつづけており、都市の中の都市とローマが呼ばれる所以である。 |
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ヴェネツィア広場 |
パンテオン |
コロッセオ(ハンガリー,1966年) |
ローマ・コロッセオ |
■コロッセオ (Colosseo) は、古代ローマ時代の建造物。ローマ帝政期に造られた円形闘技場で現在ではローマを代表する観光地になっている。 |
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ローマ・コロッセオ |
カラカラ浴場(ローマ大衆浴場) |
狼の乳を吸うロムルスとレムスの像 |
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カラカラ帝のコインはコチラ。 |
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コロッセウムの外側 |
コロッセウム |
コロッセウムの内側・地下施設 |
コロッセウムの内側 |
ローマ・スペイン広場 |
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「バルカッチャの噴水」 |
スペイン広場の階段上から |
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■ローマ・スペイン広場のトリニタ・デイ・モンティ教会とスペイン階段、広場中央のバルカッチャの噴水。 |
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■サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)はローマにあるカトリック教会の大聖堂。 ローマの五大バジリカ(他の四つはサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂)の一つ。名称は「城壁外の聖パウロ大聖堂」の意味です。 コンスタンティヌス1世により聖パウロの墓の上につくられたもの。386年、テオドシウス1世によって大規模に建設される。
1823年に火災で焼失するが、その後再建された。 |
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「聖なるマリアにささげられた聖堂」の意で、ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の聖堂)の一つに数えられる。サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は古代キュベレ神の神殿があった場所に築かれた。数回にわたる改修と1348年の地震に伴う崩壊の危機を乗り越え、ローマのバシリカ様式の聖堂では唯一原構造を残している貴重な建築物。 |
サンタマリア・マジョーレ教会 |
サン・ジョパンニ・イン・ラテラノ大聖堂 |
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アマルフィ海岸 |
エオリア諸島(Aeolian islands) |
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■市街にはヨーロッパ、ビザンツ、イスラムなどの様式が、複雑に混ざり合った独特の町並みが残されています。 |
■エオリア諸島は伊豆七島よろしく7つの小さな島が近接してる島群。シチリア島北方、ティレニア海南部にY字型に並んで浮かぶ島々である。他にリーパリ諸島あるいはリパリ諸島という呼び方もある。 |
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アマルフィ海岸の市街地 |
エオリア諸島 |
エオリア諸島は火山も多く温泉もあります。現在では観光スポットです。島々はこの海域の活発な海底火山活動により形成された。地質学の名前に島の名前が使われており、例えばヴルカーノは火山そのものの、ストロンボリは間欠的な激しい噴火を示す火山のタイプの、リーパリは石英粗面岩の語源である。 |
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イタリア南部、地中海に面したアマルフィ海岸は、切り立った断崖とエメラルドの海が複雑に入り組み、その美しさは世界一と言われます。海岸沿いの最大の町アマルフィは高級リゾートとしても有名で、ヨーロッパ各地から観光客が訪れます。 |
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ヴェネツィアとその潟(ラグーン) |
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■ヴェネツィアのラグーンに本土の住民が移ってきた。彼らは、潟の泥に杭をたくさん打ち込みその上に家を建てた。それがやがて海に浮かぶ迷宮都市へと発展する。オリエントとの貿易で巨万の富を得た海洋国家、その象徴は総督。総督の末裔の別荘も撮影。また地球環境の変化とともに年々増加するアクアアルタという高潮の様子も撮影に成功。海水があふれ、サンマルコ広場を美しい池に変えてしまう。 |
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水浸しになったヴェネツィアのサン・マルコ広場 |
アルジェリアで発行されたヴェネツィア救済 ため息橋 |
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ヴェネツィア救済 |
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世界遺産 サン・マルコ寺院(Basilica di San Marco、サンマリノ) |
嵐にあうサン・マルコ寺院(12世紀のモザイク画)、サン・マルコ寺院の絵画、ヴェニスの地図(バチカン市国、1972年) |
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■サン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)は、福音記者マルコにささげられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂である。 ビザンティン建築を代表する記念建築物であるとされるが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用している。サン・マルコ広場(Piazza San Marco)に面して建ち、ドージェの館であるドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)に隣接し繋がっている。建物内は、黄金に煌く壁や天井と、祭壇には2,000個もの眩い宝石が埋め込まれた黄金の衝立がある。 1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれているため、本来現在は「サン・マルコ大聖堂」と呼ばれるのが適切である。しかし長らく「司教座聖堂(大聖堂)ではなかった」点が特徴の一つでもあり、現在も歴史上の呼称に合わせた「寺院(ないしは聖堂)」の呼び名が一般的である。 |
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イタリア・ヴェネツィアのサンマルコ寺院にある the tetrarchs(4世紀の彫像) |
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ヴェネツィア |
ヴェネツィア |
サン・マルコ寺院 |
ヴェネツィア |
ポンベイ遺跡 |
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dionysusのフレスコ画(フランス、1998年) |
ポンペイ遺跡 |
ポンペイ |
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■フレスコ (fresco) は西洋の壁画などに使われる絵画技法、その技法で描かれた壁画。(イタリア語では技法または壁画を指す場合はアッフレスコ affresco)。壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く技法。 |
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■ポンペイ(ラテン語:Pompeii、イタリア語:Pompei)は、1世紀迄ナポリ近郊にあった都市国家。ヴェスヴィオ火山の大噴火により、79年に壊滅した。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。B.C.6世紀に隆盛しローマの支配下に発展しましたが、西暦79年のベスビオ火山の噴火により一瞬にして埋没してしまった悲劇の古代都市です。1748年に発掘が始まるまで火山灰に埋まっていました。現在は当時の文明が驚くほど発達していたことを示す邸宅や公共浴場、大劇場などが当時のまま出土され、イタリアの世界遺産に認定されました。 |
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チェルヴェーテリとタルクイーニアの古墳群 |
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チェルヴェーテリ(Cerveteri)と妻 |
■チェルヴェテリには、エトルリア時代の墳墓建築を知る上で貴重なバンディタッチャのネクロポリNecropoli della Banditacciaがあります。トゥーフォ(凝灰岩)に囲まれた道に沿って発掘された2,000の墓の多くを見学することができ、トゥムリtumuliと呼ばれるエトルリア人の墓の変遷を見ることができます。 |
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ヴァチカン市国 |
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■バチカン市国(ヴァティカン市国、ヴァチカン市国)は、イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家。バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンの統治者はローマ教皇である。サン・ピエトロ大聖堂:イタリア・バロック様式の代表的な建築物。 |
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ヴァチカン市国の地図 |
サンピエトロ大聖堂、サン・パオロ・フォリレ・ッムーラ教会、サンタマリア・マジョーレ教会、サン・ジョパンニ・イン・ラテラノ大聖堂(自動化切手) |
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サン・ピエトロ大聖堂 |
サン・ピエトロ大聖堂 |
バチカン市国の地図(モノクロ、博物館で購入) |
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タイランド発行 |
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■サン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:Basilica di San Pietro in Vaticano)はバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。 |
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サン・ピエトロ大聖堂(イタリア語:Basilica di San Pietro in Vaticano) ファサード、クーポラ バチカン市国 |
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ヴァルカモニカの岩絵群 |
ティヴォリのエステ家別荘 |
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ヴァルカモニカの岩絵群 |
■ヴァルカモニカの岩絵群の一部、「2頭の動物に牽かれる車」を描く。1979年世界遺産登録。イタリア北部のアルプスの山麓を流れるオーリオ川沿いの渓谷の岩に彫られた岩絵群。約1億年前のものからローマ帝国時代にいたるまでの約8000年間に渡る線刻画が残っている*世界遺産の宝庫と称されるイタリアで、最初に世界遺産に登録された。 |
印象派・コローが描く『ティヴォリのエステ家別荘の庭 |
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ヴァルカモニカの岩絵群の一部、「2頭の動物に牽かれる車」を描く。 |
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■ティヴォリのエステ家別荘は、イタリアのティヴォリにあるユネスコの世界遺産登録物件名。4.5haにという広大な敷地の庭園内には、オルガンの噴水、エフェソスのアルテミス(多産の女神)、百噴水など使われているモチーフがギリシャ・ローマ時代の噴水500ほど、築かれている。後期ルネッサンス期の代表的な庭園であり、イタリア一美しい噴水庭園として称えられ、現在に伝わっている。フランツ・リストのピアノ曲集「巡礼の年第3年」には、この庭園をモチーフに作曲された曲が3曲収められており、中でも《エステ荘の噴水》は壮麗に吹き上げる噴水を表題とした名曲として知られている。 |
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ヴェローナ市 |
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ヴェローナは古代遺跡で世界遺産に登録され、シェイクスピアの戯曲『ヴェローナの二紳士』、『ロミオとジュリエット』の舞台としても知られる。 ヴェローナは、中世の町並みにローマ遺跡が残り、円形劇場(アレーナ・ディ・ヴェローナ)で知られている。このアレーナでは毎年7月〜9月にかけ野外オペラが上演される。 |
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ヴェローナの市街地 |
ヴェローナの市街地 |
ヴェローナの市庁舎(ブラ広場) |
ヴェローナ ブラ広場 |
「ジュリエッタの家」(it:Casa di Giulietta)の庭 |
「ジュリエッタの家」(it:Casa di Giulietta)の観光客 |
「ジュリエッタの家」 |
「ジュリエッタの家」 |
■「ジュリエッタの家」は、、ヴェローナの細いカペッロ通りから入口を入ると中庭で、ここにバルコニーがあります。その手前にジュリエット像が立っているのですが、この胸に触ると幸せになると言われているので摩擦でつるつるになっています。 シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の舞台であり、映画や舞台でおなじみのバルコニーは観光名所となっている。ここは「ジュリエッタの家」と呼ばれており、館内には当時の家具や日用品が展示されている。 前庭にはジュリエッタの像もあります。 ジュリエット像の右胸を触ると、幸せな結婚が出来るという言い伝えがあるそうです。だから、ジュリエット像の右胸は、みんなが触る為、銅色のままです。(ヴェローナ) |
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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 ドメニコ会修道院 |
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参考掲載・切手 ダ・ヴィンチ 『最後の晩餐』(グレナダ) 一点透視図法 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 |
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■サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(イタリア語: Chiesa di Santa Maria delle Grazie)は、イタリア・ミラノにあるカトリック教会の聖堂。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は、敷地内の修道院にある食堂の壁画であり、ユネスコの世界遺産(レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院)に登録されている。ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァがドミニコ修道院と教会の建設を指示し、建築家ソラーリによって長い年月をかけ1469年に完成した。教会のアプスは1492年以降、ドナト・ブラマンテにより改築されたものとされる(明白な証拠はない、という指摘もある)。 |
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イタリアの歴史遺産 |
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ポッツォーリ(ナポリ)…古代都市の代表的遺跡・セラピスの神殿 |
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■セラピス神はエジプトとギリシアの宗教的概念の融合で、アレキサンドリアにその根源があります。セラピス神への崇拝を始めたとされるのはプトレマイオスT世で『セラペウム』と呼ばれる最初の神殿を建てました。セラピス神への信仰は広くローマ時代に引き継がれ、その神殿もローマ帝国全土に広まっていきました。 でも見た目はギリシャ風ですね。 エジプトの人の反発も大きかった。 |
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カストルとポルックス神殿 Ruins of Temple of Castor and Pollux in Valley of the Temples in Agrigento (Akragas), |
■カストルとポルックス神殿またはディオスクーリ神殿(イタリア語: Tempio dei Dioscuri)はローマのフォロ・ロマーノにある古代の建築物。紀元前495年、レギッルス湖畔の戦いの勝利への感謝を込めて建設された。カストルとポルックス(ギリシア語ではポリュデウケース)はディオスクーロイまたはジェミニ(双子)と呼ばれ、ゼウス(ユーピテル)とレーダーの双子の息子を意味する。その信仰はギリシャからマグナ・グラエキアを経由して南イタリアのギリシア文化と共にローマにもたらされた。伝説によれば、カストルとポルックスは2人の有能な騎手として戦場に現れ、ローマ側に加勢したという。また、ローマが勝利した後にもフォルム・ロマヌムのユトゥルナの泉に現れ、馬に水を飲ませたという。神殿は彼らが現れたと言われている場所に建てられた。ポストゥミウスの息子が神殿を完成させたのは紀元前484年のことだった。今日、土台には外装がなく、3本の柱とエンタブラチュアの一部が建っていて、フォロ・ロマーノの中でも最も有名な遺跡のひとつとなっている。 |
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■ミラノのドゥオーモ (イタリア語:Duomo di Milano、ドゥオーモ・ディ・ミラーノ) は世界最大のイタリア後期ゴシック建築。5世紀もの歳月をかけて多くの芸術家によって完成された。聖堂の上に昇ることもできる。残念ながら登頂は出来なかった。1386年にジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの望みにより着手し、奥行き57メートル、幅92メートル、面積11700uのこの巨大な大聖堂はかって古い教会のあった場所に建てられました。建設には500年以上の年月を使い、マッジョーレ湖のカンドリアの薄桃色の大理石が使われています。この大理石はティチーノ川を運搬船で運ばれ、その後、ナヴィーリオ・グランデを通り、現在のラゲット通りVia Laghettoの位置にあたるダルセナ(船だまり)まで運ばれてきたのです。 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称で、15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。 |
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ミラノのドゥオーモの全体(左がガッレリア) ドゥオーモ広場から |
ミラノのドゥオーモ前のドゥオーモ広場の |
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■イタリア特別編 [ イタリアのトップ|ミラノ|ヴェローナ|ヴェネツィア|フィレンツェ( ドゥオーモ|ヴェッキオ橋|ウフィツィ美術館とアカデミア美術館 )|ローマ( コロッセウム|フォロ・ロマーノ )|バチカン市国( バチカン博物館|ラファエロの間|システィーナ礼拝堂 ) ] |
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UNESCO 世界遺産(ヨーロッパ)の切手 イタリア |
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