名張市|蔵持・梅が丘・大屋戸地区区の遺跡・古墳 |
はじめに 蔵持・梅が丘・大屋戸地区
この地域も沢山の遺跡・古墳があります。 中切遺跡|塚原遺跡 塚原古墳群|小谷古墳群|田尻1号墳|原出遺跡|丈間谷遺跡|福地遺跡|蔵持黒田遺跡|窯跡|大屋戸古墳群|久保遺跡|宮本遺跡|上出遺跡|大江寺1号墳
|大江寺跡|本陣山城跡|大家館跡|千代野遺跡|赤坂遺跡。
梅が丘団(昭和60年造成)地5号東公園から眺める南方にある名張の市街地 |
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蔵持 塚原遺跡 塚原古墳群
■名張盆地を大きく蛇行した名張川が、北東部の山峡へ流れ出る川裾の独立丘陵・名張市武道館裏に位置する。古墳時代後期の横穴式石室の古墳群(古墳時代後期の横穴式 石室を埋葬施設とする30基の古墳群)が以前より知られていたが、平成12年(2000)に市道の新設工事により新たに発見された、弥生時代後期を中心とする集落跡である。 環濠内からは多量の土器とともに少量の石器も見つかっている。 生産具としての石包丁2点と有茎の石鏃がある。
★倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。女王国ではもともと男子を王としていたが70〜80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の正史『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』「東夷伝」に記述されている。
★『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝) 「其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。」
『後漢書』卷85 東夷列傳第75 「桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。」
・中切遺跡 蔵持町里字中切 江戸 範囲70m×350m 陶磁器 昭和61年度市発掘調査
初瀬街道沿いの近世建物跡
・塚原9号墳 蔵持町里字田尻 古墳 規模不明、横穴式石室墳丘破壊
・塚原10号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径16.5m、横穴式石室 弥生土器
・塚原11号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径15.5m、高2.5m 土師器 墳丘に盗掘坑あり
・塚原12号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径13.6m、高2.2m
・塚原13号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径16m、高2.6m
・塚原14号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径13.4m、横穴式石室
・塚原15号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径19.7m、高1.6m、横穴式石室
・塚原16号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径10.6m
・塚原17号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径18m、高3.1m、横穴式石室
・塚原18号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径6.8m、高1.3m
・塚原19号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径10.4m、高2.6m 墳丘に盗掘坑あり
・塚原20号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径10.6m、高2.4m 未掘
・塚原21号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径12.6m、高3.9m
・塚原22号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径20.6m、高2.8m
・塚原23号墳 蔵持町里字田尻 古墳 規模不明
・塚原24号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径13.3m、高1.5m、横穴式石室
・塚原25号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径7.6m、高0.8m
・塚原26号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径9m、高1m 未掘
・塚原27号墳 蔵持町里字田尻 古墳 規模不明
・塚原28号墳 蔵持町里字田尻 古墳 規模不明、横穴式石室
・塚原29号墳 蔵持町里字打越 古墳 規模不明 須恵器
・塚原30号墳 蔵持町里字打越 古墳 円墳、規模不明 土師器
蔵持町芝出字小谷 小谷古墳群
■小谷古墳群は、名張盆地中央部の「三太山」と称される小丘陵の西面する斜面に位置する円墳7基と1基の方墳で構成する古墳群である。昭和59年(1984)、名張都市計画事業中央東土地区画整理事業にともない1号墳~5号墳の5基の古墳が発掘調査された。いずれの古墳も内部主体に横穴式石室を有する。最大規模の径約20mの小谷3号墳を中心に6世紀末頃を中心に築造された古墳群であるの古墳である。
・小谷4号墳 蔵持町芝出字小谷 古墳 方墳?、一辺8m、横穴式石室(無袖)
土師器、須恵器 昭和59年度市発掘調査、消滅
・小谷5号墳 蔵持町芝出字小谷 古墳 円墳、径10m、横穴式石室、
奥壁付近のみ遺存 須恵器 昭和59年度市発掘調査、消滅
・小谷6号墳 蔵持町芝出字小谷 古墳 円墳、径8m、高0.5m 墳丘一部破壊、
頂部に天井石と思われる石材が露出
・小谷遺跡 蔵持町芝出字小谷 室町 中世の集落跡、掘立柱建物、竪穴工房、
集石土坑 土師器、瓦質土器、青磁、古銭、陶器、擂鉢、石鏃 昭和57年度市発掘調査
・小谷7号墳 蔵持町芝出字小谷 古墳 円墳、径8m 緑地
・小谷8号墳 蔵持町芝出字小谷 古墳 円墳、径12m 緑地
蔵持・大屋戸 久保遺跡
■久保遺跡 大屋戸字久保 弥生時代~古墳時代 弥生土器、土師器 旧称「大屋戸遺跡」
名張川の対岸に塚原遺跡 塚原古墳群があり、すぐ裏が不二山・蓮台院・蓮花寺。 その前には大屋戸1号墳・2号墳がある。
土師器として紹介されている土器は、二重口縁壷や丸底壷など古墳時代初頭の様相を呈している。明確な出土地は不明であるが、この山麓であることには間違いない。
蔵持・四ノ切古墳
■蔵持・四ノ切古墳(よんのきりこふん)は、桔梗が丘住宅地に隣接する丘陵南斜面で、昭和40年頃宅地用地のため開墾していたところ、地表下30cmで多量の鉄製品が出土し採集された。 出土状況から木棺直葬の古墳と想定されたが、詳細は不明である。 墳丘や周溝等は確認されていない。 古墳の南側には、蔵持町里地内で名張川に合流するシャックリ川が流れており、また、中世以降大和と伊勢とを結ぶ小波田越えの初瀬街道が通っている。
その他この地域の遺跡・古墳
■蔵持
・田尻1号墳 蔵持町里字田尻 古墳 円墳、径7.4m、高0.9m
・原出遺跡 蔵持町原出字原ノ前・草田 古墳~ 範 囲200m×50m、
鎌倉時代屋敷跡、掘立柱建物6棟、溝3条 土師器、瓦器、青磁、天目茶椀、
古銭、鉄沢 昭和56年度市発掘調査
・丈間谷遺跡 蔵持町原出字丈間谷 鎌倉~ 範 囲70m×100m、
飛鳥時代掘立柱建物、竪穴住居 土師器、須恵器 昭和59年度市発掘調査、
昭和58年度市試掘調査
・福地遺跡 蔵持町芝出字福地 平安 範囲30m×20m 土師器、須恵器、サヌカイト
・蔵持黒田遺跡 桔梗が丘南1番町 縄文~古墳 奈良 範囲6700㎡、竪穴住居、溝、
テラス状遺構縄文土器、弥生土器、手焙り形土器 昭和50・51年度市発掘調査、
一部保存
・窯跡 蔵持黒田古窯跡 桔梗が丘南1番町 奈良 須恵器 昭和59年度市発掘調査、
一基のみ、消滅
■大屋戸
・大屋戸1号墳 大屋戸字宮本 古墳 円墳、横穴式石室
・大屋戸2号墳 大屋戸字宮本 古墳 円墳、横穴式石室
・久保遺跡 大屋戸字久保 弥生~古墳 弥生土器 旧称「大屋戸遺跡」
・大屋戸3号墳 大屋戸字宮本 古墳 円墳、径7.6m、横穴式石室墳丘一部破壊、
羨道入口の石露出
・大屋戸4号墳 大屋戸字宮本 古墳 円墳、径8.5m、横穴式石室墳丘一部破壊、
羨道入口の石露出
・宮本遺跡 大屋戸字宮本 古墳 範囲100m×30m 土師器、須恵器、サヌカイト
・上出遺跡 大屋戸字上出 弥生古墳 範囲220m×60m 土師器、金環、勾玉
・大江寺1号墳 大屋戸字大江寺 古墳 円墳、径約9m 旧称「大屋戸古墳群3号墳」
・大江寺跡 大屋戸字大江寺 室町 規模200m×100m 瓦、瓦質土器、土師器
■夏秋
・本陣山城跡 短野字上中山 室町 土塁、空濠あり 別称「短野城跡、
掛筒城跡、筒井順慶城跡、 豊後城跡」
・大家館跡 短野字宮ノ本 室町 規模不明 消 滅、通 称「大家の藪」
・千代野遺跡 短野字千代野 縄文鎌倉 範囲60m×50m 縄文土器、瓦器、
ナイフ形石器、石鏃 昭和54年度試掘調査、昭和58年消滅
■下三谷
・赤坂遺跡 下三谷字赤坂 縄文 範囲130m×50m サヌカイト、石鏃 昭和58年度発掘調査
注)Wikipedia、名張市史の資料、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
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