名張市|旧伊賀線(桔梗が丘~西名張) 名松線、シャックリ川・・ |
はじめに 旧伊賀線
・関西本線の伊賀上野駅と上野町(現在の伊賀市)の中心地を結ぶため、伊賀電気鉄道の前身である伊賀軌道により上野駅連絡所(現在の伊賀上野駅) -
上野町駅(現在の上野市駅)間が1916年に開業したのが始まりである。伊賀上野駅 - 名張駅(後の西名張駅)間が全通したのは1922年である。
伊賀神戸駅 - 西名張駅間は、大阪線と競合するため、1964年10月に廃止された。廃止に際し、中間駅のなかった大阪線の名張駅 - 美旗駅間には桔梗が丘駅が蔵持駅および西原駅の代替として新設された。
廃線跡は美旗新田駅から蔵持駅にかけては農地の区画整理と宅地開発により、一部を除き痕跡が失われたが、蔵持駅跡付近から西名張駅跡までは一般道や農道と化しており、跡をたどることができる。 伊賀線は桔梗が丘駅のすぐ横を通っていたが、この部分は現在、保線基地に転用されており、ここから西原駅にかけての線路跡は県道57号線と森に取り込まれ、確認は困難である。
路線諸元 ①路線距離 16.6 km、②軌間 1,067 mm (狭軌)、③線路数 単線
写真や情報は2021年5月段階のものです。
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※ページ内の索引 [ 蔵持駅 桔梗が丘駅|シャックリ川|蔵持春日神社|熊坂長範|名張市立蔵持小学校|名松線|八丁駅|宇流冨志禰神社 御饌田|西名張駅 ]
蔵持 蔵持駅 桔梗が丘駅
■蔵持駅 1964年(昭和39年)10月1日 - 伊賀線伊賀神戸 - 西名張間廃線に伴い廃止。翌日、代替駅として大阪線に桔梗が丘駅を開設。 廃止後も駅横にあった農業倉庫が長らく残り、目印になっていたが、現在は痕跡をほとんどとどめず、駅のあった場所は名張市蔵持市民センターと蔵持まちの保健室となっている。 また、線路跡が生活道路に転用されている。 この道路は桔梗が丘駅の手前まで続くが、同駅手前のシャックリ川を渡る橋梁では橋桁が道路橋に再利用されており、並走する近鉄大阪線の車窓からも確認できる。
■桔梗が丘駅(ききょうがおかえき)は、三重県名張市桔梗が丘一番町にある、近畿日本鉄道(近鉄)大阪線の駅。 名張市内で初の大規模な団地として開発された桔梗が丘住宅地が1963年(昭和38年)に着工したことと、伊賀線の西名張駅 - 伊賀神戸駅間を廃止することになったため、当該区間に設置されていた蔵持駅の代替として1964年(昭和39年)10月1日に開業した。
現在の桔梗が丘駅 |
津方面左が旧伊賀線 |
大阪方面右が旧伊賀線 |
大阪方面旧伊賀線終点 |
近鉄大阪線ガード |
旧伊賀線と現行・近鉄大阪線が最接近する所があり、それぞれの車両の乗客が窓から荷物(忘れ物など)の手渡しなども行われていたという。 |
昭和39年/昭和40年の桔梗が丘駅(左:津方面、右:大阪方面) |
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蔵持 シャックリ川
■シャックリ川(しゃっくりがわ)は、三重県名張市を流れ、名張市蔵持町里で名張川に合流する淀川水系一級河川。 源流部にゴルフ場、流域の大規模新興住宅地や工業団地からの排水の問題を抱えており、現在は名張市の中で最も汚れた川となっている。最上流部には雑木林の中で自然の残ったところがある。流下するに従って、桔梗が丘や富貴ヶ丘などの団地排水・工業排水が流入し、宮橋の下流で名張川本流と合流する。 最近は藻も生え、意外ときれい。
シャックリ川の河川名の由来
①川の流れが曲がっているのでしゃくれている川ということから。
②川の流れが曲がっているのでシャクトリムシのようなかたちに見えるから。
③この川に多くの魚がいたので、タモやカケ針でしゃくったり、ひっかけたりして、簡単に魚が獲れたから。
④川のほとりに立つとしゃっくりが出るから。
蔵持 蔵持春日神社
■春日神社の社伝は詳らかでなく、古くから蔵持村(里、原出)の氏神として現在地に鎮座。 最古の棟札は慶長18年(1613年)のもの。 境内の十三重石塔(重要美術品、室町時代中期
寛正四年 1463年、凝灰岩、高さ 約280cm)も村内の寺跡(現蔵持保育所付近)にあったものを近世になって、ここに移転したと伝えられている(現地説明板) 石造十三重塔は、相輪と笠石一層は欠損し、現在は十二重です。笠石の上部五層は後世の補作です。
祭神:天兒屋根命(アメノコヤネノミコト)、大物主命、速玉男命
狭田村(芝出:里や原出の南側)には別に氏神春日神社があった。明治41年、それも含め熊野神社、字小谷・稲荷神社、字田尻・神明神社、同境内社津島神社・八柱神社・八幡神社、字北ノ前・金毘羅神社を合祀した。 〒518-0752
三重県名張市蔵持町原出376
初瀬街道沿いにある三重交通の蔵持のバス停の横には「二月堂御供田記念碑」や「湯舟谷開路碑」と「町田橋の親柱」が並んでいます。春日神社は「シャックリ川」をはさみ向こう岸になる。
※「二月堂御供田記念碑 明治二十四年(1891)五月建立 明治維新の後、寺の聖人をたたえ、うやまい、村も金を出し、熱心に信仰が行われた。 年が進み村の信者が発起し、二月堂の田として、泥田二百十七坪を買い上げ、寄進したことが刻まれている。 二月堂の東香水講の記念碑。 略書」
※「湯舟谷開路碑 明治十七年(1884)十二月建立 名張上野間に狭い坂道が四ヵ所あった。 その内、開立坂(かいだてざか)は那賀郡蔵持村に属し、最も多くの旅人が通っていた。 この街道の役人が道の付替えを計画、工事は開立坂の東、湯船谷を通り東田原まで、この改修工事にかけた熱い思いと熱心な依頼により、ここに幾日も土を運び、険しい坂道を短期間のうちに、平らな道に改修した功績を称えた記録が刻まれている。 (元は開立坂(かいだてざか)登口にあった。) 略書」
その右2つの石碑はここの橋名がしるされた石柱で「まちだ橋」と記されている。
蔵持 熊坂長範(なばりの昔話)
■もう遠い昔のこと、蔵持村原出で熊坂長範が生まれた。ほれ、あの大どろぼうじゃ。子供のころは太郎といって生まれつきとても器用な子どもだったんやわ。両親が早く死んで一人ぼっちになったある日のこと、もらわれていった親類の家の土蔵の前で泥遊びをしておったそうな。ふと、土蔵の方をみると、扉が半分あいてかぎがさしたままになっていたんや。きっと家の人たちが中で捜し物でもしておったんじゃろ。いたずら好きの太郎は「ようし、このかぎを取って合いかぎを作ってやろう。おもしろそうじゃ。」 すきを見て、かぎをはずし、持ち出したんじゃ。大急ぎで田んぼまで行き、田の土でかぎの型をとってしまいおって、何くわぬ顔でかぎを元に戻しておいた。器用な太郎は、かぎの型の土に鉄を流し込んで、みごとな合かぎを作ってしもうたんじゃ。それからというもの、合かぎを使って親類の土蔵に忍び込み金目の物ばかりを持ち出しておった。そのうち、家の者たちがどうして土蔵のものが次々となくなるのか、それも金目の物ばかり、と不思議に思い始めてな。
「ようしこうなったら待ち伏せて盗人を捕まえてくれるわ。見つけたらどうなるか思い知らしたるわ。」 ものすごいけんまくだったんじゃよ。そして、今日か明日かと毎日、毎日目を光らせておったそうな。 しばらくたって、太郎がいつものように自分が作った合かぎで土蔵をあけようとしたときとうとう捕まってしもうた。家の主人は太郎を見て、「ムウ、お前は、子どものくせに盗っ人をするとは末恐ろしいやつじゃ。そんなことをするとは思わなかった。家への出入りは絶対ならん。とっとと出てゆけ!。」
太郎は「かっ、かんべんしてくれー、かんべんしてくれー、もう二度としないから許してくれー。」 しきりにあやまり、たのんだけど、家のものは許してくれず、太郎は泣きながらとうとう家を出て行ったんやわ。 太郎は蔵持村を出て美濃の国(岐阜県)に移り住んでどろぼうになり、何年かあとには「長範」と名乗って大あばれをしていたそうな。
そう言うと悪人と思われるのじゃが、長範はそこらのどろぼうと違い金持ちやずるがしこい商人らから金や物を盗んで、貧しい人たちに分け与えていてな。憎めないどろぼうだったんじゃ。
平安時代の末、牛若丸(義経)が京の三条の金売りの吉次という男をおともに、奥州(東北地方)に向かっていたとき、長範は一行の荷物を盗んでやろうとくわだてたんや。その夜、一行は美濃の赤坂の宿で泊まるようすなのでそっと後をつけ、夜がふけるのを待っておったそうや。あたりが闇につつまれ静まりかえったとき長範は、そっと牛若丸の部屋へ忍び込んだ。
「しめしめ…よく眠っておるわ。」と、思った瞬間、運悪く見つかってしもた。めったなことではやられたことはなかったのに、相手が牛若丸とあってはな…。とうとう斬られてしまいおったんやわ。
長範の生まれたところは、長範が田の土でかぎ型をとったということで「鍵田」と呼ばれておったが最近では「かわぎた」とか「こぎた」と呼ばれ、春日神社には今でも「伊州鍵田領主熊坂長範」と書かれたむな札があるそうじゃよ。 話 蔵持のお年寄り
熊坂長範(くまさか ちょうはん)は、平安時代末の伝説上の大盗賊です。しかし、実在したかどうかははっきりしません。 出生などについては諸説がありますが、名張では、蔵持出身との説が伝わっています。 室町時代後期に成立したと推定される幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。 伝承地:蔵持春日神社・熊坂長範屋敷跡
▽伊州=伊賀地方の旧国名
▽むな札=むねあげの時、工事の由緒などを書いてむな木に打付ける板。
蔵持 名張市立蔵持小学校
■名張市立蔵持小学校 明治8年9月23日に廃寺を使用し、蔵持小学簡易授業所として創立しました。のちの明治25年8月に蔵持尋常小学校と改称し、明治42年3月30日、現在地に移転改築とともに、創立記念日を4月22日に変更しました。 昭和22年4月に、名張町立蔵持小学校と改称し、さらに、昭和29年3月31日に、市制実施にともない名張市立蔵持小学校と改称し現在に至っています。昭和40年4月より、桔梗が丘団地児童の通学が始まりました。その後、桔梗が丘小学校完工にともない本校より分離しました。昭和47年8月18日旧校舎解体作業が始まり、9月21日に完了し、校舎の一部は、愛知県犬山市の明治村に移転・保存されています。 脚部に被弾したピアノ。
現在の蔵持小学校 / 蔵持小学校近くの早苗 |
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1888年(明治21年)に三重県の尋常師範学校本館 / 1972年(昭和47年)に解体された旧校舎 写真は「伊賀の100年」(郷土出版社)より転載 |
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三重県の尋常師範学校本館(1888年建設)旧校舎の設計は三重県庁第三課土木掛の清水義八で、同じく明治村で保存公開されている三重県庁舎(国重要文化財)も手掛けている。
昭和3年(1928)、本館の改築に伴い県下名張市の蔵持村に売却・移築され、蔵持小学校として使われていた。
当初は三重県庁舎と同様、E字形左右対称二階建だったが、明治村に移築・保存するに際し、もっとも特徴的な中央玄関部分と右翼の二教室分のみが残された。
名松線
■名松線(めいしょうせん)は、三重県松阪市の松阪駅から同県津市の伊勢奥津駅に至る東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(地方交通線)である。 雲出川の渓流沿いを走るローカル線で、名張と松阪を結ぶ計画であったことから、両都市の頭文字をとって名松線と名付けられた。
名松線は改正鉄道敷設法別表第81号にある、「奈良縣櫻井ヨリ榛原、三重縣名張ヲ經テ松阪ニ至ル鐵道及名張ヨリ分岐シテ伊賀上野附近ニ至ル鐵道並榛原ヨリ分岐シ松山ヲ經テ吉野ニ至ル鐵道」の一部として敷設された。 このうち、伊賀鉄道(現在の伊賀鉄道伊賀線を開通させた会社だが、現在の伊賀鉄道とは別会社)が名張駅(後の西名張駅。近鉄に合併された後の1964年に廃止)
- 伊賀神戸駅 - 伊賀上野駅間を改正鉄道敷設法成立と同じ1922年に開業させていたため、桜松線(おうしょうせん、桜井と松阪から各一文字を取った)の一部として、松阪駅から名張駅(後の西名張駅)を目指して工事が進められることになった。
路線については雲出川(くもずがわ)と名張川の存在があるようです。 雲出川を遡ると伊勢奥津に至り、そこから名張川を下ると名張に至る。 昔の人の目から見ると、伊賀と伊勢をへだてる急峻な布引山地をトンネルでぶち抜くより、このぐねぐねして遠回りなルートのほうが自然だったんでしょうね。
しかし、1930年に参宮急行電鉄が現在の近鉄大阪線・山田線にあたる桜井駅 - 名張駅 - 参急中川駅(現在の伊勢中川駅) - 松阪駅 - 山田駅(現在の伊勢市駅)間を開通させたため、松阪
- 名張間の旅客輸送目的で名松線は建設意義を失った格好になり、1935年までに松阪駅 - 伊勢奥津駅間を開通させたにとどまった。 申し訳程度に名張~奥津間で1日1便のバス路線が運行されています。
東町 八丁駅
■八丁駅 廃止直前に撮影された西名張駅の駅名標には次駅が蔵持駅となっていることから、これより前に営業休止または廃止されていたものと思われる。現在は道路となって痕跡をほとんどとどめず、駅のあった場所は東町集議所となっている。
旧伊賀線を |
介護老人保健施設 ふくにし の建物 |
県立名張高校入口 |
県立名張高校校舎 |
いよいよ |
旧伊賀線・八丁駅 |
旧伊賀線が開通していた頃は沢山の材木が運搬された |
旧伊賀線・八丁駅 |
東町集議所の傍には |
伊賀線開通当時は開通当時の名張の主力産業は、木材の切り出し・貨物輸送で、駅周辺には材木商が集まった。 |
※三重県立名張高等学校は、三重県名張市東町に所在する公立の高等学校。地元での通称は「張高(ばりこう)」。
1916年(大正 5年) 郡立名賀農学校として発足、1922年(大正11年) 三重県立名賀農学校と改組・改称、1922年(大正11年) 名張町立実科高等女学校設立、1927年(昭和
2年) 名張町立実科高等女学校が三重県立名張高等女学校に改組・改称
1948年(昭和23年) 名張高等女学校と名賀農学校が統合されて三重県名張高等学校(普通科・畜産科・農業科)となる。、1955年(昭和30年)
三重県立名張高等学校に改称
朝日町 宇流冨志禰神社 御饌田
■宇流冨志禰神社 御饌田(田圃) 神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物のこと。御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれる。 朝日町神社講の御饌田。
今はもう作っていないようだ。
朝日町の早苗 |
御饌田(田圃)碑 |
御饌田(田圃) |
背後は観音寺 |
今は雑草地 |
※宇流冨志禰神社は、三重県名張市平尾三三一九番地に御鎮座されており、主祭神は宇奈根命(うなねのみこと)、その他には、武甕槌命(たけみかつちのみこと)、經津主命(ふつぬしのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、大物主命(おおものぬしのみこと)、火之迦具士命(ほのかぐつちのみこと)、宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)、建速須佐之男命(けんはやすさのおのみこと)、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、応仁天皇(おうじんてんのう)、仁徳天皇(じんとくてんのう)が祭られている。
主祭神"宇奈根命"は水、穀物の神であり、名の由来は元々の御神体である赤岩が置かれている場所が名張川のうねりの側にあることから、うねる→うなね(宇奈根)となったと言われている。 また、このことから宇流冨志禰神社という名も"潤うふし水"という語源を元にできたと伝えられている。
木屋町 西名張駅
■西名張駅 三重県名張市木屋町にかつて存在。 もともと伊賀線の前身となる伊賀軌道は、関西鉄道が敷設した今の関西本線の伊賀上野駅から、上野町(現・伊賀市)の中心部や名張との間を結ぶために敷設された。 西名張駅が名張の表玄関となった。
そのため1922年(大正11年)にこの駅が開業した時は名張の中心地にあり、名張駅を名乗っていた。 この頃は名張から大阪へ行くのに、伊賀電気鉄道(伊賀軌道を改称)と関西本線を経由していた。 そして参宮急行電鉄の路線が建設される事になったが、この時に当駅周辺で利権屋による土地の買占めなどが起こったため、参宮急行電鉄では当駅の南側である平尾地区に線路を通す事にし、1930年(昭和5年)に名張駅が開業した。
戦時中、大阪線と競合する西名張 - 伊賀神戸間は不要不急線扱いで1945年(昭和20年)6月1日から営業休止されたが、近鉄大阪線は軌間1435mm、伊賀線は1067mmと軌間が異なっていたこともあって、関西本線に直通する貨物列車の便を図って1946年(昭和21年)3月15日に再開した。
その後、桔梗が丘住宅地の開発による近鉄大阪線名張 - 伊賀神戸間の輸送力増強に伴い、1964年(昭和39年)10月1日に廃止された。 西名張駅の敷地を名張市へ無償譲渡することや桔梗が丘駅の新設と名張駅止まりの列車の一部を伊賀神戸駅まで延長することなどを条件に、近鉄と名張市の間で合意が成立した。 西名張
- 伊賀神戸間は、最末期には旅客電車は1日5往復のみで、運行最終日となる9月30日にも特に記念行事は行われなかった。現在、駅舎のあった場所には西名張郵便局があり、車庫跡には名張産業振興センター「アスピア」が建っている。 当駅からの線路跡は県道80号線となっているが、すぐに離れて農道や生活道路となり、そのまま蔵持駅の先(桔梗が丘駅の手前)までたどることができる。
※大正11年に伊賀鉄道が開通した事で、大正13年には木屋町・豊後町が設町された。
※簗瀬水路(やなせすいろ)が高岩井堰から引き込んだ水を町中に巡らせるこの水路は、名張の歴史的資源であり、今でも人々の生活と密接に関わっています。 場所によっては川幅約5メートルで、コイが泳ぐほか夏はホタルが飛ぶことも。 5月下旬から6月 中旬にかけて情緒ある花筏が浮かび、風情ある景色を作りだしています。 名張市の旧市街は城下町として栄えたところですが、その特徴は名張川の水を市街地に取り込み、細かく分岐させて排水路として利用しているところです。この排水路は城下川と呼ばれています。
注)Wikipedia、名張市史、なばりの昔話、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
名張市|旧伊賀線(桔梗が丘~西名張) |