日本の歴史風景|伊勢街道 三重県明和町・斎宮(斎王まつり) |
明和町(めいわちょう)
明和町(めいわちょう)は、三重県南勢部に位置する町で多気郡に属する。 伊勢街道沿いにあり、古代には天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した斎王の住んだ斎宮(斎王宮)があった。飛鳥時代から平安時代にかけて、649年(大化5年)までは伊勢神宮を管理する神だちが、以降1330年ころまで斎宮が設置され、周辺の大半は神宮領となる。江戸時代には藤堂藩、鳥羽藩、紀州徳川藩、神宮領が混在していた。 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は、日本の古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)で、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。
『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。
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『伊勢物語』の中に描かれた、在原業平と恬子内親王(やすこないしんのう、斎王)がモデルと言われる恋物語でふたりはこの明和町の大淀の地で歌を詠み交わし、別れを惜しんだと伝えられています。
在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
恬子内親王 ?−913 平安時代前期-中期,文徳(もんとく)天皇の皇女。 母は紀静子(きの-しずこ)。 貞観(じょうがん)元年伊勢斎宮となる。
18年清和天皇が譲位したため退任した。
斎王まつり 禊(みそぎ)の儀
■斎王とは…
天皇の代わりに伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた女性のことで、天皇の娘や姉妹などの中から未婚の女性から選ばれ都から遠く離れた斎宮(現 三重県多気郡明和町斎宮)で暮らしていました。
斎王は、飛鳥・奈良時代から約660年、鎌倉時代の頃まで存在して、672年の壬申の乱の後、天皇となった天武天皇が、勝利のお礼に伊勢へ仕わせた自分の娘・大来皇女(おおくのひめみこ)が最初の斎王と言われています。
神に仕える斎王や、その生活の場はすべて卜定(ぼくじょう)という占いによる決まりがあった。 先代の斎宮が退下すると、未婚の内親王または女王から候補者を選び出し、亀卜(亀の甲を火で焙って出来たひびで判断する卜占)により新たな斎宮を定める(卜定(ぼくじょう))。 新斎宮が決定すると、邸に勅使が訪れて斎宮卜定を告げ、伊勢神宮にも奉幣使が遣わされて、斎宮はただちに潔斎に入る。 斎王に選ばれると、3年間ほど都で準備をしたあと、斎王群行(さいおうぐんこう)と呼ばれる5泊6日の旅をして、斎宮へと行きました。
斎王は日々清浄な生活を過ごしながら、伊勢神宮の三節祭(さんせつさい)とよばれる6月・12月の月次祭(つきなめさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい)の内宮と外宮に参宮し、その祭祀を奉仕することを任務としていました。
3泊4日をかけて伊勢へ赴き、天照大神に大玉串を捧げるという祭祀を執り行ったのです。
それ以外は斎宮で貝合わせや歌詠み、船遊びなどをしながら朝廷の権威を示し優雅な生活を送っていただろうといわれております
斎王まつり 斎王群行
■660年続いた斎宮制度… 野花菖蒲の開花する6月上旬に斎王歴史博物館を主会場に開催される「斎王まつり」。 斎王・女官・童女など総勢150名ほどによる「斎王群行」は十二単をはじめ平安の雅を再現しまつりのメインイベントとなっております。斎宮の近隣にある伊勢神宮へ向かう斎王とその従者の行列(群行)を再現している。
群行(ぐんこう)と呼ばれるこの旅は、斎王に仕える官人・官女に加え、京極まで見送る勅使など500人を越える壮麗なものでした。 伊勢神宮の斎宮(斎王)の京都から伊勢国の斎宮御所への下向、またはその発遣の儀式、群行の儀(ぐんこうのぎ)のことである。
一行は、近江国の勢多(せた)・甲賀(こうか)・垂水(たるみ)伊勢国の鈴鹿(すずか)・一志(いちし)に設けられた仮設の宮、頓宮(とんぐう)に宿泊し5泊6日の行程で伊勢に赴きました。
斎王が役目を終えるのは、天皇が次の天皇に位を譲った時や、天皇や斎王の身内が亡くなった時、または斎王自身が病気にかかった時などでした。
長い人で、50年も務めた斎王もいるとか。役目を終えるまで、決して都へ帰れなかったそうです。
倭姫命(斎王の起源)と崇神天皇
■倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明)は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族。第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。伊勢の地に天照大神を祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎王の直接の起源であるとも伝えられている。 第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に天叢雲剣を与えている。伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎王となった。
■崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)
- 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。
明和町・斎宮での 斎王まつり (切手、多気郡明和町) |
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明和町・斎宮での 斎王まつり |
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史跡斎宮跡 いつきのみや歴史体験館
■「幻の宮」とされてきた斎宮跡は、昭和45年の団地造成の計画をきっかけに事前発掘調査が行われ、一般 の住居跡から出土しない緑釉陶器、蹄脚硯などの多く土器が出土し、斎宮跡が明和町の斎宮にあったことが裏づけられました。その後、昭和48年から3ヵ年にわたり史跡の範囲確認調査が行われ、東西約2.0km、南北約0.7kmの137.1ヘクタールにおよぶ広大な面
積を占めていることが明らかになりました。このことから、わが国の歴史・文化を解明する上で重要な文化遺産として、昭和54年3月27日に国指定をされました。
この斎宮は天照大神の御杖代として、代々の天皇ごとに伊勢に派遣されていた「斎王」の御所であるとともに、その事務を取り扱った官人の役所でありました。
★貝合わせ(かいあわせ)は、平安時代から伝わる遊び。本来の貝合わせは、合わせものの一つとして貝殻の色合いや形の美しさ、珍しさを競ったり、その貝を題材にした歌を詠んでその優劣を競い合ったりする貴族たちの遊びであった。一方、「神経衰弱」に似たゲームとしての貝合わせは貝覆いと呼ばれていたが、殻を合わせる所作から後に混同されて、同じく貝合わせと呼ばれるようになった。
★貝覆いの貝は女性の掌中に握るのに適した大きさの、伊勢国二見産ハマグリを用いた。殻の内面には紙を貼り、源氏などの絵をかき、金箔などで極彩色に仕上げ、左右一対の殻には同じ絵を描いた。