三重写真集|松阪市 松阪城跡(県指定史跡)、三井家発祥地、松阪商人の館 |
三重県 松阪市の全体
松阪市(まつさかし)は、三重県中部に位置し、伊勢湾に面する市。松阪牛の生産で知られる。
江戸時代は伊勢商人を輩出した商業町であり、現在も紀勢本線や近鉄大阪線・山田線沿線を後背地に持つ三重県の経済拠点の1つである。江戸時代は紀州藩領であった。松阪市(まつさかし)は、松阪牛の生産で知られる。 松阪城跡(県指定史跡)、本居宣長記念館、三井家発祥地、松阪商人の館、松浦武四郎記念館などが名所旧跡がある。 歴史的背景としては、1580年(天正8年)
- 織田信長の次男・織田信雄が松ヶ島城を築城。 1588年(天正16年) - 蒲生氏郷が松坂城築城。 友好都市:中華人民共和国の旗無錫市濱湖区(中華人民共和国江蘇省)2008年4月14日友好都市提携。
2020年11月現在、今は新型コロナウイルス感染症( COVID-19(coronavirus disease 2019))が蔓延している状況で、最新の写真は2019年撮影。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページ内の索引 [ 松阪駅周辺|松阪もめん手織りセンター、三井家|松坂城跡、御城番屋敷|津松阪港|旧長谷川治郎兵衛家|大石不動院|大河内城跡 ]
松阪駅周辺から松阪城へ
■松阪駅(まつさかえき)は、三重県松阪市京町および京町一区にある、東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)の駅。JR東海の紀勢本線・名松線と、近鉄の山田線が乗り入れており、両事業者が構内を分割して管理する共同使用駅となっている。
■小津清左衛門長弘は、伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)出身の伊勢松阪商人です。
16世紀末に戦国武将蒲生氏郷により開かれた松阪城下は商都として栄え、江戸時代前期になると、伊勢松阪の商人達はいち早く江戸や京・大阪に進出しました。 小津清左衛門長弘は、江戸の紙商に奉公し、承応2年(1653年)に独立して、大伝馬町一丁目(現在の日本橋本町三丁目)に紙店「小津屋」を開業しました。 小津家はその後も事業を拡大し、宝暦5年(1755年)には三井、長谷川、長井等とともに紀州藩の御為替御用を命じられるなど、松阪において数多い江戸店持ちの豪商の中でも筆頭格に挙げられるようになりました。
松阪もめん手織りセンター、三井家
■松阪もめん手織りセンターは、三井家の跡地にあり、中では昔ながらの機織り機が軽やかな音色を響かせる。また予約をすれば機織り体験(有料)ができる。松阪もめんの洋服、着物、小物なども販売。
■三井家(みついけ)は、日本の氏族。江戸時代の豪商であり、三井財閥の当主の一族。織田信長の上洛によって主家六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国津付近の一色へ移り、その後、松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。 三井グループの家祖・三井高利は元和8年(1622)に伊勢・松阪(現三重県松阪市)で生まれた。その生家跡地は「三井家発祥地」として、現在に受け継がれている。
松阪もめん手織りセンター |
松阪もめん手織り販売 |
機織り機 |
旧三井家の門 |
三井家発祥由来 |
三越で有名なライオン |
三井家発祥地 / 来遠像の由来書き |
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■江戸時代屈指の豪商であった三井家は、松阪本町から、やがて「江戸店持京商人」となって天下に飛躍していったが、発祥地はその父祖の記念の地である。豪商三井家の創業の祖は3代高利(たかとし)(1622〜94)であるが、ここには白粉町来迎寺より移した初代高安と2代高俊の墓、高利の長兄らの供養碑などがある。また高利の産湯(うぶゆ)に使ったという伝承のある井戸があり、発祥の地の記念碑も建つ。
★来遠像の由来:江戸時代に越後屋の本店があった場所にポケットパークができ、三越のライオン像が置かれました。 日本橋三越では象徴的存在である2頭の「ライオン像」。この「ライオン像」の注文主は、三越百貨店の基礎を築いたとされる当時の支配人、日比翁助で、開設準備のため欧米を視察したときにイギリスで注文したもので、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので、完成までに3年の歳月を要したそうです。
松坂城跡 御城番屋敷
■松坂城は、日本の城。現在は松阪城とも表記される。所在地は三重県松阪市殿町。城跡は松坂城跡(まつさかじょうあと)として国の史跡に指定されている。 松坂城は、標高38mの独立した丘陵、四五百森(よいほのもり)に築かれた平山城です。
1584年、秀吉によって南伊勢約12万石を拝領し移封された蒲生氏郷が、夜を日に継いでわずか3年で完成させました。 城の縄張りは梯郭式平山城である。松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。 城内の建築物は1877年(明治10年)の失火と1881年(明治14年)までの破却によって失われ、現地には石垣のみが残っており、城址公園となっている。
■松坂城跡最大の見所は、全国でも屈指の壮大な石垣。 氏郷は、石垣工事に際して近江から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石垣専門の職人を呼び寄せたといわれています。松坂城築城当初の石垣は「野面積み」と呼ばれる工法で、江戸時代の石垣修復時に積み直された石垣は「打込みハギ」や「算木積み」と呼ばれる工法が使われています。
■梶井基次郎「城のある町にて」:今、空は悲しいまで晴れてゐた。そしてその下に町は甍を並べていた。白堊の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そして其処此処、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。
■御城番屋敷は、約1ヘクタールの屋敷地に主屋2棟と前庭、畑地、土蔵、南龍神社があり、主屋は東棟に10戸、西棟に9戸が残っています。 御城番屋敷土蔵は、御城番屋敷の一角にあり、明治初期に松坂城隠居丸の米蔵を移築したと伝え、江戸時代後期の建築と見られる。三重県有形文化財(建造物)。
松阪市立歴史民俗資料館 説明 |
松阪市立歴史民俗資料館外観 国の登録有形文化財 |
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■松阪市立歴史民俗資料館は、三重県松阪市殿町にある郷土史博物館。松阪市の歴史・民俗について広く展示し、とりわけ松阪商人、伊勢白粉(いせおしろい、射和軽粉〔いざわかるこ/いざわけいふん〕とも)、松阪木綿に関する資料群に特色がある。1912年(明治45年)に飯南郡図書館(いいなんぐんとしょかん)として建設された建物を利用しており、本館と倉庫が日本国の登録有形文化財に登録されている。
津松阪港(別名 大口港)
■津松阪港(別名 大口港)は、1588年(天正16年)、松ヶ島城から四五百森(よいほのもり)に城が移り松坂城下町が整備されると、城下の交通は阪内川(さかないがわ)、広域輸送は大口港が担うようになった。江戸時代には紀州藩松坂領内の米の集散地として機能。
古代には安濃郡の港として安濃津(あののつ、あのつ)、転訛して洞津(あなのつ、どうしん)と呼ばれた港で、平清盛がこの港から熊野三山への参拝のために出港したと『平家物語』に記述されるなど、平氏にとって重要な港であった。中国・明代の茅元儀が著した『武備志』の「日本考」にも筑前・博多津や薩摩・坊津と並ぶ日本三津として紹介された。
津松阪港(別名 大口港)の船舶 |
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津の港湾は、中国の歴史書には「日本三津」、日本の書物には「三津七湊」と記載された「安濃津」(あのつ、あののつ)を起源とし市名の由来ともなったが、往時に比べれば日本国内における重要性は低下している。一方松阪の港湾は、蒲生氏郷が松阪城の城下町を整備した頃から物資の積み出し港として町の発展を支えてきた。津松阪港(つまつさかこう)は、三重県中勢地区にある
重要港湾。
旧長谷川治郎兵衛家
■魚町一丁目の「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅。
長谷川家は、数多い江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめました。 長谷川家は、三井家・小津家・長井家などとともに松阪を代表する江戸時代から続く江戸店持ちの豪商のひとつです。 1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。 広重作の「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。
建物は、2016年に国の重要文化財に指定。
江戸時代には松阪出身の学者・本居宣長を支援するパトロンにもなり、11代目当主・長谷川定矩は俳人・長谷川可同としても作品を残し茶道を千宗室に学ぶなど文化を支えましたが、現代は徐々に衰退し2014年に後継の会社は廃業。 平成28年(2016年)7月25日付で国の重要文化財に指定。
■正面外観は建ちの低い、つし二階建てで、袖壁の上に立派な本うだつが上がっています。左手に表蔵を見ながら玄関をくぐると、奥に向かって通り土間が続き、奥に土蔵がさらに4棟、最も古い大蔵、左に米蔵、大蔵の右手に新蔵と西蔵が並んでいます。
長谷川家は、近代までこの松阪の地で商売を続け、邸宅を広げ続けました。
★庭園を含む敷地が平成27年に三重県史跡・名勝に、そして平成28年には建物群が国重要文化財に指定を受けています。
★本居宣長が生活していた頃の松阪は、「松坂は、ことによき里にて、里のひろき事は、山田につぎたれど、富る家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて、手代といふ物をおほくあらせて、あきなひせさせて、あるじは、国にのみ居てあそびをり、うはべはさしもあらで、うちうちはいたくゆたかにおごりてわたる。」(『玉勝間』)
大石不動院(石勝山金常寺不動院)
■大石不動院(石勝山金常寺不動院)は、嵯峨天皇の御代、弘法大師の開基にかかり、弘仁3年(812)に堂を建て石仏不動尊を祀りました。寛成年間(1789-1800)政音法師が中興の祖となって紀州候の厚い待遇を受けました。寺宝に巨勢(こぜ)金岡の不動明王の画軸、法華経八巻があります。「大石の不動さん、青石不動さん」等と呼んで親しまれています。 三重県松阪市大石町。
本尊は石造「不動明王」で弘法大師が当地を訪れたとき、当地の青石を刻んで安置したと伝えられています。薄暗い本堂に安置されています。
★現在の本堂は、今から400年以上前の慶長 7年(1602年)当時の住職・政音和尚(しょういんおしょう)の時、松阪城主古田重勝公が再建ました。
★和歌山街道は、松阪市飯高町船戸から松阪市小片野町まではほぼ櫛田川に沿った道筋が続き、その街道沿いには、暗闇を照らすことから、道中の安全を守る役割を持っていた常夜燈や道路を通行する人のために、方向・距離などを記した木・石などの道標、連子格子の家並みが残り、多くの旅人や参拝客で賑わった往時の様子を知ることができます。
大河内城跡
■大河内城(おかわちじょう)は、三重県松阪市大河内町城山にあった日本の城(山城)。 城は標高110m余りの丘陵の北端に築造されており、東に阪内川、北に矢津川、西側と南側には深い谷が入り自然の要害であった。
応永22年(1415年)、南朝の伊勢国司北畠満雅が両統迭立を履行しない幕府に対する挙兵の際に、備えとして築城。弟の北畠顕雅を入れた。 これにより顕雅は、北畠氏諸流・大河内氏の祖となった。 三重県指定史跡 松阪市大河内町
大河内城跡 説明および案内図 |
大河内城跡 |
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永禄年間、前伊勢国司であった北畠具教が、織田信長の伊勢侵攻に対し、嫡子・具房と共に多芸の霧山城(北畠神社)より大河内城に本拠地を移し、永禄12年(1569年)8月28日より籠城戦を行うも、信長の次男信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦し、10月3日、具教、具房親子は城を退去した(大河内城の戦い)。 天正3年(1575)には信長の次男北畠信雄により解体されている。 創建年代:室町時代
注)Wikipediaと観光地のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
三重写真集|松阪城跡、三井家発祥地、松阪商人の館 |