三重県写真集|伊賀市 歴史・文化 |
伊賀市
伊賀市は、三重県の北西部に位置する市。京都・奈良や伊勢を結ぶ奈良街道・伊賀街道・初瀬街道が通り、古来より都(飛鳥、奈良、京都など)に隣接する地域として、また、交通の要衝として、江戸時代には藤堂家の城下町や伊勢神宮への参宮者の宿場町として栄えてきた。
特に旧上野市の中心部は歴史資産を早くから観光資源化することに成功したため、伊賀流忍者の里、松尾芭蕉生誕の地として知られるようになり、昭和初期に再築された上野城や、忍者屋敷、芭蕉翁生家、鍵屋の辻などの観光名所を有し、特産品に伊賀組紐がある。また、市街地は戦災による破壊を免れ、小京都の1つに数えられ、町家と呼ばれる住居が多い。
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歴史 伊賀国分寺跡
■三重県伊賀市西明寺にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、伊賀国国分僧寺の寺院跡にあたる。 東方約200メートルには、国分尼寺跡とされる長楽山廃寺跡(国の史跡)が東西に並ぶ形で建立されている。
長楽山廃寺跡は奈良時代の寺院跡、土塁や金堂跡、講堂跡を残す。伊賀国分寺(僧寺)の東方およそ200mの地にあり、国分尼寺跡にあたる。ブッシュ度が激しく見る事が出来なかった。 名阪国道に接し存在する。
伊賀国国分僧寺の寺域は東西約220メートル・南北約240メートルで、土塁に囲まれている。中門・金堂・講堂を南北一直線に配し、中門左右から出た回廊が金堂左右に取り付く伽藍配置である。 礎石は上野城下の菅原神社造営のため運び出されたといわれ残存しないが、抜取跡が金堂・講堂の土壇に残ることから、いずれも桁行七間・梁行四間の構造と推測される。
奈良時代から鎌倉時代にかけての瓦のほか、土器・陶器が収拾されている。 瓦の一部は毛原廃寺跡(奈良県山辺郡山添村)と同笵(鋳造に同じ鋳型を用いていること)で、同地の岩屋瓦窯跡で製作のものとされる。
文献では、『貞信公記』天暦2年(948)2月16日条に「国分寺毘沙門金剛力士等振鳴」とあるほか、天喜4年(1056)2月23日付の「藤原実遠所領譲状」、保安3年(1122)の「名張郡収納所切符」などにそれぞれ記載が確認されている。
(逸話)この長者屋敷(伊賀国分寺跡)は、 日の丸長者が住んだ所だと伝えられてきた。 江戸時代の町人文学者・菊岡如幻の書いた 『茅栗(しばくり)草子』
にも、 広大な田地の田植に日の丸長者が夕日を招き返した伝説が書かれている。 長者はこの一件があってのち、 天罰を受けて没落しその屋敷跡だといわれたのだが、
実はその伝承地が国分寺跡であった訳である。 昭和十九年(1944)には、 海軍の飛行場建設によって、 一旦史跡指定を解除されたが、 終戦後の同二十三年(1948)に再指定された。
伊賀国分寺跡 離接の |
公園から左に進むと伊賀国分寺跡 |
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国の史跡 伊賀国分寺跡 |
伊賀国分寺跡 金堂跡 |
伊賀国分寺跡 中門跡 |
伊賀国分寺跡はよく見るとそこかしこに大きな穴が |
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伊賀国分寺跡 説明板 |
伊賀国分寺跡 本来の入口 |
伊賀市下水道マンホール |
※国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
※聖武天皇(しょうむてんのう、701年〈大宝元年〉 - 756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)は、日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉)。皇后:光明皇后(701年 - 760年) - 藤原不比等女(母は県犬養三千代)。
文化 くれは水辺公園
■くれは水辺公園 伊賀市平野町、服部町
延長約1kmの服部川の支流・矢谷川の両岸に作られた公園。園内には四季の広場や散策路、東屋、遊具のほか16基の芭蕉句碑が設置されている。ソメイヨシノや八重桜など、合わせて約300本の桜が植えられています。ベンチなども設けられている。1854年に伊賀地方を襲った「安政の大地震」の犠牲者を供養するために建てられた法華経塔があります。 句碑の書は寒玉書道会の葛輪啓子。
※参考、上野市・上野市教育委員会制作ガイドブック「芭蕉句碑散歩」より
※矢谷川は三重県上野市を流れる、服部川の支流。上野市東部の荒木地区の山麓に発し北西流。 上野市街地の北を流れ、上野市平野清水の服部川に架かる県道138号信楽上野線・新服部橋の東で服部川左岸に注ぐ。 全長5.9km。
文化 伊賀市内の芭蕉関連スポット
■松尾 芭蕉(寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文が『奥の細道』です。 元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。 そんな芭蕉を称え、市内各所に記念すべき建造物があります。
★参考にさせていただいたページ Wikipedia [伊賀市/デジタルミュージアム 秘蔵の国 伊賀] |
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