三重写真集|松阪市の東部・中央構造線 飯南町と飯高町 |
三重県 飯南町、飯高町
2005年(平成17年)1月1日 - 松阪市・一志郡嬉野町・三雲町・飯南郡飯高町と新設合併し、改めて松阪市が発足ました。
★飯南町(いいなんちょう)は、かつて三重県飯南郡にあった町。総人口 5,800人(国勢調査、2005年)。 飯南町の特産品:伊勢茶、松阪牛、深野和紙
★飯高町(いいたかちょう)は、三重県飯南郡にあった町。現在の松阪市飯高町にあたる。総人口 5,002人(国勢調査、2005年)。
2020年11月現在、今は新型コロナウイルス感染症( COVID-19(coronavirus disease 2019))が蔓延している状況で、最新の写真は2020年11月〜12月に撮影。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページ内の索引 [ 飯南・道の駅 茶倉駅|飯南・峠と神去村|飯高・月出の中央構造線線 ]
飯南・道の駅 茶倉駅
■松阪市内から国道166号線を下って飯南町粥見(かゆみ)に入ると、少し急な右カーブに差し掛かります。左手の丘にログハウス調の建物が道の駅です。見渡す限りの山とお茶畑、そして眼下に広がる清流櫛田川(くしだがわ)。丘の上の道の駅です。展望台や大きな赤い吊り橋(茶倉橋)は、景観見渡す限りの山とお茶畑、そして眼下に広がる清流櫛田川(くしだがわ)。丘の上の道の駅です。展望台や大きな赤い吊り橋(茶倉橋)は、すばらしい景観です。 吊り橋をわたれば宿泊施設のリバーサイド茶倉まですぐ。 特産の深蒸し煎茶を練り込んだ名物「お茶うどん」や地域の特産品(お茶、しいたけ等)を販売。
飯南・峠 神去村 国道386号
■国道368号は、三重県伊賀市から奈良県宇陀郡御杖村を経由して、三重県多気郡多気町に至る一般国道である。 国道と名前は立派でも、道の駅・美杉から飯南付近となると単なるでこぼこ道の続く山道です。 トラックなどが来ると、ほぼ一車線なので通行不可となります。
■けわしい山道が多いことでも有名な伊勢本街道。中でも櫃坂峠は、本居宣長の紀行『菅笠日記』に登場し、宣長が大和国の榛原(はいばら)で一行に本街道越えを指示したところ、一行はこの道を通るなど考えただけでも恐ろしいとふるえあがったと書かれています。
津市美杉町(旧:一志郡美杉村)多気と松阪市飯南町(旧:飯南郡飯南町)上仁柿の間には仁柿峠(櫃坂峠)という峠がある。
史跡・峠 「昭和50年廃村となった峠地区です。ここを通る道(国道368号線)は大和と伊勢を結ぶ大切な道で、峠の歴史はこの道によって綴られて来ました。特に伊勢神宮の神霊が初めて伊勢入りされた由緒(伊勢本街道)に始まり、中世には伊勢国司(北畠氏)道の一拠点となり、近世には西国から来る参宮道者の宿場として、茶屋や宿場が軒を並べ、今にその屋号を伝えて往時を語っています。 飯南町文化財調査委員会」 |
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★仁柿峠(にかきとうげ、櫃坂峠、標高は435m) 伊勢本街道の峠である。 古くは勢和村丹生(伊勢道の近く)の水銀を都に運ぶ道として利用された。 そして上仁柿から峠地区を結ぶ峠道(旧道)は櫃坂と呼ばれた。 古来貴重なものの運搬具である「櫃」に、水銀を入れて運んだことから、
この名称になったのだそうだ。狭い街道の路肩には簡単なガードレールがしつらえてあるだけで、その外側は深い谷になっています。運転していて、とても緊張します。
★丹生鉱山(にうこうざん)は、三重県多気郡多気町にあった水銀鉱山である。 丹生水銀鉱山、丹生丹坑、丹生水銀山ともいう。 中央構造線上に位置し、花崗岩質を母岩とする裂化充填鉱床である。主要鉱物は、辰砂、黒辰砂、自然水銀、鶏冠石、石黄、輝安鉱、白鉄鉱、方解石。水銀鉱床であるが、鶏冠石と石黄の産出が比較的多い。 縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。 名張にある縄文時代後期の下川原遺跡の土器に使われた朱は此処からのものだ。
「丹生」とは、丹土(朱砂…辰砂)が採取される土地の事を指すとする説が有力。
■三浦しをんによる日本の青春小説『神去なあなあ日常』の舞台・神去村(かむさりむら)は、三重県中西部、奈良県との県境近くにある村(旧・美杉村)。下地区、中地区、神去地区の3地区に分かれており、神去地区は村の最も奥まったところにある。 国道386号
★青春小説『神去なあなあ日常』横浜で生まれ育った主人公が高校卒業後、神去村に林業の研修生として入る物語。「なあなあ」が口癖のおっとりした村民たちに囲まれ、しだいに林業や村の魅力に引き込まれてゆく。
三浦しをんによる小説『神去なあなあ日常』 |
オフロードランド美杉 |
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オフロードランド美杉は三重県津市美杉町にあるモトクロス&オフロード専用コースです。
飯南・粥見井尻遺跡
■粥見井尻遺跡 (かゆみいじりいせき)(日本最古の土偶):平成8年9月、松阪市飯南町の粥見井尻遺跡で縄文時代草創期の土偶が、ほぼ完全な形で発見されました。今から時代をさかのぼること約1万2千年から9千年。 土器や弓矢が使われ始めた縄文時代草創期のもので日本最古のものとみられています。 女性の上半身を形どった、全長
6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cmの小さな土偶です。
粥見井尻遺跡は、竪穴住居を建て替えて住み続けた跡であり、大変貴重な遺跡です。
駐車場から茶畑の中を歩くこと100m、遺跡が見えてきます。
★縄文時代は、今から13000年くらい前から2300年くらい前まで、約1万年間続いた時代です。縄文時代の前には旧石器時代という時代があります。主に打製石器と骨角器を使用していましたが、土器はまだ発明していない時代です。旧石器時代と縄文時代の一番大きな違いは、この「土器」の存在です。土器の発明によってそれまで食べられなかったものが食べられるようになりました。この画期的な発明品の「土器」、その登場で縄文時代のはじまり、としています。それが今から13000年前ということです。
飯南・粥見のサザンカ
■茶畑にせり出すような粥見地区のサザンカは、樹齢150年以上、樹高約12メートル、幹まわり約1.5メートル、枝はり南北約15メートル・東西約11メートルの大木。氏神様のご神木となっている。
毎年、綺麗なピンクいろの花を咲かせ、後ろにある銀杏の黄色のコントラストが見もの。
平成10年に市指定天然記念物に指定された。 私有地のため、マナーを守って鑑賞を。
旧和歌山街道 |
粥見のサザンカ |
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★サザンカ(山茶花、茶梅、学名: Camellia sasanqua)は、ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹。童謡『たきび』の歌詞に登場することでもよく知られる。
神戸市の市の木にもなっている。
-椿(ツバキ)と山茶花(サザンカ)を見分ける方法-
@椿(ツバキ):花が散る時に、花首から落ちる 山茶花(サザンカ):花が散る時は、花びらが落ちる 花首から落ちるツバキの散り際から「首が落ちるので縁起が悪い」と武士には嫌われていたというエピソードが有名。
A椿(ツバキ)の開花時期:12月〜4月 山茶花(サザンカ)の開花時期:10月〜12月。
B椿(ツバキ):花がやや筒状で立体的で厚みがある 山茶花(サザンカ):花がツバキから比べて平面的で薄い。
飯南・来迎寺(らいこうじ)
■来迎寺(らいこうじ)は三重県松阪市飯南町深野にある浄土宗の仏教寺院。 本尊は阿弥陀如来。 松阪市街から国道166号線を山手へ登った山間にある浄土宗の寺院。 鎌倉時代名僧といわれた重源が、この寺を開いたと伝えられています。 所蔵されている銅鐘は室町・永禄11年(1568年)の作。昭和27年に県の有形文化財に指定されている。
また境内にある樹齢約300年のつばき(オランダ紅)は豊臣秀吉の文禄・慶長の役で朝鮮出兵のおりに、加藤清正が持ち帰った物と伝えられており、春に見頃を迎える。 しかし、残念ながら平成29年6月29日付でツバキの枯死のため市の天然記念物指定を解除。
来迎寺 本堂 |
観音堂 |
現在の観音堂の鬼瓦 |
本堂の鬼瓦(文化十三年) |
観音堂の鬼瓦 |
三重県指定有形文化財 |
見晴台 |
深野の集落 |
季節外れの桜が咲く |
★三重県指定有形文化財 銅鐘(指定 昭和27年7月9日)
室町時代に造られた梵鐘。銘文によると、永禄11年(1568年)に越前国山王大権現社の鐘として藤原朝臣三郎兵衛尉により作られ、天正12年(1584年)に三河国足助八幡宮へ移り、1879年(明治12年)に当寺の所蔵となったことが記されている。来迎寺は廃仏毀釈の時売却されていたこの鐘を桑名の鋳物師から購入したという。また、江戸時代の名所旧跡を紹介する「三河名所図絵」にも足助八幡宮の鐘として紹介されていた。
★松阪市飯南町深野は三重県中部、櫛田川中流域に位置する山間部の集落。
和歌山と松阪を結ぶ和歌山街道が通る。和歌山街道は紀州藩和歌山城下と紀州藩松阪城下を結ぶ重要な街道で、寛永2年(1625)から享保20年(1735)まで参勤交代路として利用されたほか、大坂・大和方面からの参宮者、大峰山登拝者が盛んに往来した巡礼路でもあった。 今、国道166号線として、殆ど旧街道をなぞっている。
江戸時代のはじめは松阪藩領、元和5年(1619)から紀州藩松阪領となり明治を向かえる。 慶長年間頃、庄屋野呂俊光が美濃より和紙製造法を移入したと伝えられ、「深野紙」の産地として有名であった。 紙漉業は和歌山藩の松阪銀札発行のために行われた。
飯南・深野のだんだん田
■松阪市飯南町にある深野棚田(深野のだんだん田)は石の芸術で圧巻の景観。駐車場も完備。
三重県で棚田と言えば、熊野市の丸山千枚田が有名なんですが、実は松阪市にも日本棚田百選に選ばれている松阪市飯南町深野地区の深野棚田(深野のだんだん田)があるんです。 櫛田川と反対の山側にのぼっていくと、特有の石堤の風景が広がっています。 もともと深野地区は耕地に恵まれず、古くから木地・蚕・和紙等で生計を立てていたことから、この棚田は特に貴重でした。 「深野のだんだん田」は、標高820mの白猪山南麗に位置し、室町時代に北畠氏の重要な拠点であったこの地域は、白猪山の西に「のろし場」があり、見張りに詰めている侍たちの食糧確保のため棚田が開墾されたと伝えられています。
日本棚田百選に認定 |
深野棚田(深野のだんだん田)は石の芸術で圧巻の景観 |
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深野棚田 |
深野棚田 |
深野棚田 |
★傾斜地を有効に利用するため、自然石を丁寧かつ頑丈に積み上げた棚田の造形は、石の芸術と呼ばれていいます。 深野地区の棚田は深野だんだん田として1999年(平成11年)7月に農林水産省の日本棚田百選に認定されました。
飯高・月出の中央構造線線
■月出の中央構造線(つきでのちゅうおうこうぞうせん)は、三重県松阪市飯高町月出にある、大規模な中央構造線の露頭。月出露頭(つきでろとう)とも言う。
2002年(平成14年)12月19日に日本国の天然記念物に指定された。 領家帯と三波川帯の境界を成し、中央構造線の学術的な研究において価値の高い断層。
月出の中央構造線は紀伊半島の中央部、高見山から東へ約9kmの地点にある「ワサビ谷」に位置。高さ80m×幅50mの露頭であり、日本国内では最大級の規模を有する。 露頭の北側(正面から見て左側)は赤土であり領家帯に属し、南側(正面から見て右側)は黒土であり三波川帯に属している。 土の色の差異は明瞭に視認でき、北側の土の色は花崗岩類のマイロナイト、南側は黒色片岩に由来する。 2つの層の接する角度はおよそ60度である。 伊勢湾台風で露出したと聞きました。
★関連記事 中央構造線、新たな露頭発見 三重・松阪、幅80m (朝日デジタル 2012年9月8日)
関東から九州まで列島を約1千キロにわたり続く国内最大の断層「中央構造線」の露頭(地表に出た部分)が、新たに松阪市飯高町で見つかった。露頭は東西方向の断面で幅80メートル、高さ20メートルと大規模。市文化財保護審議会委員も務める県立博物館の津村善博さん(64)は「東西方向の大規模な断面は学術的に貴重だ」と今後の調査に期待する。 発見したのは元校長で地元区長の小林平八郎さん(68)。市教育委員会とともに7日、発表した。
月出の中央構造線から東へ約5kmの地点にある飯高町粟野および飯高町田引。
飯高・珍布(めずらし)峠
■旧和歌山街道、天照大神にまつわる伝説の峠を珍布峠という。 ”昼なお暗いよ「めずらし峠」”
天照大神と天児屋根命がバッタリ会われ「おお、めずらしや」と言われたことから「めずらし峠」と呼ばれるようになったといわれています。
天照大神が川に投げ入れて国境を決めた「国分け伝説」の【「礫石(つぶていし)」】がよく見える場所でもあります。 江戸時代には、伊勢神宮への参詣道としても使われた道。
★和歌山街道(古道・紀州街道)は、紀伊半島をほぼ東西に横断し、伊勢・大和・紀伊の三国を経て松阪と和歌山を結ぶ街道です。この街道は、江戸時代に紀州藩の本城と東の領地松阪城を結ぶ街道として、伊勢参宮や熊野詣、吉野詣の巡礼道として、または南紀や伊勢志摩の海産物などを大和地方に運ぶ交易路として栄えた街道でした。
厳密には和歌山街道とは、高見峠までの三重県側の部分を指し、紀州藩では伊勢街道といわれていました。紀州藩の藩道でもあったことから紀州街道、庶民の生活道として大和地方との関わりが深くなると大和街道とも呼ばれるようになり、また、松阪市飯南町横野から松阪市六呂木町までの道すじは、伊勢本街道と重複するルートを辿っていました。
★道の駅に戻って、ひと息ついて、飯高名物の「でんがら」というお菓子を頂いた。もっちりとした皮に、やさしい甘さのあんこが入っている。
注)Wikipediaと道の駅 飯高駅、観光地のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
三重写真集|松阪市の東部・中央構造線 飯南町と飯高町 |