名張市|名張地区 新町 鍛冶町 豊後町 朝日町 南町 元町 |
はじめに 名張地区
三重県西部に位置する名張は陣屋町であったが、初瀬街道(伊勢表街道)が通る宿場町でもあった。
天正9年(1581)の伊賀の乱後、筒井定次が伊賀に入り、上野を本拠とすると、名張には松倉豊後守重政が任ぜられ、簗瀬村の現丸の内に城(陣屋)を構えた。これ以降簗瀬村は城下町として発展する。 初瀬街道が西国からの伊勢参宮の主街道であったため、江戸中期以降は宿場町として賑わい「簗瀬宿」には多くの旅籠屋・茶店のほか本陣(鍛治町の辻家)・脇本陣(松崎町の小竹屋)もあった。(名張は行政区画としては簗瀬村であった) 寛延(1748~51)頃の家数540・人数2,141であった(宗国史)。古い町並は旧初瀬街道沿いに屈曲しながら続いている。東から上八町・松崎町・榊町・中町・本町・新町と続く。 造り酒屋が二軒も伝統的な様式の建物で営業をされている。
▽松倉豊後守勝重は、天正の乱のあと伊賀へ入国、上野城を築いた筒井定次の重臣。 日野江に入封後は苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。
※鍛冶町 江戸時代ここに鍛冶屋(鉄砲鍛冶、刀鍛冶、野鍛冶)が密集していたところからこの名がついた。名張町における唯一の職人町。蛭子神社、栄林寺で知られる。
※柳原町 江戸時代には町家がなく、名張藤堂家の家臣団の屋敷が並んでいた。伝承では往古いまの柳原町と鍛冶町の辺りを総称して簗原(やなはら)と呼んでいたそうだ、いずれも名張川に面している。
※新町 寛永年間、藤堂高吉が来往した当時、本町の大為陶器店と南町の西方寺を結ぶ線上に松並木(旧字名並松の名の起こり)があり、これが往時の名張川の堤防であったという。高吉は川替え工事を行い、河流を現在の位置に定着させ、新町の地を造成した。愛宕神社がある。
※豊後町 元町角(中井医院)から西方寺へかけてのとおりは、頓子山を越えて短野に通じる道筋で、頓子山上に松倉豊後守が築いた城跡があることから「豊後の城へ行く道」と里人が呼んでいた。それにちなんでの町名である。
※朝日町 旧北出村。古代の名張川・宇陀川は西名張の現都市計画道路沿いの位置を大屋戸に向かって流れていた、12世紀ごろその河流が西移して山裾をえぐるようになった。その結果、旧河流と新河流との間に川成地が生まれ、ここが耕地となり集落が形成された。 北方を北出村、南方を南出村と称した。 頓子山子安地蔵堂(松倉豊後守が子宝を授かった。朝日町の潜水橋を渡り、名張川左岸に出て、川沿いの道路を右折、100mほど下ると、子安地蔵がある。 地名は大谷(黒田の悪党らの住居があった))
※南町 旧南出村。村氏神は稲荷社、西方寺、安住寺、地蔵院があった。
※元町 旧称瀬古手町、世古手とも書いた。セコは川の意。 対岸に瀬古口がある。 この町から本町に出る横町には沢山のお寺さんがあった。 明治初年まで庚申堂(谷口石材店の地)・薬師堂(中井医院の地)があって、この通りを別に寺町とも呼んだ。
2021年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2021年以前のものです。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページ内の索引 [ 蛭子神社|旧本陣|旧喜多藤|やなせ宿|観音寺|栄林寺|西方寺|梁瀬の里 石碑 ]
鍛冶町 蛭子神社(エビスジンジャ)
■蛭子神社の祭神は火之迦具士命、伊弉諾命、天照皇大神など。主要な建物は、社殿・神樂殿・参籠舎・社務所等。 三重県名張市鍛冶町にある蛭子神社(えびすじんじゃ)の祭のことを土地の人は親しみを込めて「えべっさん」と呼んでいます。 旧暦1月8日を新暦に直して、今は2月8日に行われているのが、冬の田舎町が5万人の人出で賑わう「八日戎(ようかえびす)」(旧市街地にあります)です。 倭姫命(やまとひめのみこと)が訪れた市守宮の比定地 蛭子神社 垂仁天皇64年に倭姫命が訪れ、2年間天照大神を祀った伊賀国の市守宮(いちもりのみや)であるといわれている。
♪ 春の八日市 えびすの宵に 名張おとめと袖すりおうて 吉兆 はまぐり 福当たり |
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名張小唄と八日えびす |
八日えびす 吉兆 |
八日えびす 福娘 |
平成19年の福娘 |
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神職の祈り |
七福神 舞の奉納 |
七福神が勢ぞろい |
蛭子神社の鳥居 |
ハマグリと大根の味噌汁(ふるまい) |
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七福神 |
境内で七福神の舞 |
境内で七福神の舞 |
★「名張おとめ」:文人・田山花袋は、大の旅行好きで作家活動の傍ら日本中をくまなく旅しています。名張はことのほか好いていたようで、彼が「名張」に抱いた浅からぬ
愛情を小説「名張少女(なばりおとめ)」を通して象徴しています。 名前は「お園」19歳。 島ヶ原の料亭で仲居をつとめるうら若く、純情で優しい少女。 「名張おとめ」はこの女性に由来しています。 家にも4人の女性がいます。 一人でもと思っています。
鍛冶町 旧本陣跡
■鍛冶町にある岡崎醸造所の隣にあった。 高札場もあったそうだ。 今は見る影もない。
町人町・宿場町として初瀬街道沿いに「名張八ヶ町」が整備され、多くの茶店や旅籠の他、鍛冶町の本陣(辻家)、松崎町の脇本陣(小竹屋)などがありました。
鍛冶町 旧本陣跡 本陣(辻家) |
※明治6年6月15日:梁頼小学校開校。 鍛冶町 辻吉次郎氏宅(旧本陣)を借用し校舎に充てる。 |
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※本陣(ほんじん)は、 江戸時代以降の宿場で、身分が高い者が泊まった建物。大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡らが利用した。「大旅籠屋」(おおはたごや)とも。 原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。 宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣があった。
本町 旧喜多藤 登録有形文化財
■国の文化審議会は2020年11月20日、名張市本町の「旧喜多藤(キタト)」など7件を含む全国104件を新たな登録有形文化財(建造物)にするように文部科学大臣に答申した。
今回、対象になったのは旧喜多藤(キタト)の別館、大広間棟、翠明荘、皐月寮、艶秀亭、便所棟(別館の入口右にある)、表門の計7件。
初瀬街道に面した本町通りに位置する喜多藤は、屋号「北出屋」として明治時代以前から旅館を経営していた。後に「喜多藤」と改名し、1981年に廃業するまでは、名張川沿いに建つ料亭旅館として隆盛を誇ったという。 「旧喜多藤(きたと)」は、老舗の風格が漂う名張川沿いの料亭旅館だった。初代名張市長北田藤太郎さん(1906-85年)の一族が経営し、大正−昭和初期に建てられた七件は、廃業から四十年近くたった今も、長女の松田和代さん(72)と夫の博治さん(78)が保存に努めている。
たまたま、お二人からお話を聞くこと、内部を見させて頂き、写真もokして頂く事が出来た。
旧喜多藤 瓦屋根の表門 |
旧喜多藤 別館棟 |
旧喜多藤大広間棟 |
旧喜多藤の表門を入ると池や屋根瓦等が散乱 |
本館は栄林寺の前にあった |
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防火用水の名残? |
昔、屋形船を名張川に浮かべていた時の錨 |
別館から瓦屋根の表門 |
※旧喜多藤表門は、初瀬街道に面して建つ薬医門。間口二・六メートルで左右に袖塀が付属する。本柱、控柱とも節を出した丸太材を用いて腕木を受け軒桁を渡す。屋根は入母屋造桟瓦葺一部銅板葺。軒天井は小丸太を敷並べた瀟洒な意匠。街道沿いにもと料亭旅館の表構えをつくる。 大正/1923 木造、瓦葺一部銅板葺、間口2.6m、左右袖塀付
※旧喜多藤便所棟は、表門から入って正面に建つ別館の手前右に位置する。 平屋建入母屋造桟瓦葺で、別館と大広間棟からそれぞれ渡り廊下で接続する。 便所と脱衣場・浴室からなり、廊下は柱を立てず、細丸太の垂木を並べて化粧屋根とし、人造石の手洗いを設ける。敷地の一点景を為す。 大正/1923 木造平屋建、瓦葺、建築面積39㎡
■便所棟(別館の入口右にある)を左に見ながら 大広間棟の西には元居宅である翠明荘へ向かう
※旧喜多藤皐月寮は、翠明荘から接続する茶室。平屋建切妻造桟瓦葺で東面に待合付設。 茶室は四畳大で炉を切らず、西面一間半を床構えとし、皮付の曲材を用いた床柱や角竹、斜めの地袋で変化を付ける。南脇は半畳の点前座とし、天井は点前座と主室で網代と竹の棹縁に張り分ける。
■別館を出て、左の門を通過して艶秀亭に向かう。 昔、ご夫婦が生活をしていたとの事。
丸い窓が印象的。 艶秀亭は、敷地の東に建つ。入口を表門とは別にする独立した客室。 平屋建切妻造桟瓦葺。 外壁は腰を割竹張、上部を色土で仕上げ、内部は和室四室に洋室を配す。 各室毎に独立した玄関を設けて個別に出入りでき、意匠を違えた窓をつくる等趣向を凝らす。
艶秀亭 入口 |
外壁上部は色土仕上げ |
艶秀亭 |
瀟洒な丸い窓 |
艶秀亭 庭 |
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艶秀亭 |
■いよいよ別館に向かいます。
※旧喜多藤別館は名張川沿いのもと料亭旅館。北面して建ち、二階建切妻造桟瓦葺。一階は北をホールと調理場、南を客室とし、二階はホールの周囲に座敷を配する。二階は川沿いの間口いっぱいを掃出のガラス窓開口として眺望を誇る。料亭旅館の中心建物で川沿いの景観をつくる。 大正/1923 木造2階建、瓦葺、建築面積209㎡
旧喜多藤別館 玄関 |
入って驚くのは調度品の多さ |
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旧喜多藤別館の入口にはあまたの調度品が 他にも沢山あるようだ |
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別館の古時計 |
古い時代の写真 旧喜多藤は近くの蛭子神社で結婚式を挙げ披露宴をここでやる人が多かった。 川は名張川 |
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旧喜多藤 看板 |
近鉄名張駅西口 |
古い別館風景 |
大伯皇女の歌 |
調度品 掛け軸 |
家の中に家が |
夏見廃寺 |
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大きな金庫 |
客間 梅の間 |
モダンなガラス窓 |
■幅広い大きな階段を上ると、右手には旧喜多藤大広間がある。 現在は一切合切の調度品やら着物、多数のおひな様が持ち込まれていた。
※旧喜多藤大広間棟は、別館の西に建つ。北面して建ち、二階建入母屋造桟瓦葺。一階は座敷とダンスホールとし、ホールは洋風に中国風意匠を取入れた趣味性の高いつくり。 二階は四四畳大広間で折上格天井に色漆喰壁を用いた豪奢な意匠。別館同様川沿いを掃出の開口として眺望を誇る。 昭和前/1936 木造2階建、瓦葺、建築面積164㎡
飾られていたお雛様の数は10以上あったと思います。
また、別館から大広間へ登る階段の踊り場にも多数の調度品がありました。 古い写真で見ると2階の廊下は意外と小さめでした。 手摺も相当低い。
そして、手入れ管理するご夫妻に感心した。 感謝しております。
※旧喜多藤の説明作成にあたっては、YOUのHPと文化遺産オンラインを参考にしています。
新町 やなせ宿
■旧細川邸は、江戸時代から明治初年に、薬商細川家(奈良県宇陀市大宇陀区)の支店として建てられました(大宇陀の細川家は、現在、歴史文化館「薬の宿」(宇陀市指定文化財)として公開されています。)。 細川家は、「藤沢樟脳(しょうのう)」の製造販売を始めた「藤沢商店」(のちの藤沢薬品・2005年に山之内製薬と合併してアステラス製薬)の創始者・藤沢友吉の母方の実家です。 大宇陀の細川家二代目・治助は、この名張の細川家を別邸として使用し、治助の次女の満津(まつ)は、本町萬屋(よろずや)福守佐兵衛に嫁入りしました。その長男が友吉です。 友吉は、大阪で丁稚奉公するまでの九年間を名張で過ごし、祖父の細川家にもたびたび訪れていたようです。
※旧細川邸は、虫籠窓(むしこまど)や袖卯達(そでうだつ)、つし二階を備える典型的な町屋であり、大和長谷寺と伊勢神宮を結ぶ初瀬街道沿いに今も風情を残しております。
※名張の最重要道路である初瀬街道の新町橋と黒田橋は明治初年でも幅1.2mの板橋であった。 流失も多く現愛宕神社付近に二艘の渡船を用意していた。 昭和になりコンクリートとなった。
朝日町 観音寺
■真言宗室生寺派 日照山 観音寺 名張市朝日町1272
本尊 十一面観世音菩薩
江戸時代中期の貞享四年(1687)菊田如幼が書いた伊賀の国の地誌「伊水温故」には、恵日山観音寺、本尊は千手観音、千手院と号す。と記されている。当時は恵日山(えにちざん)と呼ばれていたらしい。現在の山号「日照山」に改めた理由や、年時はわかっていない。 天正伊賀の乱で寺々は焼失、再建されてきたが、当山は江戸末期の文久二年(1862)の大火にあい、本尊はじめ古文書類もすべて焼失し縁起の詳細は詳らかでない。
総本山長谷寺の本尊、十一面観世音菩薩の何体かの分身の一つを受けて本尊としている。大きさは違うものの、総本山「初瀬(はつせ)の観音さま」と全く同じで大慈大悲の身心(みこころ)が伝わってくる。人々から、「おこのみ観音」…(御心身観音)『こころみ観音』…(心身観音)と呼ばれ親しまれている。
日照山 観音寺 |
日照山 観音寺 山門 |
観音寺 六地蔵 |
観音寺 宝篋印塔 |
日照山 観音寺 本堂 |
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本町 栄林寺
■名張旧町の中心である本町の初瀬街道に面して、榮林寺の山門が建つ。 寺院が集められた通称「寺町」にほど近いが、表通りに位置するのは、榮林寺だけである。
天正9年(1581)の天正伊賀の乱の際に、伊賀国の郷土・森田浄雲と戦って討ち死にした筒井順慶の家臣・菅田左衛門佐の弟が中興開山となった由緒のある寺院である。 もと奈良県の上笠間へと越える峠にあったといわれるが、名張の鍛冶町へと移転。 さらに江戸初・中期に本町へと移った。 江戸時代中期には念仏堂の通称で呼ばれた。
境内には、正面に300年近い歴史のある本堂を中心として、右手に庚申堂と芭蕉句碑、左手に観音堂・薬師堂と道標などが建っており、これらは名張の歴史を集約したものといえる。
名張市黒田の通称・愛宕山の麓に、法然寺跡がある。 かつて伊賀国の浄土宗布教の拠点であったと考えられるこの寺院は、江戸時代には規模を縮小し、榮林寺の末寺となった。
「なばりの昔話」から 「宝永の大火」
鍛冶町から南町の西方寺にかけて、一直線にずらりと松並木があったそうですわ。 昔には、その並木の松を利用して庭園にしている家が並んでおったらしいが、鍛冶町にあった栄林寺から火が出ましてな、名張が大火災になったことがありました。 「宝永の大火」といわれる火事で宝永7年(一七一〇年)、もう二百七十年も前です。この時に、並木の松も焼けてなくなってしまいました。 かろうじて残ったのは、宗泰寺(元町)、西方寺(南町)、観音寺(朝日町)の老松と角喜の土蔵ぐらいだったそうですわ。数は少なくなりましたが松は、今でも「並松」と呼ばれています。
この「宝永の大火」(栄林寺の下男部屋から出火)は永保記事略(藤堂藩城代家老日誌)にも載っており名張城も焼け落ちた。
初瀬街道に沿う、新町・本町・横町・榊町の表通りを全焼し、藤堂邸周辺・柳原の武家屋敷をひとなめにし、平尾まで延焼している。平尾の焼失家屋45といえば殆ど全戸であった。
※永保記事略 : 藤堂藩城代家老日誌 藤堂藩は、伊勢国の津城に本拠を置き、伊賀国は上野城に城代家老(藤堂采女(うねめ)家)を置き、名張には特別に藤堂宮内(くない)家を配した。 「寛永」期の「永」と終わる「寛保」期の「保」をとって名付けたという。
薬師堂は本尊薬師如来(伝、春日仏師作)で、元町の中井医院の地にあった薬師寺(林昌寺)の本堂と本尊まるごと買い受けて境内に安置。
金剛堂は本尊青面金剛像、ほかに二童子など4体を安置。 元町にあった庚申堂を買い受けた。
青面金剛は大阪四天王寺に安置してあった三体(青面・白面・赤面)の内一体を勧請したものと伝わる。
南町 西方寺
■浄土宗 心光山 松寿院 西方寺 名張市南町476
由緒:寛正3年(1462年)に心蓮社光誉上人の開基と伝わり、当初は西方庵という念仏道場で、現在地より西方約500メートル位奥の方にあったという。 寛永3年(1626年)頃、藤堂高吉公が伊予の今治より名張に移封の際に、その妻 慶法院殿、重臣 小澤家を始め30余家が菩提寺と定めて堂宇を現在地に移転した。 中興開山還誉上人代(2世)である。 7世園誉上人の時、12世説誉上人の時に堂宇が再建され現在に至る。 名張市指定文化財として「キリシタン文書」がある。
丈六の無住の阿弥陀寺(法然上人伊賀新第21番)の管理もしているようだ。
西方寺 入口 石碑 |
西方寺 全景 |
西方寺 スイレンの池 |
西方寺 観音像 |
西方寺 二月堂観世音 |
西方寺 山門 |
西方寺 石仏 |
西方寺 南無阿弥陀仏 |
西方寺 本堂 |
西方寺 十三重石塔 |
西方寺 宝篋印塔 |
西方寺 薬師堂 |
※文化財 生人形は、まるで生きているかのように作られた木組みの人形。ともに熊本出身の人形師、安本亀八や松本喜三郎(1825~91)らが幕末に登場し、奇怪な姿の武士や異国人などの像を使った見せ物興行が人気を集めた。 亀八は1860年から5年ほど名張に滞在し、地元の有力者などの注文を受け、彼らをモデルにした木彫人形を作ったとされる。 現在残るのは、名張の旧町地区の医師だった「横山文圭像」、荒物商の「岡村甚六像」、酒造業の「角田半兵衛・みか夫婦像」など。 ほかに市内の西方寺と極楽寺にも人形がある。 いずれも高さ30センチ前後の木彫に彩色がほどこされている。
南町 梁瀬の里 石碑
■南町の名張川にかかる初瀬街道にある名張大橋のたもとに、大きな「梁瀬(やなせ)の里」という石碑がある。
※倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。
※梁簗の漁法:川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作った梁(やな)という構造物を設置し、上流から泳いできた魚がかかるのを待つ漁法。
※元伊勢「隠市守宮」の伝承地・候補地は、①宇流冨志禰神社、②三輪神社(瀬古口稲荷神社に合祀)、③蛭子神社、④田村大明神(美波多神社に合祀)、⑤名居神社 です。
※大阪・奈良方面と伊勢を結ぶ初瀬街道。 現在の松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て初瀬(奈良県桜井市)へいたります。現在の国道165号、あるいは近鉄大阪線に近いルートを通るこの道は、壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(おおあまのおうじ)が名張にいたった道であり、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみのかみ)に仕えた斎王が伊勢へと赴いた道です。 また、江戸時代中期以降は、伊勢参りの善男善女が旅枕を重ねた道です。
古代より開けたこの街道は、別名「斎王上路」とも呼ばれ、歴代の斎王が往来しました。
注)Wikipediaと栄林寺のHP、名張市史、「なばりの昔話」、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
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