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日本の紙幣(貨幣) 徳川吉宗統治時代の元祐通寶篆書をはじめ、日本軍占領時代のフィリピン等
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世界の通貨の索引 [ コイン(coin):[世界、日本]|紙幣:[世界、日本] ] 世界の切手:コインと紙幣 |
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紙幣 |
日本の紙幣をご紹介します。 |
日本:
長澤用所(引替所)
銀一匁
徳川吉宗統治時代
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「享保15年(1730年)長澤用所 銀一匁 引替所・産物会所」 と記載されています。 裏表の写真
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日本:日本銀行券
C号券
旧1万円札(聖徳太子)
表と裏(鳳凰)
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初の一万円券として発行され、高度経済成長の一端を担うこととなった。紙幣の透かしの多くは肖像と同じものが使用されているが、この紙幣は肖像が聖徳太子なのに対して透かしが法隆寺の夢殿であることが特徴である。発行開始日 1958年(昭和33年)12月1日、支払停止日 1986年(昭和61年)1月4日。
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■聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化、制度をとりいれて天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
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日本:日本銀行券
C号券
旧五千円札(聖徳太子)
表と裏(日本銀行)
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C一万円券と同じく肖像は聖徳太子であるが、C一万円券よりもこちらの方が先に発行されている。発行開始日 1957年(昭和32年)10月1日 支払停止日、1986年(昭和61年)1月4日。
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日本:日本銀行券
D号券
新1万円札と千円札
*見る角度によって模様が変わる「ホログラム」など、一般に公表した偽造防止技術のほかに、実は偽札を見抜くための極秘の「特徴」も仕込まれている。
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福沢諭吉 野口英世 |
本栖湖(もとすこ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町(旧西八代郡上九一色村)及び南巨摩郡身延町(旧西八代郡下部町)に跨いで存在する湖。富士五湖の一つ。
千円紙幣E号券、五千円紙幣D号券の裏面に描かれる逆さ富士のモデルとして有名。
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日本:日本銀行券
2千円札
人気の無いお札です。
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日本銀行券D号2,000円
守礼門(沖縄県)と源氏物語絵巻、紫式部日記絵巻 平成12年
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二十ドル紙幣など「2」のつく単位の通貨が一般的なアメリカ合衆国やヨーロッパ等とは異なり、現代の日本では通貨は「1」と「5」のつく単位であるという認識が一般消費者に浸透しきっており、二千円券を受け入れる土壌は薄かった。なお、外国人旅行者、とくにオーストラリアやアメリカ合衆国などおよびその国の出身者には好まれる傾向があるらしい(20ドル紙幣などと感覚が近いから)。
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500円と100円
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日本銀行券C号500円
岩倉具視と富士山 昭和44年
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日本銀行券B号100円
板垣退助と国会議事堂 昭和28年
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五百円紙幣の裏面の富士山の絵の原画は山梨県大月市の雁ヶ腹摺山山頂から撮影したそうです。精進湖からの富士と似ています。
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5円 |
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彩紋 昭和21年 |
1円 |
武内宿禰(たけうちのすくね)は、『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。
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大正兌換銀行券1円(アラビア数字)
武内宿禰 大正5年
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不換紙幣1円(中央竹内1円)
武内宿禰 昭和18年
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10円 |
日本銀行券A号10円(議事堂10円)
国会議事堂に鳳凰 昭和21年
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50銭 |
政府紙幣50銭(靖国50銭)
靖国神社 昭和17年
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政府紙幣B号50銭(板垣50銭)
板垣退助 昭和23年
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10銭 |
日本銀行券A号10銭(ハト10銭)
鳩 昭和22年
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日本銀行券10銭
八紘一宇塔 昭和19年
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5銭 |
日本銀行券5銭(楠公5銭)
楠正成像 昭和19年
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日本銀行券A号5銭(梅5銭)
梅花 昭和23年
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フィリピン:
日本統治下時代の
10ペソ
フィリピン全土制圧時に発行
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大東亜戦争軍票 改造ほ号10ペソ 昭和17年(1942年)
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フィリピンと日本
国時代から安土・桃山時代、江戸時代に鎖国によって国を閉じるまで日本は、スペインが作り上げた、フィリピンを世界交易路の要としたルートの一端に加わってフィリピンとの関係を持った。明治維新による開国とともに多くの日本人が世界各地へ生活の糧を求めて移民として移住していった。日本からフィリピンへの移民は1903年ルソン島での道路建設のために1000人の若者が移住したことに始まり、その後マニラ麻の栽培を目的にミンダナオ島への移民がすすめられ、太平洋戦争直前にはダバオで2万人以上のアジア最大の日本人町が作られた。 そして日本は、フィリピンを太平洋戦争に巻き込んでいく。日本軍は1941年12月開戦とともにダバオに上陸し、翌1942年にマニラに侵攻、フィリピン全土を制圧する。フィリピンは日本による戦禍の最大被害国の一つである。
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