Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
暮らし・生活・風習・世相の切手|世界の人々の生活様式や庶民の暮らしの変遷など 挨拶、七夕、ひな祭、七五三・・・

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暮らし・生活・風習・世相に関する切手

 暮らし(life)・生活(live)・風物詩(scenery)・風習(manners and customs)・世相(social conditions、生活文化(a phase of life))や女性の地位向上、母の日などに関する切手(stamp)です。日本切手は新世紀での回顧録の切手を使用。 改めて文明開化の時代から大正デモクラシーを経て、昭和時代の太平洋戦争、平成への流れが、切手のハイカラ、米騒動、モダンガール(モガ)やモボ、戦時中の千人針やもんぺ姿などから、激動の日本の100年の歴史が彷彿とします。 アジア(の切手では、香港や澳門(マカオ)の切手では昔日の日本の原風景の様な生活風景も、非常に懐かしいものがあります。 アメリカ合衆国も1900年代の回顧録を発行しており、別ページで紹介。 別ページで花嫁や王室の結婚式(Royal wedding)、LOVE切手とバレンタインデーの切手を掲載中。絵葉書も追加しました。

 

 暮らし・生活・風習・世相に関する切手

■索引 [ 生活・風習・世相女性、母の日こどもの日結婚式・花嫁・LOVE・バレンタインデーキャンドル(蝋燭)とローソク・街灯|音楽・演劇関係(音楽関係全般)| スポーツ切手|医療・福祉(医療全般家族計画・世界家族年)|時計や時刻コイン・紙幣・メダル人権教育・学校議会・議事堂・制度郵便・通信100年記念エコ・節約コミュニケーション ]

 日本の風習・世相・生活風習

ハイカラ流行(1900年台)

宝塚唱歌隊(1913年初)
宝塚音楽学校の前身

洋髪流行(1910年代後半)

簡易保険創業(1916年)

ハイカラ流行(1900年台) 日本 切手 宝塚唱歌隊(1913年初) 洋髪流行(1910年代後半) 簡易保険創業(1916年)

■明治維新後、文明開化とともに外国から様々な文化がもたらされ、当時のファッションもその影響をうけた。ハイカラとは、当時大いに流行ったシャツの立て衿(ハイカラー)から来ており、新しく小綺麗でしゃれた物事をハイカラと呼び、また、そのような人をハイカラさんと呼びました。 モダンガールは「自立した聡明な女性」の意味が本来だが、銀座周辺を闊歩する断髪洋装の女性への軽蔑のニュアンスを込め「モガ」と略されるようになった。モダンボーイ(「モボ」)はそれに呼応する言葉。

米騒動(1918年)

モダンガール(1925年前後)

カフェの全盛(1930年前後)

ハンドバックと開襟シャツ
(1930年代)

米騒動(1918年) モダンガール(1925年前後) 日本 切手 モガ モボ カフェの全盛(1930年前後) ハンドバックと開襟シャツ(1930年代)

千人針・国民服とモンペ
(1940年)

日本国憲法施行(1947年)

NHK紅白歌合戦開始(1951年)

甲子園球場開場(1924年)

国民服とモンペ(1940年) 日本国憲法施行(1947年) NHK紅白歌合戦開始(1951年) 甲子園球場開場(1924年)

■1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、1918年(大正7年)に、日本における米価格急騰にともなう暴動事件。1914年の第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年(大正7年)の中ごろから急激に上昇しはじめた。農業界からの人材流出と米の消費量の増加が続いた事に加え、大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり、米価暴騰の原因となった。
■千人針は、日清・日露戦争当時に関西からはじまり、1931年の満州事変以降、全国的に作られるようになったと言われています。手拭大の木綿布に千人の女性の手により赤い糸で結び目を一針ずつ縫いつけたもの。この布を肌身離さず戦場に赴けば敵の銃弾を避けられると言われた。 モンペは秋冬の農村で保温用・労働用のズボンとして用いられた。昭和の戦争時代には防空頭巾と組み合わせて、女性の防空用服装として着用された。

日本プロ野球結成(1934年)

東京タワー完成(1958年)完成時の東京タワー展望券デザイン

日本プロ野球結成(1934年) 東京タワー完成(1958年)完成時の東京タワー展望券デザイン

ラジオ定着・テレビ放送開始
(1953年)

太陽族流行(1956年頃)

衛星通信・光ファイバー・PHS・
電話機(1990年頃)

働く女性と家庭製品
女性の進出(1960年頃)

ラジオ定着・テレビ放送開始(1953年) 太陽族流行(1956年頃) 石原慎太郎 石原裕次郎 衛星通信・光ファイバー・PHS・電話機(1990年頃) 働く女性と家庭製品(1960年頃)

日本サッカーの飛躍/1198W杯アジア地区最終予選

情報通信の発達
(携帯電話とパソコン)

■太陽族)石原慎太郎の短編小説「太陽の季節」に影響を受け、無秩序な行動をとる若者や、同映画と似たようなファッションをする若者のこと。プチブルジョアに憧れた時代でもあった。命名者はジャーナリストの大宅壮一。太陽の季節 は、石原慎太郎の短編小説。1955年発表。同年第1回文学界新人賞、翌年第34回芥川賞を受賞。裕福な家庭に育った若者の無軌道な生き様を通して、感情を物質化する新世代を描く。
■『3年B組金八先生』(さんねんビーぐみ きんぱちせんせい)は、TBSが1979年以降約30年にわたって断続的に制作・放送している教育ドラマ・学園ドラマである。 名実ともに坂本金八役の武田鉄矢の代表作でもあり、当たり役となった。

日本サッカーの飛躍/アジア地区最終予選 情報通信の発達(携帯電話とパソコン)

■三種の神器(さんしゅのじんぎ)は、日本の戦後の一時期、新時代の生活必需品として宣伝された3種類の耐久消費財のことです。
@1950年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝された。1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した神武景気以降、輸出拡大で日本経済が急成長した時期である。これら3品目の家電は、努力すれば手が届く夢の商品であり、新しい生活の象徴だった。テレビ本放送開始は1953年で、それ以前は電気釜(炊飯器)、あるいは掃除機が代わりに入っていたこともある。A1960年代半ばのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ(Color television) ・クーラー(Cooler) ・自動車(Car) の3種類の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝された。これら3種類の耐久消費財の頭文字が総てCであることから、3Cとも呼ばれた。中でも普及が早かったのは1964年の東京オリンピックを境に売れ出したカラーテレビで、一番遅かったのはクーラーである。

新三種の神器(カラーテレビ、
エアコン、自動車)

「3年B組 金八地先生」

新三種の神器(カラーテレビ、エアコン、自動車) 「3年B組 金八地先生」 TVドラマ

日本の行事・節分

■節分(せつぶん、または、せちぶん、豆まき)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。節分の行事は宮中での年中行事であった。延喜式をひも解くと、宮中ではこの日、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾ったもの。もともと、この節分の鬼を払う悪霊ばらい行事は、平安時代頃から行われている「追儺(ついな)」(矢で鬼をはらう中国の風習)から生まれた。『続日本紀』によると706年(慶雲3年)にこの追儀が始まり、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。節分の日付は現在は毎年2月3日.。

日本の行事・ひなまつり

節分には、豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもある。豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。 私が住む三重県では、イワシ以外にもボラ・エビ・サンマなどバラエティ豊か。挿す枝も、ヒイラギはもとより、椎やウバメガシ、竹、杉、ヒノキなどが使われているとか。呼び名も「アラクサ」「アクサイワシ」「オニノメツキ」「イタイクサイ」「オニカザリ」など様々です。
■東京の浅草、京都の花街、大阪の北新地などでは、芸者(舞妓、芸妓)やホステスが、節分の前後に通常の芸妓衣装ではない、様々な扮装をする。これを「節分お化け」と呼んでいます。
■恵方巻、恵方巻き(えほうまき)は、節分に食べると縁起が良いとされる太巻き、またはそれを食べる大阪を中心とした風習。別称として「丸かぶり寿司」「恵方寿司」「招福巻」「幸運巻」「開運巻き寿司」などと表現されることもある。 節分の夜にその年の恵方に向かって目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされている。

■雛祭り(ひなまつり)は女の子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。ひいなあそびともいう。「男雛」と「女雛」を中心とする人形を飾り、桃の花を飾って、白酒などの飲食を楽しむ節句祭り。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。

流しびな 
(鳥取県 鳥取市)

■「もちがせの流しびな」は旧暦の三月三日のひなまつり、男女一対の紙雛を桟俵にのせ、菱餅や桃の小枝を添えて、災厄を託して千代川(せんだいがわ)に流します。無病息災で1年間幸せに生活できますように願う情緒豊かな民俗行事です。 昭和60年、県無形民俗文化財に“もちがせの雛送り”として指定されています。
画家・原田泰治

流しびな (鳥取県 鳥取市)

日本の行事・七夕

■七夕(たなばた、しちせき)は、日本、中国、台湾、ベトナム、韓国などにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉です。

歌川広重 「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」 (拡大)

歌川広重 画「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」

■七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。天和元年(1681年)11月15日、館林城主、徳川徳松の健康を祈って始まったとされる説が有力。男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年の11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁より)。本来は数え年だが、現在は満年齢で行われる場合が多い。旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。

七五三 絵葉書 1962年

日本の行事・七五三

■日本の古来からの挨拶風景を絵葉書から(絵葉書は拡大します)

日本の古来からの挨拶風景を絵葉書から 1910年 正月の挨拶 日本の古来からの挨拶風景を絵葉書から 1910年 1910年 挨拶の絵葉書

日本人の気質と主張されるもの
お辞儀・敬礼:表向き、目上を尊敬する『縦社会』ということになっているため、このような礼法が発達したという意見がある。無論、心の底はまた別である。
あいさつ:いただきます、ごちそうさま(でした)、ただいま、おかえり(なさい)、いってらっしゃい、いってきます、失礼します(した)、お邪魔します(した)など。

 澳門(マカオ,Macao)の生活風景切手

マカオの切手ですが、何かほのぼのとした光景です。昭和30-40年代でしょうか?日本の原風景にもあったように思います。
(ノスタルジー)昭和の30年代の思い出 家族皆で食事を囲み、夜は雑魚寝! 外で近所の悪がきたちと遊び、疲れて家に帰る。

中国 マカオ 澳門 昔日 生活風景


風鈴屋アイロンかけミシンかけ

路地裏 警官 自転車 石蹴り kitte

路地裏のおまわりさん 石蹴り
私達が子供の頃にはよく路地裏で見かけた光景です。

中国 マカオ 澳門 昔日 生活風景

春聯、小麦粉人形、水飴、洗濯、中秋灯篭、集会、街頭写真、
床屋、オリーブ売り

昔のマカオの生活風景 散髪屋

昔の生活風景(澳門) 散髪屋  

リヤカーもそれこそ少し前まで有りましたが今は田舎より
街中で見かけるようです。

中国 マカオ 澳門 昔日 生活風景

料理屋 金魚すくい


ビアホール(日本以外も一緒ですね。夕涼みがてら
の一杯は堪りません)

(ノスタルジー)昭和の30年代の思い出 そういえば昔、バスの運転席にお花を挿してありましたね。でもフロントガラスに仕切りがあった。 切符を販売回収したり案内をするバスガイドといえば女の子の憧れの職業でもありました。「バス・ガール」という呼び名もあったように記憶しています。
外出や親戚の家に行く時は、よそいきの服を着せてもらって、花見などはささやかなご馳走を重箱に詰めて出掛けた。
道は市内でも殆どが舗装されておらず、土埃が舞い上がっていた。自動車も多くなかったし私の地元ではチンチン電車が大きな交通手段。
溝(ドブ)川が多かった。台風シーズンはよく氾濫した記憶がある。 木製の側溝フタも多く直ぐに流された。
小学生の頃は、ズック靴をはく生徒より、サンダルや下駄の子供も多く、冬でも半ズボン。 靴下でなく足袋でしたね。
当時映画は一番の娯楽だったようです。 

澳門・海上生活の人々

日本占領地・ビルマの農業

日本 占領地 ビルマ 農業 暮らし 切手

▲日本がビルマで発行した正刷
の占領地切手(1943年)

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 香港の生活風景(伝統民間工芸,2003年) hongkong

香港の生活風景 商売 2輪車 小型シート 鳥籠製造、縫製、代書、飴加工、オリーブ売り、髪結い

上左から 鳥籠製造、縫製、代書、飴加工、オリーブ売り、髪結い

 中国の生活風景(春節、旧正月,2000年)

中国の春節(お正月)の行事

■春節(しゅんせつ)とは旧暦の正月である。中華圏で最も重要とされる祝祭日であり、新暦の正月に比べ盛大に祝賀され、中国大陸や台湾のみならずシンガポールなどの中華圏国家では数日間の祝日が設定されている。 春節は正月初一を示す言葉であり、古代においては元旦と称されていた。元とは始まるの意味であり、旦とは日の出を示す象形であることから、元旦は最初に日が昇る一日、すなわち正月を示す言葉となった。
旧暦の正月を祝う風習は文献資料で四千年以上前にさかのぼることが出来る。古代中国の王であった舜は、臣下を率いて天を祭祀した記録があり、これが春節の起源とされる。正月料理も存在しており、一般に鶏(吉と同音)や魚(余と同音)を食べるとされるが、広大な中国の中では地方により正月料理も大きく異なる。北方では餃子が知られており、南方では一年が甘くなるようにとの願いを込めて糖蓮子や元宵、糖年●(こう)を食べる習慣がある。
■五節句の「節」というのは、唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目のことです。暦の中で奇数の重なる日を取り出して(奇数(陽)が重なると陰になるとして、それを避けるための避邪〔ひじゃ〕の行事が行われたことから)、季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うという目的から始まりました。この中国の暦法と、日本の農耕を行う人々の風習が合わさり、定められた日に宮中で邪気を祓う宴会が催されるようになり「節句」といわれるようになったそうです。

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 台湾の民間行事(吉祥:旧正月の行事で、吉祥とは繁栄・幸運を意味)

吉祥とは繁栄・幸運を意味し、吉祥天は幸福・美・富を顕す神とされ、密教においては功徳天ともいわれている。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。

吉祥 幸福の神 昇進の神 長寿の神 快楽の神 (台湾、1991年)

吉祥 幸福の神 昇進の神 長寿の神 快楽の神 (台湾、1991年) 吉祥 幸福の神 昇進の神 長寿の神 快楽の神 (台湾、1991年) 吉祥 幸福の神 昇進の神 長寿の神 快楽の神 (台湾、1991年) 吉祥 幸福の神 昇進の神 長寿の神 快楽の神 (台湾、1991年)
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 英国(イギリス)の中世の生活風景(1986年)と離婚を繰り返した中世の王様・ヘンリー8世の話 

畑を耕す農民

自由な民

騎士と従者

宴会を催す領主

英国(イギリス)の中世の生活風景(1986年) 畑を耕す農民 英国(イギリス)の中世の生活風景(1986年) 自由な民 英国(イギリス)の中世の生活風景(1986年) 騎士と従者 英国(イギリス)の中世の生活風景(1986年) 宴会を催す領主

『ヘンリー8世と6人の妻』 (ルネサンスの宮廷画家 ホルバインが描いたものと思われる) 
妻は左からキャサリン王妃、アン・ブーリン、セイモア、アン、ハワード、パー(1997年、イギリス)

 ヘンリー8世と6人の妻(ホルバインが描いたものと思われる) 妻は左から王の肖像、キャサリン王妃、アン・ブーリン、セイモア、アン、ハワード、パー

ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲"Pastime with Good Company"など)が現存しているなど、文化史にもその名を残している。王の没後450年を記念して発行。熱心なカトリック教徒であったが、離婚問題でローマ教皇と対立し、離脱。自ら英国教会の長となり、以後、結婚・離婚を繰り返す。 詳細は、「ホルバイン」で。

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 お正月のあれこれ

■正月とは本来、その年の豊穣〔ほうじょう〕を司る歳神様〔としがみさま〕をお迎えする行事であり、1月の別名です。現在は、1月1日から1月3日までを三が日、1月7日までを松の内、あるいは松七日と呼び、この期間を「正月」と言っています。地方によっては1月20日までを正月とする(二十日正月・骨正月)こともあります。正月は家に歳神様をお迎えし、祝う行事です。歳神とは1年の初めにやってきて、その年の作物が豊かに実るように、また、家族みんなが元気で暮らせる約束をしてくれる神様です。正月に門松〔かどまつ〕やしめ飾り、鏡餅を飾ったりするのは、すべて歳神様を心から歓迎するための準備です。  そもそも、私たちの祖先は"全てのモノには命がありなんらかの意味がある"という「アニミズム」を信仰しており、作物の生命〔いなだま〕と人間の生命〔たま〕は1つのものであると考えていました。そのため、人間が死ぬとその魂はこの世とは別の世界に行き、ある一定の期間が過ぎると個人の区別が無くなり「祖霊」という大きな集団、いわゆる「ご先祖様」になると信じられていました。この祖霊が春になると「田の神」に、秋が終わると山へ帰って「山の神」に、そして正月には「歳神」になって子孫の繁栄を見守ってくれているのだと言います。
■鏡開きは、一月十一日に、歳神に供えた鏡餅をおろして割り、雑煮や汁粉に入れて食べる行事です。鏡割りともいいますが、。割るとか。切るという忌み言葉を避けて、鏡開きといいます。 これは中国の風習で、元旦に、にかわのような固いあめを食べて延命長寿を祝福する儀式がありました。それが日本に伝わり、宮中の「歯固め」の行事となったものです。歯は、齢(よわい)のことで、のちに鏡餅のような固いものを食べる風習になり、「鏡開き」を行うようになったといわれています。
■どんど焼きは十五日に行われる火祭りで、正月に飾った門松、注連縄、書き初めなどを焼く行事で、十五日に行います。左義長ともいいますが、三鞠打、三毬杖、三本張、と書いて、それぞれサギチョウと読ませます。新年に毬を杖で打つ行事があり、その杖を三本組み合わせて、燃えしろを寄せかけて火をつけたことから、その名がついたともいわれています。また、どんどというのは、爆竹の音や火の勢いを形容していうようになったようです。 どんど焼きの火で、餅や団子を焼いて食べたり体を温めると災厄をまぬがれるとか、火にあたると若返るとかいわれていました。火が高く上がるほど吉兆だともいいます。全国的にも地方によっては「とんど」、「どんど」、「どんだら焼き」、「どんどろ祭り」、「おんべ焼き」、「さいとう焼き」、「ほっけんぎょう」、「三九郎焼き」、「ほじょり」、「ほうじょり」などがあり、東日本では「才の神焼き」、東海地方から西日本では「左義長(さぎっちょ)」などとも呼ばれています。
 

名張市美旗中村の新年の無病息災などを願って正月飾りなどを燃やす「どんど焼き」用の、昔ながらの約17メートルのどんど。350年以上前から続いています。頂上にはわらの馬の飾り物もつるされ、竹柱の根元には高さ約2メートル、直径約3.5メートルのかまくら型のわらの台(スツーバ)をつくり、お椀(わん)を伏せたような形になっています。(拡大します)

名張市美旗中村の「どんど焼き」 名張市美旗中村の「どんど焼き」 名張市美旗中村の「どんど焼き」

■12月13日は「正月事始め」と言われています。
正月事始めとは、新しく迎える正月に新しい年神様を迎えるための諸準備を始める最初の日とされた日で、この日より大晦日までの31日までに正月の準備を順次すすめていきます。
12月13日には、正月事始めの最初の行事である「煤払い(すすはらい)」が行われました。古くは煤払いが終わったら、「松迎え」といって雑煮を炊くための薪や門松に使う松を山に取りに行く習慣があり、新年の年男が新年の恵方の方向にある山に出かけました。花柳界や芸能関係などでは正月事始めの行事として残っているものの、一般的には正月事始めの日が重要視されなくなってきています。

暮らし・生活・風習・世相・行事に関する切手と絵葉書

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